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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『はるかな星』 ロベルト・ボラーニョ

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前書きにもあるように、これはボラーニョの初期の作品『アメリカ大陸のナチ文学』の最終章に出てくる、ラミレス=ホフマン中尉の話を大幅に改稿し、一篇の小説としたものである。その話を「僕」に教えてくれたのは、アルトゥーロ・B。ボラーニョの他の作品にも作家の分身として登場する人物だ。『アメリカ大陸のナチ文学』の最終章の出来に物足りなさを感じたアルトゥーロは「僕」と共に、一か月半かけてこの物語を完成させた、という。

作家が自身の分身と対話しながら物語を完成するという設定は、自己の複数性という小説のテーマを仄めかしているが、要は、何冊でも書けそうなネタを贅沢に一冊の中にぶちこんだ小説を書いてしまった作家が、ネタの持つ価値に気づき、それだけで一篇の小説を書いてみたいと思ったのだろう。その熱の入れようもあってか、ボラーニョらしいミステリ仕立ての本作は、読者をぐいぐいと作品世界の中に引き込んでいく迫力を持つ。

アジェンデ政権時代のチリ、文学部の学生だった「僕」は、同じ詩の創作ゼミで、金髪で痩身、頑健な体躯の美丈夫、アルベルト・ルイス=タグレという二、三歳年上の男と知り合う。彼は「僕」と親友のビビアーノが思いを寄せる一卵性双生児のガルメンディア姉妹を夢中にさせていた。ほどなくして、クーデターが起きる。混乱を避けて実家に戻った姉妹はルイス=タグレに襲われ、「僕」は収容所に入れられてしまう。そんなある日の夕暮れ、一機の飛行機が空中に煙で詩を書くところを目撃する。カルロス・ビーダーというパイロットこそあのルイス=タグレであった。

斬新なパフォーマンスでチリの新し物好きの賞賛を浴びることになったビーダーは、最後となる航空ショーの終わった深夜、自室に親しい者を集めてパーティーを開く。そこで、招待客が目にしたのは、部屋の天井や壁に貼られた猟奇殺人を証拠立てる夥しい数の写真だった。ビーダーはその夜限り姿を消すが、その後生死についていくつもの噂が錯綜する。

四十代になった「僕」をバルセロナに尋ねてきたのは、アベル・ロメロという刑事だった。人に頼まれてビーダーを探している。協力してくれれば金を払うという。「僕」は、ロメロが集めた同人誌やガリ版刷りの冊子の山の中からビーダーを探し始める。幾つもの仮名、変名を使い分け、人種差別的な雑誌や反ユダヤ系雑誌に詩や評論を発表し続けるビーダーを「僕」は、ついに発見する。

チリがアジェンデ政権下にあるときルイス=タグレと名乗る男は周りの左翼的な若者とは距離を置きながらも詩の創作に励んでいた。ところが、クーデターの後、軍事政権が権力を握ると、彼は右翼ファシストとしての姿を現し、多くの人を殺す。その後、飛行機で詩を書くパフォーマー、カルロス・ビーダーとして名を馳せるが、サディスティックな猟奇的殺人者としての一面を披瀝して地下に潜る。それ以降は、異名を用い、マイナーな雑誌に、オカルティズムやナチズム反ユダヤ主義、SM的嗜好を表明する多くの作品を寄稿する詩人として、一部の熱狂的な読者に支持される。

カルロス・ビーダーの文学的軌跡を追い続けるのは、これも作家の分身であるビビアーノだが、ビーダーについての執拗な探索は、反語的な方法による自己の発見である。自分の方がビーダーを読むのであって、決してビーダーに自分が読まれてはならない。というよりむしろ、ビーダーによって自分が読まれないことを恐れているようにも読める。作家にとって、書くことは読まれることを意味する。名前は幾つもの名に変わっていても、ビーダーはその糞のような作品をつねに供給し続ける。そこにはその糞のような主張を受け止める読者がいるということだ。それに対し、かつてビビアーノや「僕」が師事していたファン・ステインやディエゴ・ソトといった詩人は、詩を棄てて革命家になったり、ブルジョワ知識人として幸せな家庭生活を送ったりするものの、最後は殺されてしまう。

これはドッペルゲンガーを描いた作品である。「僕」もビビアーノもカルロス・ビーダーに自分を重ねながら、重なることを恐れている。カルロス・ビーダーが体現しているのは紛れもなく「悪」であるが、何故か「僕」たちは、その「悪」に魅入られている。「悪」の持つ力が人を惹きつけるのだろうか。書かれているのは、糞みたいなプロパガンダなのに。糞みたいな「悪」が、世界を席巻する時、「悪」を容認できない詩人は、ペンを銃に持ちかえるか、ペンを棄てるかしかないのだろうか。チリのクーデターは、「僕」や他の詩人の生き方を大きく変えてしまったが、チリにはアベル・ロメロがいた。今しもクーデターのさなかにいる我々の中から、アベル・ロメロは出てきそうにない。考えさせられることの多い小説である。