青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『イエスの幼子時代』 J・M・クッツェー

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タイトルだけ読めば、聖書に材を得た子ども向けの物語か、と勘ちがいしてしまいそうだが、いやいやとんでもない。イエスなんかこれっぽっちも出てこない。近未来の世界を舞台にしたディストピア小説の型を借りたこれは、人間と、人間が生きる社会について真正面から真剣に考えるための手がかりを与えてくれる、一種の思弁小説である。

と書くと、いかにも真面目そうで、とっつきにくいと受けとられてしまいそうだが、この小説は、とても面白い。興味深い、という意味でも面白いのだけれど、読んでいる途中で、くすっと笑えたり、にんまりしたり、という意味でフツーに面白いのだ。それでいて、語られていることは、けっこう哲学的。人はどう生きるべきか、歴史には学ぶ意味があるのかないのか、と大上段に振りかぶる。

「人はパンのみにて生くる者にあらず」という言葉も出てくる。食べ物のような物質的なことばかりに執着するのでなく、精神的なことにも心を傾ける必要がある、というような意味だ。ところが、過去を捨て、新しい言葉を覚える訓練をして、やっと新世界に来てみれば、食べることができるのは、毎日食パンと水ばかりじゃないか、と主人公が文句をたれる、その文脈でさっきの言葉が引用されるのだ。つまり、人はパンばかり食べていては生きている気がしない。たまには血の滴るようなステーキが食べたい、それでこそ人間というものだと言っているわけだ。この皮肉。

主人公の名はシモン。この名前はノビージャに来る前にいたキャンプ地でつけられた。おそらく前に住んでいたところに住んでいられなくなって、申請してノビージャに迎えられた。ここに来るために乗った船で、ダビードという少年と連れになる。ダビードはノビージャで母と会うはずだったが、首から下げていた書類の入った袋を海に落としてしまう。シモンは、少年の母親探しを手伝うことにした。

ノビージャに到着した二人は、住む所と職を探す。アナという係の女性によって当座の部屋を得るが、そこにいたるまでの官僚主義的なやりとりに対するシモンの苛立ちがビンビン伝わってくる。悪意があるのではない。少しずつ分かってくるが、ノビージャの住人たちは善意の人々であり、当座の金に困っているシモンに、港の荷役の主任アルバロはすぐに金を貸してくれる。人夫たちも何かと声をかけてくる。

それでいて、話をしているとどこか噛み合わない。まず毎日が食パンと水でもいっこうに気にしていない。性欲に対しても、その気になれば処理できる場所はあるらしいが、シモンのように親しくなった女性とそうなりたいと思う気はないようだ。女性の方も同じで、アナははっきりその行為やそれに使用する器官は美しくない、と口にするし、エレナはシモンの欲求をはねつけないが、自分はちっとも良くないようだ。

小説は、ダビードの母探しとシモンの感じるノビージャに対する違和感を軸として進んでいく。「幼子時代」とあるように、このあと「学校時代」が続くようで、これ一冊でストーリーは完結しない。シモンとダビードの母(となった)イネスは、学習不適応を理由に矯正施設送りにされそうなダビードを連れて町を離れることにする。「幼子時代」は車に乗って旅に出た一行が、ヒッチハイクの若者ファンを仲間に入れたところで幕を下ろしている。

過去の暮らしと断絶し、まったくの新世界での珍奇な見聞を語る、という設定はスウィフトの『ガリバー旅行記』を思わせる。そういう意味でこれは寓意小説の趣を持つ。シモンにとってはノビージャの人々の考え方は普通ではない。ノビージャの人々にとってはシモンの価値観が理解できない。これは、ロシア・フォルマリズムでいうところの「異化体験」である。互いに理解しがたいシモンとノビージャ人が出会うことで、どちらもが、今まで当たり前と思っていたことを括弧にくくってもう一度考え直すという作業をし始めるのだ。それは、きっと世界を更新することにつながるにちがいない。

シモンは、男と女がいて、どちらかが、あるいは双方が好感を持ったらセックスに至るのは当然のことだ、と考える人物である。また、食事に関しても腹を満たすだけでなく別の欲求をも満たしたいと考える。毎日何度も梯子を上り下りして荷下ろしをするより、クレーンを使って仕事をすれば、その空いた時間をもっと価値あることに使える、と考える。どこにでもいるごくごく普通の男性のように見える。

しかし、シモンがそれを力説しても、ノビージャの人々は、それに合意することはない。食べ物だってないわけではない。あるところにはあるようだが、アルバロはたいして欲しいとも思わない。クレーンの導入についてもその効果については懐疑的である。そもそも力仕事を蔑視するようなシモンに対して批判的である。力仕事をした後はよく眠れるではないか、という批判はある意味正しい。

ノビージャの社会は、ソフトでクリーンな管理社会である。住む所や衣服は貸与されるし、やる気があれば就業後、哲学を学ぶことも、美術コースで人物クロッキーを習うこともできる。そこでは、食べ物も無料で食べられる。セックスに対する欲望の処理のためには慰安所めいた施設まである。ただ、ダビードが担任教師に反抗的態度をとり続けると、施設行きを進められることからわかるように、管理に対する不服従は許さないという規律はある。

今ある秩序に対して必要以上に変化を求めたり、不服を言い募ったりしない限り、最低限の生活は保証するというのが、ノビージャの不文律らしい。エレナもアナも賢く優しく親切で男性から見れば魅力的な女性である。しかし、性に関しては非常に反応温度が低い。シモンでなくとも、洗脳教育にも似た教育を受けた人たちを前にしたときに感じる独特の不可侵領域の存在を感じるのだ。因みに「ノビージャ」というのはスペイン語で「若い雌牛」の意味を持つ。さらに言えば「未経産牛」。何やら意味深ではないか。

人間の数が増えればまず食糧が必要になる。何らかの理由で食糧自給が難しくなった国にあっては、性に対しての欲求が肉食系から草食系に変化することで人口調整はたやすくなり、必要な人口は難民の移住でまかなうことができる。形而下的な欲求は最低限満たし、形而上的欲求はかなりの程度満足感を与えておく。ノビージャという社会の管理者はそう考えているのではないか。

他人の子の代父となり、母親を見つけてやって共に旅に出る。処女のまま母になるイネス、母となる女性との情交なしに父となるシモン。他人には理解できない言葉を自分の言葉として語るダビード。しかもダビードは、近づく人々を自分の同行者にしたがる性向がある。この小説が聖家族をモチーフにしたものであることが分かってくる。

非才のため、多くの隠された手がかりを見逃している。なんでもそうだが、よく知っていなければ値打ちを見定めることは難しい。これはそういう書物である。ただ、それでも面白さは分かる。続篇を読めばもっとわかってくることもあるだろう。ノビージャについての視界も開かれてくるにちがいない。是非とも続きが読みたくなる。