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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『素晴らしいアメリカ野球』 フィリップ・ロス

書評

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このタイトル、丸谷才一の提案によるらしい。でも、どうなんだろう。確かに、内容は野球の話だけど、原題は<The Great American Novel>。そのまま訳せば、『偉大なるアメリカ小説』となる。こちらのほうもちょっと首をかしげたくなるタイトルだけれど、偉大なもの好きなアメリカ人は、小説だって偉大なものが欲しいんだよなあ、くらいは想像できる。ただ、新しくできた国であるアメリカには、ヨーロッパの国々のようにこれが古典、と誇れる文学的伝統がない。

メルヴィルの『白鯨』なんかはそれらしい風格のある小説で、「偉大なるアメリカ小説」の筆頭候補にあがるらしいが、いまだこれ、という定番はないようだ。いわば、いつか書かれるだろう理想の小説の代名詞のようなもの。そこで、ヘミングウェイをはじめ、アメリカの現代作家はいつかは自分たちの手で書かねば、と気負い立っていたわけだ。

で、あの映画にもなった『さよなら、コロンバス』の原作者フィリップ・ロスが、書いたのがこれ。いくら前々から使われている表現にしても、自分から「偉大な」と名のる馬鹿はいない。そう考えれば、これはジョーク、というかパロディだろうと見当がつく。その大事なしかけが、『素晴らしいアメリカ野球』と訳されると、映画『素晴らしきヒコーキ野郎』なんかといっしょくたにされ、パロディ臭が消えてしまう。ここは、『偉大なるアメリカ小説』という直訳でいくべきではなかったのでしょうか、丸谷先生?

その丸谷氏が、書評には本を読んでいなくても、それを読んだら、人に何か言えるくらいの内容紹介が必要という意味のことを書いている。いつもはそれを心掛けて、ネタバレしない程度のあらすじは書くようにしている。でも、これはあんまりだ。というか、何を書けばいいのだろう。濃すぎるキャラクターが招き寄せる悲喜劇のエピソードを脱線に次ぐ脱線で書き継いでいったようなストーリー展開。悪趣味の見本のような小説に仕上がっている。

もし、連合国側ではなく枢軸国側が第二次世界大戦で勝利していたら、世界はどうなっていたかという設定で書かれた歴史改変(SF)小説というものがある。フィリップ・K・ディック作『高い城の男』や、ロス自身の『プロット・アゲンスト・アメリカ』がそれだ。そういう意味で、もし、メジャー・リーグがア・リーグナ・リーグの二リーグ制でなく、三リーグ制であって、三つ目がその名も「愛国リーグ(Patriot League)」だったら、という設定で書かれた、これは一種の偽史(小説)である。

第二次世界大戦にアメリカが参戦し、メジャー・リーグの選手も戦場に駆りだされていた時代。愛国リーグのルパート・マンディーズ球団は、オーナーがホーム球場を軍に供出してしまったため、ホーム・ゲームがなくなり、死のロードに出ることに。さらに、選手層の薄さをカバーするために、往年の名選手といえば聞こえはいいが、三塁ベース上で居眠りばかりしているロートル選手や、俊足だが、まだ14歳の二塁手、義足をつけた捕手、片手しかない外野手、といった障碍を持つ選手がそろいもそろってレギュラーをつとめる。

この連敗必至チームの珍プレイ、好プレイぶりを延々描写するくだりは、泣いていいやら笑っていいやら。先日読んだリング・ラードナーの『アリバイ・アイク』も、奇妙な癖を持つ野球選手の話だったが、あれならまだ許せる範囲内。法螺話ということですむ。『偉大なるアメリカ小説』の場合、いたぶられるのは、身体障碍者だけではない。黒人、ユダヤ人、アフリカ人に小人(こびとが打席に立てばストライク・ゾーンは極端に狭い)、その他書いているときりがないが、日本人も含むWASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタント)でない人種すべてが、嘲笑の対象となる。

移住者が建設した国家であるアメリカは神話を持たない。そのアメリカ人にとって、国民を統合するための神話に代わるのは国技とされるベース・ボールだ。映画『フィールド・オブ・ドリームス』でも描かれている、(シューレスジョー・ジャクソンをはじめ、伝説的な悲劇の英雄にも擬せられる神話的人物に事欠かない。その創生神話を逆手にとって、ここまでやるかという無軌道振りの野球小説を書くロスの真意はどこにあったのだろう。

自身がユダヤ人であり、WASPでないことがアメリカではどういう意味を持つか、いやというほど知っていたロスは、アメリカ人がまっとうなものと信じて疑わないアメリカ人気質を、グロテスクなまでに誇張することで、アメリカ人自身に、その姿を直視させ、さんざっぱら笑いのめしてみせる。ただ、その誇張表現が極端に過剰なため、笑える状態を超えて、むしろイタい。捕球を一人で処理することが難しい隻腕の外野手がチーム・メイトの協力を得て併殺に成功するシーンを描くときは胸がすく。しかし、その選手がトレードで別のチームに行かされると誰も口にくわえた球の処理ができず、むざむざと相手に点を献上することになる。

すべてがこの調子で、ここまで書かなくてもいいだろうに、と思えるほどカリカチュアライズされたキャラクターが引き起こす、ドタバタ劇は荒唐無稽を通り越してハチャメチャ。「面白うてやがて悲しき」アメリカ野球の感が強い。ただ、徹底したスラップスティック劇に、擡頭する共産主義に脅え、何でもかでも共産主義者の仕業と決めつけてかかる議員その他の人々の疑心暗鬼を風刺する作家のシニカルな視線に同調して笑いながらも、本当のところはどうだったのか、と背中に寒いものが走る覚えがしたのも事実。

アフリカに野球の伝道師として出かけた信仰心篤い監督が、原住民の「四球で一塁に行く時も滑りこみしたい」という要求を、野球という制度を墨守するため拒否し、怒らせた相手に磔にされる挿話がある。ステレオタイプの設定の中に、いかにもアメリカ人のやりそうなことがすけて見え、案外、本質は外していないような気もする。アメリカ大統領選にロシアのプーチン大統領命令によるハッカー攻撃が仕掛けられていたなどという話が、オバマ大統領の発言として、報道されるような事態が現実に起きている昨今である。大統領選までネタにして茶化してみせた作家も、今頃、事実は小説よりも奇なり、を実感しているかもしれない。

「スミティと呼んでくれ」で始まる書き出しが、『白鯨』の冒頭をパロっているように、文学的な引用に溢れ、大量の注釈がついている。原則にこだわる主審の喉に速球を食らわせ、球界を永久追放される投手の名前がギル・ガメシュと名づけられているように、すべてにおいて伝説や叙事詩を踏まえている。注釈のついている箇所以外にも、ギルガメシュとエンキドゥの関係など、物語の背後に広がる隠喩の網は想像がつかないほどだ。表面の虚仮威しめいた意匠に騙されず、一歩踏み込んでみると案外豊饒な文学世界が広がっているのかもしれない。一度は読んでおいて損はない。ただし、常盤新平の手がどこまで入っているのかは知らないが、中野好夫訳はちょっと古めかしい。でき得るものなら柴田元幸氏による新訳を所望したい。