青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『地図と領土』 ミシェル・ウエルベック

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素粒子』を引っさげて颯爽と登場してきたとき、評判につられて読んでみたが、セックスを前面に出した作風になじめないものを感じ、本作が邦訳されたのは知ってはいたが読まずにすませた。ところが、先ごろの『服従』の評判を聞きつけ手にとってみると、その小説作法は円熟味を見せ、セックスに関する関心は相変わらずながら、それを扱う手際が鮮やかで、小説を被うコミカルなタッチと相俟って、艶笑譚風な趣きすら感じさせる仕上がりになっていた。これはと思い、未読であった本作を今頃手にしたという次第。

読後、人類や人類がつくりあげた工業製品で溢れた世界が、時が過ぎゆくままに錆びつき、ほろほろと崩壊していったあとに、丈高い草や潅木が繁るにまかせた草原や森がどこまでもうねうねと続いてゆく光景が眼に浮かんだ。社会や芸術、人間存在のあり方について言いたいことは有り余るほどあり、それについては熱い思いもあるのだが、自分が生き、そしてやがて死ぬことが決まっている、すぐそこにある未来に向け、透徹した眼差しをもつ者だけが抱く、空虚な明るさに満ちた虚無感が全篇に漂う小説である。

作品を発表することで、スキャンダラスな話題を提供することが好きなミシェル・ウエルベックのことだ。主要な登場人物のひとりに、ほぼ等身大で自身に重なる作家を実名で登場させ、持論を展開させたり、まるでそこだけがピエール・ルメートルの手になるフレンチ・ミステリになってしまったかのようなサイコ・パスによる残虐な殺人事件をストーリーの中に突然嵌め込んでみせたり、鬼面人を驚かすような仕掛けは相変わらずだ。

ただ、小説中に自分を登場させ、とんでもない目にあわせるのも、フランスの政界やテレビ業界の有名人を実名で登場させたり、カメラや携帯電話、自動車の企業名や機種を羅列したりしてみせるのも読者の関心を引く手でもあるだろうけれど、ウケねらいというだけではない。深さの程度に差こそあれ、小説の主題に関わっているのだ。

主人公ジェドは、写真や絵画、映像作品を通して自分の伝えたいことを表現するアーチスト。そのジェドを視点とする限り、話題は必然的に芸術をめぐるものとならざるを得ない。過去から現在に至るビジネスとアートの関係。年老いた父をめぐる現代人の死生観の問題。観光ビジネスがフランスの地方文化に及ぼす影響等々が、ウエルベック本人や主人公さらにはその父の口を借りて言及される。

全体を通して読み終わった時、そこに残るのは孤独で静謐な人生を生きたひとりの芸術家の一生を描いた芸術家小説を読んだという印象である。ジェドは、互いに物を作り出す立場にある者としてウエルベックに心を通わせてゆく。特に、ウィリアム・モリスを例に力説されるのは、ルネサンス以降の芸術家のあり方に対する批判だ。ボッティチェリやレオナルドは工房に大勢の職人を抱え、彼らは指示を与えるだけで、その仕事の大半は、君主や教皇への対応に追われていた。それは現代の企業の社長のようなものであって、芸術家としては退廃的だ、といった主張である。この意見表明には単に読んで面白いだけの小説ではなく、作品に作家自身の問題意識を鮮明に打ち出すことを恐れない作家としての思いがこめられているのだろう。

この小説の眼目は、ジェドというアーチストを通して架空のアート作品を創り出すところにあるといっても過言ではない。器械、工具等をフラットに撮影した写真から活動をはじめたジェドは、初の個展にミシュラン製の道路地図を写真撮影した作品群を選ぶ。ぼんやりとした航空写真と比べ、道路や目的地が鮮明に写し出されたそれらの作品はプレスの活躍もあって注目され注文が殺到する。次にジェドが手がけたのは、近くに店を開く職人の肖像を描くことだった。カメラを絵筆に持ち替えたそれらのシリーズはビル・ゲイツジョブズがチェスをしている場面を描いた作品にまでたどり着く。職人の手仕事を描くところから始まったシリーズが、ガレージで手作業をしていた男が大金持ちの実業家になったところで終了するのが象徴的である。それらを集めた個展を開くに際し、カタログの執筆者としてジェドが選んだのがウエルベックだった。ウエルベックによるジェドの作品解説は、架空の作品についての架空の解説ということになる。個人的にはここが最も興味深かった。

しかし、小説家としてのウエルベックの成熟は、実はそれ以外のところにある。オルガというロシア系女性との報われることのなかった恋愛を描いた部分のしみじみとした味わいはこの作家にはめずらしいほどの抒情性に満ちて切々と読む者の胸にしみる。小さい頃に母に自殺され、仕事で忙しい父の手で育てられたジェドは、人との関わりを求めない。いわゆるデタッチメント。美しいオルガを悔いなく去らすジェドに共感できる人なら他の小説では得られない手応えを感じるにちがいない。

ジェドはウエルベックの人生をまねるように小さい頃の思い出が残る祖父母の家を買い取り、晩年をそこで孤独に過ごす。作品が売れ莫大な資産を手に入れはしたが、父に死なれ、オルガとはよりを戻せない。ジェドは広大な敷地を電流入りの金属フェンスで囲い、死ぬまでそこで撮影をし続ける。残された作品には、隠棲した老アーチストの目に見える世界が映し出されていた。架空のモンタージュ映像のはずが、作家の筆により、まざまざと眼に浮かぶのが小説というものの力だろう。実は小説の終わるのはここでも近未来。預言者的とでもいうのか、今のままで行けば自分たちの社会がどう変わるのか、というところから目を離せないのがミシェル・ウエルベックという作家なのかもしれない。