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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『遅い男』 J・M・クッツェー

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自転車に乗っていたポール・レマンは車に衝突されて右脚の膝から下を失う。医師は義肢をつけるよう促すが、彼は承知しない。60歳を過ぎた今、新しいことに慣れたいとは思わないからだ。離婚し、子どももいないポールは、退院後、介護士の世話を受けなくては生活ができない。しかし、やって来た介護士は、老人相手にいつもやっているのか、赤ちゃん言葉であやすような態度をとる。少し前まで、自分で何でも出来ていた男にはそれが我慢できない。

派遣の介護士が何人も交代した後、やってきたのがマリアナ・ヨキッチ。痒い所に手が届くマリアナの介護を受けるうちに、ポールは彼女を愛するようになる。ところが、クロアチアからオーストラリアにやって来たマリアナには、夫と三人の子がいた。マリアナに好かれたいポールが長男ドラーゴの学資援助を申し出たことが、夫ミロスラブの怒りを買い、仲の好かった家族に亀裂が走る。そこに謎の女性作家が介入し、話は俄然ややこしくなる。

老年に入りかけた孤独な男の妄想による奇行という点は、『ドン・キホーテ』に似る。本人は真剣だが、周りから見れば愚行でしかない、というところも似ている。ただ、三人称限定視点で語られているが、話者は主人公の中にいるため、読者もまたポールの目で周囲の人物を見て、ポールの耳を通して話を聞いているわけで、その苛立ちや焦慮を共に味わうことになる。

今まで特段、困ることも孤独感も感じることなく日を送ってきた男が、突然の事故によって一気に障碍者となってしまう。一人では満足にトイレにいくこともできない。シャワーを浴びようとして転倒し、背中を痛めて立つこともできず、そのうち湯が水に代わり、体が冷えてくるあたり、我がことのように怖くなる。そんな中で、マッサージを受け、家事の手伝いもしてくれる女性に好意以上の気持ちを感じるようになるのも無理はない。

体が不自由になったことで、今までさほど感じてこなかった性に対する欲動が刺激されるのも理解できるし、部屋に閉じこもりきりでは、毎日訪れるただ一人の女がその対象とされるのも当たり前だ。つまり、ポールの世界は事故を経過することで、ロシア・フォルマリズムでいうところの「異化」されたわけだ。一方、女の方は介護士として、これまでに何度もこういう状態は経験済みであり、男の気持ちに気づいても相手にしない。金に困らない身であるポールは、下心を隠し、代父役を申し出ることでマリアナの好意を得ようとする。贈与の応酬を期待するわけだ。

インテリっぽく回りくどいやり方が、かえって関係を悪化させ、マリアナは疎遠になる。そんなところに現れるのが、デウス・エクス・マキナであるエリザベス・コステロという老女性作家。突然やってきては、ポールのこともマリアナのことも、果ては一度病院で見て気になっていたサングラスの女性のことも言い当ててポールを驚かす。

実はこのエリザベス・コステロという人物はクッツェーの他の作品タイトルにもなっているノーベル賞作家で、言ってみれば作者の別人格。作家が自分の作品に実名で登場する手法もポスト・モダン文学の世界では珍しくもなくなったが、それまで全然ポスト・モダンっぽくなく、ゴリゴリのリアリズム小説のように見えていた『遅い男』のなかにコステロが突然顔を出して、引っ掻き回すのが笑える。とはいっても、あくまでもリアリズム的な立場は崩さない。主人公との対話を通じて、事故によって閉じてしまった男の世界を開こうと試みるのだ。

このお節介焼きのおばさんのことは、八方ふさがりに陥った主人公の状況を打開するために、作家が呼び出したアルテル・エゴと理解すればいい。そう考えれば、ポールの知っていることを知るのも、ポールの知りえないマリアナの家族事情に詳しいのも合点がいく。もともと小説は、作家が好きなように書くものだから、どんな状態で、どんな人物を出そうと、読者が知ったことではないのだ。と言わんばかりの強引な手法をしれっと使ってみせるクッツェーという作家、とんだ食わせ者である。貶しているのではない。むしろ褒めている。コステロが出てきたことで小説世界がぐっと広がる。

パソコンでも、写真でもそうだが、新しいものに対して試してみようともしないポールという男を、喧嘩してまで新しい世界に引き込もうとする、この女なかりせば事故後のポールは誰とも会わず、部屋に引きこもったままの人生を送ることになっていただろう。ポールが動き出すことで、それまでポールの目を通して見えていた世界が、いかに主観によって歪められていたかが分かる。この主人公の変容がよって立つ世界を変化拡充していくところが実に美しい。

齢六十をこえれば、自分の世界というものは、あらかた固定されてきている。そのまま人生の終焉にむかって進んでいくものと誰しも感じている。それが他者からの圧力によって思ってもみない境遇に強引に放り込まれる。その理不尽さに対する違和感たるや想像すらできない。それを小説家はやすやすと(かどうかは知らないが)やってのけるのだから凄いものだ。その寂しさ、辛さ、怒り、喜び、飢渇感、とどれも他人事とは思えない。小説というものの力を改めて感じさせてくれる一冊である。