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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『セカンドハンドの時代』 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

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さすがにドストエフスキーの国の話らしく、読んでいる間は鬱々として愉しまず、時おり挿まれる笑い話は苦みが過ぎて笑えず、読語の感想は決して愉快とはいえない。しかし、景気悪化がいっこうに留まることなく、それとともに戦前回帰の色が濃くなる一方の、この国に住んでいる身としては読んでおいた方がいい本なのかもしれない。副題は「『赤い国」を生きた人々」。歴史的にも何かと因縁のある国でありながら、戦後アメリカ一辺倒でやってきた日本にとって、ソ連、そして最近のロシアという国は、近くて遠い国といって間違いはないだろう。

筆者は、昨年(2015年)のノーベル文学賞受賞者で旧ソヴィエト連邦ウクライナ共和国生まれ。このぶあつい書物は、テープ・レコーダーを肩にかつぎ、街頭や個人の家に出向いては無数の人々の声を録音してきたインタビューを文章に起こしたもの。文中にたびたび(沈黙)、と記されているように、筆者は聞き役に徹し、ほぼ相手の話した通り忠実に書き起こしたものと思われる。それだけに、読みやすくはない。内容が内容だけに、感情的になりがちな話し手の息づかいまで聞こえてくるような書きぶりに、こちらのほうまで息苦しくなってくる。

タイトルにある「セカンドハンド」とは、中古品のことで一昔前には、それを略した「セコハン」という言葉はあたりまえのように使われていたものだ。では何がセカンドハンドなのか。ゴルバチョフ主導により行われたペレストロイカ以後、共産主義国家であったソヴィエト連邦が崩壊し、ゴルバチョフの後を受けたエリツィンにより、かつてのソ連ロシア連邦となって資本主義国家への道を踏み出した。しかし、民主主義や自由という言葉にあこがれ、よりよい生活を夢見ていた人々を襲ったのは、失職、預金封鎖、ハイパー・インフレの嵐だった。

かつては技師や研究者であった人々が、国家の方針転換で職をなくし、食べ物を手に入れるために、物売りや清掃人の仕事をして食いつながなければならなかった。そして、その子どもたちの時代、現代ではスターリンの肖像をプリンしたTシャツを着た若者の姿が目立つという。かつて、目にしたものが、批判され打倒されたはずのものがいつの間にか復権し、大手を振って町を席巻している。昔を知る人々にとっては、まるで美しく輝いていた共産主義が中古品になって出回っているという気にもなる。タイトルの由来である。

それにしてもである。人々の口にする言葉が画一的というか、人はちがっていてもまるで同じフレーズを唱えることに驚く。ペレストロイカで皆が夢見たものはソーセージ、それにジーンズ。そして、一時期の混乱を経て、今、ソーセージは確かに街に氾濫しているが、人々の頭にあるのはカネ、カネ、カネだ。人よりうまくやって金を得ることが何よりも大事なことになった。キイチゴ色のスーツを着て、金の鎖をじゃらつかせ、メルセデスに乗った勝ち組が大通りを闊歩する。

昔はこうではなかった。みんな貧しかったが、そのかわり大金持ちが威張りくさるということもなかった。スターリンは偉大だった。ソヴィエトは立派な大国だった。ゴルバチョフは、CIAの手先で、ユダヤ人たちに国を売り渡してしまった。あの偉大なソヴィエト連邦は、一発のミサイルも撃つことなしに共産主義国家を雲散霧消させてしまった。91年のクーデターを阻止するため、広場に集まった人々の口にする言葉は、みなおどろくほど似かよっている。

インタビューに応じる多くが、当時のインテリ階級で共産主義の理念に賛同し、熱心に活動してきた人たちだ。文学好きで、チェーホフプーシキンの全集を備え、劇場に足を運び、舞台を楽しんでいた人々が、ペレストロイカ以後は、生きるために、まずは食べる物を獲得することに自分の全エネルギーを費やすことになる。その空しさを、切々と訴えるのだが、子どもたちには理解してもらえない。ジェネレーション・ギャップは、世界共通でもあろうが、彼らの言うように互いが異なる国に住んでいるというほどの認識までにはさすがに至らないだろう。

べネディクト・アンダーソンによれば、国家とは「想像の共同体」であって、地政学的な概念ではない。そういう意味では、かつてのソヴィエト連邦と、現在のロシア連邦は地理的には共通する部分が多いが、同じモスクワに住んでいても、ソ連当時のモスクワに暮らしていた人々と、現在のモスクワに住む人々は、まったく異なる国の国民であるといえる。ずっと故郷を離れていたモスクワっ子が、ペレストロイカ後のモスクワを見てその様変わりに「ここはモスクワではない」とつぶやいても無理はないのだ。

軍によるクーデターを阻止した人々が狂喜の後、激しい落胆に襲われた理由は、民主主義は突然やってきたりはしないということだった。ヨーロッパは二百年にわたって民主主義を育んできた。ロシアは、一朝一夕には変わらない。アメリカとの軍拡競争に明け暮れ、リベットを打って兵器を作ってきた多くの工場や研究所の閉鎖は大量の失業者を生んだ。おまけに軍縮はこれも大量の失業軍人を輩出した。「自動小銃と戦車しか知らない男たち」は、なすすべもなくウオッカを飲んで女を殴った。

政府の上層部は、共産主義を廃止すれば、民主主義や資本主義が、自然成立するとでも考えていたのだろうか。目端の利いた者が早いもの勝ちにパイを奪い合い、かつてそれなりの秩序の下にあったロシアは、ならず者が力で牛耳る国家になり果ててしまう。目を覆いたくなるような悲惨な状況が、次から次へと語り継がれる。まるで悲劇的作風の短篇小説を大量に集めたものを読まされている感じだ。しかし、これは小説ではなく事実。KGB出身のプーチンが、それなりの支持を得たのは曲がりなりにも治安を回復させたことにある。

西側からは歓喜の声を持って迎えられたペレストロイカの実態が、かくまでひどいものだったのかと、改めて思い知らされた次第。煮え湯を飲まされた世代と、過渡期の地獄を知らない世代にとってスターリンは英雄なのかもしれない。第二次世界大戦の生き残りは言う。「スターリンのことを悪く言うが、スターリンヒトラーに勝利しなかったらロシアはどうなっていたんだ」と。年よりは、スターリニズムの恐怖を知らないわけではない。彼らは彼らの国家の夢をいまだに見ているのだ。想像の共同体である偉大なロシアの夢を。

国家が想像の共同体であるなら、この国にだって憲法に象徴される戦後民主主義の理念を共有する人々の共同体がある一方、戦前の価値観をセカンドハンドで手に入れ、ほこりをかぶったそれを今風に飾り立ててさも素晴らしいものであるように見せる人々がいる。この国もまたセカンドハンドの時代に入りつつあるのではないか。とても他山の石として見過ごせるような本ではない。

全編を通じて感じるのは、人々の語彙が単色であることだ。何人の人の口から唯物的な暮らしを意味するものとして「ソーセージ」という単語が出るか。新興成金の着る服はみな「キイチゴ色」で、他の色はない。言葉がプロパガンダ化しているのだ。この同調圧力の強さは、いったん戦時ともなれば強みだろうが、事態の急変を乗り切る際には弱みとなろう。レミングの暴走と化すのだから。この本から学ぶことがあるとすれば、そこではないか。道を誤らないためには、他人任せにせず、自分の目や耳をつかって、今起きていることを自分の言葉で語り、書きとめていく必要がある。それを反語的に教えてくれているのがこの本ではないのだろうか。