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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『裏切りの晩餐』 オレン・スタインハウアー

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これぞエスピオナージュと呼ぶにふさわしい一作である。作者はジョン・ル・カレの後継者と呼ばれているというから、その評価のされ方がどれくらいのものかが分かる。読後の印象をいえば、ル・カレから英国人臭さと、独特の文章のあやを取り去ったらこんな感じになるのかもしれない。慎重な構成、巧みなプロット、彫りの深い人物造形、恋愛や結婚に対するシニカルな視線等々、後継者を名のる資格はじゅうぶんにある。

主人公は二人。そして、その二人が交互に話者となって、過去の事件と現在二人が陥っている状況について語る構成になっている。巻頭に置かれた「謝辞」でもふれているように、作者はドラマを見ていて「レストランのテーブルですべてが起こるスパイ小説」を書いてみたいと思いついたという。たしかに、すべてではないにせよ、ほとんどがレストランのテーブルで起こっている、という点で、きわめて珍しいスパイ小説といえる。ル・カレにもこんな手法の小説はなかったのではないか。

ヘンリーは現在はオフィスで働いているが、六年前のウィーン時代はバリバリの外回りのスパイだった。当時、大使館のオフィスで働いていた同僚のシーリアとは互いの部屋でベッドを共にする関係だった。その後二人は別れ、シーリアは引退した実業家と結婚してアメリカに帰り、今では二人の子の母親となっている。物語は、ヘンリーが、すでに現役を退いた元スパイであり、かつての恋人シーリアのもとを訪ねようとする機上から始まる。

ヘンリーは飛行機で眠れない。六年前ウィーン空港で旅客機がテロリストに乗っ取られ、乗客全員が死亡するという悲惨な事件が起きた。当時直接その事件に関係していたからだ。実は、事態がそこまで悪化した原因として、大使館の中の誰かがテロリストに情報を漏らしたのではという疑惑があった。事実は疑心暗鬼のまま闇に葬られていたのだが、ここに来て内部調査の手が入った。ヘンリーはそのためにシーリアに会おうとしているのだ。

裏切り者は誰だったのか、という謎を追ってスパイと元スパイの闘いが始まる。しかし、闘いの場はウィークデイのためか閑散としたレストラン。元恋人同士の久しぶりの再会を祝す晩餐である。表面上は穏やかに近況を報告しあいながら、少しずつ間合いを詰めてゆく二人。運ばれてくる料理やワインも味わいながら、過去に何があったかを細大漏らさず数え上げてゆく。バーテンダーとウェイトレス、二組の相客という限られた数の登場人物で進行していく緊迫のドラマは、まるで舞台を見ているようだ。

その間に過去の回想シーンが挿入される。舞台は大使館のオフィス。登場人物はそこで働くスパイ仲間とやはり人数はしぼられている。情報漏洩の電話の出所は指揮を執るビルの部屋だが、ドアはいつも開いていて、事件の最中、すべての者が出入りしていた。シーリアがつかんだ手がかりは通話記録にあった通話相手がアンマンにいることを示す数字と、試しにかけてみた相手のロシア語らしき言葉だった。

スパイという仕事はひとつ誤れば命が危ない。たとえ相手が愛する人であったとしても自分の命を守るためには裏切ることさえためらわない。そんな非情な仕事に携わる男と女の文字通り命を懸けた闘いを、アクションではなく言葉で、路上や秘密のアジトではなく、一般客もいるレストランでの晩餐を舞台にして描くという、作者の苦心の試みは成功したといえる。晩餐の席上、真相が少しずつ明かされてゆくのだが、合間合間に回想や通話記録を挿入して謎解きを進めていく手際は上質のミステリにも通じる鮮やかさ。

しかし、最後に明らかになる真実は、やはりエスピオナージュならではの苦い味わいだ。それまでのいかにも西海岸風の明るさが背後に遠のき、男と女の相容れない世界が暗く冷たい相貌を現す。このあたりの風合いは、まさにル・カレの後継者という呼び名を首肯せるものがある。それまでに張っておいた伏線がピリッと効いたいいオチが待っている。