青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『無垢の博物館』上・下 オルハン・パムク

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主人公のケマルは三十歳。父親から譲り受けた輸入会社の社長である。引退した大使の娘で美人で気立てのいい婚約者スィベルとの結婚も間近だ。そんなある日、買い物に寄った店で昔なじみと久しぶりに再会する。フュスンは遠縁にあたる娘で十八歳になったばかり。幼かった少女は見ちがえるような美人に変貌していた。ケマルはフュスンをアパルトマンに誘い、関係を持つ。

結婚を前にした男が、突然目の前に現われた美女に心奪われ、婚約者を放っておいて、アパルトマンで昼休みに逢引きをくり返す。それだけでもとんでもない話だが、ホテルで開かれた婚約式にフュスンを招待し、美しい許婚を見せつける、という暴挙に出る。そうしておきながら、姿を消したフュスンが忘れられず懊悩する。

婚約者の憔悴しきった様子を心配したスィベルは、療養を兼ねて別荘での婚前同居を提案する。イスラムの国であるトルコでは、結婚前に処女を失うことは不名誉なこととされている。しかも、結局最後に事の次第をスィベルに打ち明けることで、婚約は解消される。ケマルは、フュスンの処女を奪っただけでなく、許婚の名も傷つけたことになる。

これだけでもじゅうぶん愚かしく思えるのだが、ケマルの異様さが際立つのはここからだ。自分の前から姿を消したフュスンを捜し歩き、親友に手紙を託す。やがて消息が分かる。フュスンは結婚して両親と同居していた。相手は新進の映画監督でフュスンの主演する映画を計画中。それを知ったケマルは資金提供を理由に、フュスンの両親の家に入り浸ることになる。

ただ愛する女の傍にいたいがために、結婚している女の夫や両親と食事をしたり、テレビを見たりする生活を八年の長きにわたって続ける、ケマルという男の執着心の強さにただただ辟易する。それも手一つ握るわけではない。時にからむ視線を待ちわび、ふとした拍子に擦れあう肌の感触に心を震わせる。フュスンの触れた食器や口にしたサイダーの瓶といった品をポケットに忍ばせて自分のアパルトマンに持ち帰り、始終もてあそぶ。

究極のフェティシズム。俗にいうフェチである。それだけではない。愛する女の傍にいて、その女が夫と口づけを交わしたり、抱き合ったりするところを見続けることを厭わないというのは、本人が意識していないだけで、これはもう立派な(というのも変だが)被虐趣味としか言いようがない。しかし、その一方でケマルは、フュスンの映画出演を妨害し、夫が別の女優を用いるように仕向け、フュスンと疎遠になることを期待してもいる。離婚となれば自分が後釜に収まることができるからだ。

男の視点から愛する女の心理を推し量ったり、それによって一喜一憂する男の心理を描くところなど、プルーストの『失われた時を求めて』を思わせる。また、長きにわたって一途に一人の女を思い続けるところなど、ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を思い起こされる。また、年端のいかない女性に対する執着という部分では、ナボコフの『ロリータ』を思い出させる。どれも素晴らしい名作ばかりだが、それらと最も異なるのは、読んでいる時のスケール感の小ささだ。

何かというと、ケマルの親友が経営する会社が売り出し中のサイダーが持ち出される。コカ・コーラの台頭によって脅かされ、トルコ国内の業者によって安価な偽物が作られ、伸び悩むこのサイダーがひとつの隠喩になっている。オルハン・パムクによって描かれるトルコという国は、西欧に憧れ、西洋化に励みながらも、その模倣は猿真似の域を出ない。模倣者の悲しさで、まねようとすればするほど、その差異が目についてしまうのだ。

ケマルはイスタンブルでは上流階級に属し、彼のまわりには社交界らしきものも存在する。しかし、プルーストの描くそれとは比べ物にならないお粗末さで、ケマルもそれは承知している。トルコを舞台に小説を書こうとすれば、当然つきまとう後進性を逆手にとって、作家はむしろ意識的にトルコの持つ矮小さ、猥雑さ、不徹底さを前面に持ち出そうとするように見える。週に四日も通うフュスンの家での晩餐に並ぶのは、トルコの家庭料理だし、皆でテーブルを囲んだ後に待っているのは俗悪なテレビ番組だ。フュスンの夫が撮った映画は芸術映画とはとてもいえないお定まりのボリウッドならぬトルコ映画。このあたりの自虐的な戯画化は、むしろこの作品の評価されてしかるべき点だろう。

「無垢の博物館」とは、ケマルがフュスンの家からくすねてきた小物を中心に据えたコレクションを展示する私的博物館のことで、世界中を放浪し、多くの博物館を訪ねまわったケマルがフュスンを偲んで、その追懐に耽るため、フュスンの住んでいたアパルトマンを買い取って改装したものだ。展示物の解説のために、ケマル自身が執筆を依頼したのが、旧知の作家オルハン・パムク氏。関係者に取材したパムク氏が、ケマルの視点で執筆したのがこの小説、という体裁になっている。

自身の他の作品に登場する人物であるコラムニストのジェラール・サリク氏(『黒い本』)や、詩人Ka(『雪』)などをさりげなく配し、いつものようにイスタンブルという都市の持つ魅力をじゅうぶんに生かしきった作品構造――新市街と旧市街、ボスフォラス海峡に面した上流人士が集う別荘地と昔ながらの人々の生活が垣間見える下町の風情といった対比――を用意し、更には、右派と左派の攻防や爆弾テロ、軍事クーデタといったトルコの現代史をケマルの恋愛事象の背後に点綴するなど、手馴れた手法で長丁場を乗り切っている。

正直なところ、こんなに長くする必要があるのか、と思うほど、事件らしい事件は起きない。最後近くになってはじめて印象的な事件が起きるのだが、オルハン・パムク氏は視点をゆるがせにすることがない。フュスンのとった行動やその心理をどうとるかは読者にゆだねられている。八年に及ぶ、ケマルの訪問期間中、フュスンの言ったことや身ぶりを思い返しながら、読者もまたケマルと同じように思案するしかない。そのための上下二巻なのかもしれない。