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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ひとり居の記』 川本三郎

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表題はメイ・サートン『独り居の日記』から。川本三郎は自作のタイトルのつけ方が上手い。アッバス・キアロスタミ監督の映画タイトルをちゃっかりいただいた『そして、人生はつづく』の続篇が、この『ひとり居の記』。どちらも、漢字を仮名にしたり、読点を入れたりすることで、リスペクトする原作とかぶらないように気をつけている点が、本好き、映画好きの作家らしい配慮。

本や映画ゆかりの地を訪ねて、ひとり汽車に乗り、地方に残る昔なつかしい町を歩く旅を紹介する、このての本はいくらでもあるように思うのだが、ついこの人の本だと手にとって読みたくなる。名所旧跡はおよそ登場しない。グルメにも興味がない。それでいて小さな町の公立図書館を訪れて、自作が何冊所蔵されているのか検索してみたりする。この無邪気さがいい。ちなみにわが市の図書館で検索をかけると、共作を含め約百冊が所蔵されているから、たいしたものだ。

名所旧跡やグルメの代わりによく登場するのが、駅舎である。鉄道ファンなのだ。ハーフ・チンバー様式のしゃれた山小屋風の駅舎の写真が載っている。わざわざ写真にするほどの駅舎か、と思ってしまうくらいの建築なのだが、好きな人にはたまらないのだろう。年齢のせいか、近頃は寺や神社に関心が出てきたらしく、古墳や神社の森がモノクロームの写真で収められている。『我もまた渚を枕』の頃は、よくぶらりと銭湯に入ったりしていたものだが、遠くまで足を伸ばす旅がふえたからか、これもまた年齢のせいか、湯上りの一杯のビールが消えたのがちょっとさびしい。

荷風散人を手本にしての下町歩きからはじまった川本三郎の町歩きも、少しずつその範囲を広げ、今回は北海道や鹿児島はおろか台湾にまで足を伸ばしている。しかも、めずらしいことに車まで使っているのには訳がある。新幹線が通るようになったことが話題になる背景には、地元民の足であるローカル線の廃線が続く問題がある。以前なら鉄道で行けたところが、今では車を使わなくてはたどり着けなくなってしまった。初出は「東京人」という雑誌だが、東京のことはあまり出てこない。もっとも「東京人」は、アメリカの「ザ・ニューヨーカー」に倣ったネーミングだ。話題は東京に限ったことではない。

鉄道ファンではないので、駅舎も高架レールも、それだけでは特に面白いとは思わない。ただ、さすがは映画評論家。地方の小さな駅が映画に出ているのによく目をとめている。けっこう映画は好きなほうだが、たかだか何カットかの場面に出てくる駅を記憶しているのはすごい。映画の話は多いので、それを話題にするときりがないのだが、ひとつだけ。久し振りに映画館でキャロル・リード監督の『第三の男』を観たときの話。

いま市販されているDVDはアメリカ側のプロデューサー、デヴィッド・O・セルズニック版だが、その日、上映されたのは、イギリス側のプロデューサー、アレクサンダー・コルダ版だった。この二つ、有名な冒頭のナレーションの語り手が異なっているというのだ。『第三の男』は、回想譚だから冒頭のナレーションは物語を誰の視点で語るのかを示すものだ。セルズニック版では、ジョセフ・コットン演じるアメリカ人作家。コルダ版ではトレヴァー・ハワード演じるイギリス人大佐(声は、キャロル・リード)だという。

アメリカ版は、観客を意識して、語り手を自国人にしたのだろうが、リアルタイムで観ていなかった評者などは、当然のことながらジョセフ・コットンの視点で映画を見ていた。本来のイギリス版で観ていたら、どんな感想を持っただろう。川本三郎は「すごくこまかいことだが」とことわりを入れているが、これはけっこう大きいことだと思う。

ひとつだけ気になることがある。ソウルフードという言葉の使い方だ。川本氏のお気に入りの回転寿司店のことを講演会の主催者と話したとき、「「あそこは盛岡の人気店ですよ」と教えてくれた。福田パンと並ぶソウルフードらしい」というところ。確かに、近頃では日本各地でいろいろとソウルフードと呼ばれる食べ物が出てきている。けれど、福田パンはともかく、もともと、その地でなければ食べられないというものではない回転寿司を、ソウルフードというのはどうだろう。お気に入りの店なのかもしれないが、これでは贔屓の引き倒しにならないか。

これで終わると、なにか文句をつけているように思われるといけない。いかにも川本三郎というエピソードを紹介して終わることにする。猫好きの川本氏だが、今はマンションに独り住いで、おまけに仕事柄旅することが多く、飼いたくても猫が飼えない。そこで猫に会いに行く。福島で開かれた岩合光昭氏の写真展では会場に「いわき街ネコ」人気投票というコーナーがあった。来館者が気に入った「街ネコ」の写真に一票を投じるのだが、「いちばん票の少ない猫に一票入れた」という。敗者に肩入れせずにはいられないところが、いかにも川本三郎である。