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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『海に帰る日』 ジョン・バンヴィル

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妻を病気で亡くして間もないマックスは夢を見た。夢のなかで自分は今の歳でありながら少年だった。自転車が壊れ、足を怪我し、誰もいない田舎道を歩いていた。「日が暮れかかっているのに、雪のなかをひるむことなく歩き続ける哀れなでくの坊。行く手には道路しかなく、帰っても歓迎される保証はないのに」。まさに、日暮れて途遠し。この夢は、長年連れ添った伴侶を亡くし、これからどうしたらいいのかと呆然自失する男の心象風景そのものだ。

というのも、マックスは、もともと何者でもない人間だった。彼には個性がなかった。個性の代わりに、生まれや育ちによって彼に与えられたもの――感受性や性癖や考え方や階級的な癖の寄せ集め――を彼は嫌っていた。彼の願いは何者かになることだった。彼は美術史家になった。だが、それは、結婚によって妻アンナの資産が得られたからであった。彼はアンナによって、自分自身になれたのだ。そのアンナを喪失したことで、マックスはアイデンティティ・クライシスに襲われる。

わたしたちは、もし自分自身でなかったら、だれだったのか?哲学者たちによれば、わたしたちは他人を通して定義され、他人を通して存在するのだという。バラは暗闇でも赤いのか?音を聞く耳が存在しない遠い惑星の森のなかでも、木が倒れるときには凄まじい音を立てるのか?

今のマックスは暗闇の中のバラであり、聞く耳のない森で倒れる木だった。この頼りなさは、ある年齢を経て、人生の下り坂に入った人でなければ分からないかもしれない。一生の仕事を持っていて、やるべきことが常にある人ならいいが、多くの人間はそうではない。社会から切り離され、夫婦という単位が唯一の拠り所となり、いつまでも一緒に余生を過ごすつもりでいた。その世界がある日突然崩壊してしまう。

マックスは夢に誘われるように、妻と暮らした家を売りに出し、少年の頃一家で夏休みを過ごした海沿いの町を訪れる。当時、海食崖の上に別荘が立ち、ゴルフ場を隣接したホテルの建つ町にはいろいろな人がやってきた。月単位で借りられるサマー・ハウス<シーダーの家>を借りたのは、グレース一家だった。マックスははじめ、肉感的なミセス・グレースに恋し、やがてその娘であるクロエを愛するようになる。みずみずしい少年期の性の眼ざめであった。

今はミス・ヴァヴァソーが管理する<シーダーの家>の一部屋を借りたマックスは、そこで書きかけているボナール論の原稿を前に回想に耽る。クロエとの出会い、映画館でのキス、海辺の小屋での出来事。またある時は、アナとの出会い、そして別れ、と次々に浮かび上がる過去の情景。娘クレアの言う通り、マックスは過去に生きていた。


彼女を通して、わたしは初めて他人の絶対的な他者性というものを経験した。つまり、クロエを通して、わたしは初めて客観的な他者として現れたといっても過言ではないだろう。(略)それまでは世界は一つでしかなく、わたしはその一部だったが、いまやわたしがいて、わたしでないすべてがあった。


他者性を獲得するということは、ひとくちにいえば、無垢な時代を脱したということだ。マックス少年は、自分の育つ環境を厭い、親を疎ましく思い、サマー・ハウスに長逗留するグレース家に憧れ、近づく。倦怠期にある夫婦と男女の双子、そしてまだ若い家庭教師のミス・ローズ。広場に立つ小屋を借りている自分との階級差に恥ずかしさを感じながらも、ピラミッドの上の方に上りつめたいと願うのだった。

わがままで、同じ年頃の少年たちを見下しているクロエにつきまとい、しだいにグレース家に出入り自由の位置を獲得してゆくマックス。ある日、木登りをしていたマックスは木の下に立って泣くローズとそれを慰めるミセス・グレースの姿を盗み見る。ローズはミスター・グレースに叶わぬ恋をしていたらしい。それがクロエの知るところとなり、二人の関係は以前より険悪なものとなる。そして、あの日がやってくる。

回想のなかで、少年の日の淡淡としながらもそれなりに官能的な経験を思い描きながら、ともすれば崩壊に向かおうとする自己と真摯に向き合う初老の男。こう書くと何やら格好いいが、正直なところ、いい歳をした男の正直な告白というのは読んでいて楽しいものではない。むしろ、読むほどにいやな気持ちにされる。どこがいやかといえば、自分に似ていると思わされるところだ。

美術史家といえば聞こえはいいが、要するに他人の褌で相撲をとっているわけで、自分の書くものに独創性のないことは自分がいちばんよく知っている。自分が何者でもないのは、個性の代わりに生まれや育ちによって自分に与えられた感受性や性癖その他のせい。確立した自分などなく、自分以外の何かによって再生産された自分があるだけだ、という考えは、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ』を読んで、文化資本という存在に気づいて以来とり憑いて離れない。

謎めいた過去の出来事に引きずられるように最後まで読んでくると、そこには思いがけないどんでん返しが待っている。謎は最後まで明らかにされることはないが、一抹の救いの残る結末は悪くない。自分を洞窟の聖ヒエロニムスに擬するマックスには微苦笑を誘われる。「ああ、そうさ、人生はじつにさまざまな可能性を孕んでいるのだ」から。