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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『本を読むひと』 アリス・フェルネ

書評

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パリ郊外のもとは野菜畑だった荒れ地におんぼろのキャンピングカーがずっと停まっている。そこに住んでいるのは、長い髪にロング丈のスカートをはいた女たちと裸足で走り回る子どもたち、そして一日中何もせずに話し込んでいる男たち。彼らは「ジプシー」。近頃では「ロマ」と呼ばれることが多いが、フランスでは「ジタン」、スペインなら「ヒターノ」と昔から呼ばれてきた。荷馬車をねぐらに各地を放浪しては音楽や占い、曲芸によって、日々の糧を得る人々だ。

常に移動することで定住者とは距離を置いてきたが、最近では定住を選ぶ者も多くなり、それを喜ばない地区住民との間に軋轢が生じることも多い。キャンピングカーで暮らす家族も、かつて宿にしていた無人ホテルを追われ、ここに移動してきたのだ。しかし、好意的だった土地の所有者が死ねば、土地は市の所有となり、ここも出ていかなければならない。そんな家族のもとを訪れる一人の女がいた。これは、あるジプシーの一家と一人のユダヤ人女性の心の交流を描いた物語である。

元看護婦で今は図書館に勤めるエステールは、黄色いルノーに乗って野菜畑にやってくる。一家の長はアンジェリーヌという老婆。五十七という年齢は老婆というほどの年ではないが、顔に刻まれた皴や、真っ黒に穴の開いた虫歯だらけの口では、そう思われても仕方がない。彼女はそこらに落ちているごみを拾ってきては火の中にくべ、日がな一日焚火にあたっている。アンジェリーヌは、自分を怖がらずに話しかけるエステールのことが気に入り始めている。

エステールは、学校にも行かず、冬でも薄着、裸足でそこら中を走り回るだけしか遊びをしらない子どもたちに本を読んで聞かせたいと思ったのだ。一週間に一度水曜日に、エステールは本を車に積んでやってくる。はじめは警戒していた子どもたちも、次第にその日が待ち遠しくなってくる。絵本『ぞうのババール』からはじめた読み聞かせが、だんだん長いものに変わってくる。それと同時に、母親たちとも親しくなってくる。初めは遠くから睨んでいた男たちも、次第に近くに寄ってくるようになる。なかでも兄弟の中で唯一独り者のアンジェロはエステールに恋をする。

プライドばかりが高く、まともな仕事には長く就くことができない男たちに代わって、女たちは少ない水で、料理、洗濯をし、残ったお湯で子どもたちを洗ってやる。食べるものは食堂の残飯を頂戴してくる。冬場はいいが、夏は長くもたないので苦労する。水も自由には使えないので、体や服はいつも臭うし、髪は伸ばし放題だ。しかし、性格はいろいろだが、どの女も自分たちの生活に誇りを感じている。クリスマスには鶏をつぶし、ホームレスを招待してパーティーを開く。夜通し焚火を囲んでの酒盛りだ。無論歌って踊る。

エステールは、アニタという少女が学齢に達していることを知り、学校に通わせたいと思う。しかし、地区住民でないジプシーに学校は冷たい。ジプシーもまた学校は自分たちには縁がないと感じている。事実、エステールの努力で通学できるようになったアニタは、強烈な臭いのせいでいじめに遭う。夜の遅いジプシーは朝が苦手で、アニタは毎日遅刻せずに学校に行くことができない。ジプシーの伝統的な暮らしと一般市民の暮らしとの格差にとまどうエステール。しかし、文盲の苦労を知るアニタの父は学校生活の必要性を感じていた。

子どもと同じ一つ屋根の下で暮らしながら、欲望を抑えられない夫は、いつも妻を求める。妊娠に継ぐ妊娠。時には流産もある。夫はといえば、すぐに暴力をふるう男や、妻を愛しながらも浮気の絶えない男、とろくでもない男ばかり。生まれた子どもは母親に任せっきりで、家事の手伝いなどしない。それではどこかで働くのかといえばふだんの不品行が原因で、まともな職場では使ってもらえない。エステールの向ける、男たちへの視線はなかなかに厳しいものがある。

多くの小説に登場しているジプシーだが、多くは犯罪者だったり、占いなどの特殊な力を持つ者だったりで、話に陰影をつける役割を果たすのみで、ジプシーの家族を正面から描いた小説には不勉強のせいか、あまり出会うことがなかった。タイトルから、本との出会いがジプシーたちを変える物語かと期待しつつ読んだのだが、ある面ではその通りであり、ある面ではちがっていた。変わるものは変わるが変えられないこともあるのだ。

エステールの介入は、ジプシーの一家にとって、それまでは当然のこととして受け取られていた、男への服従や、伝統的な暮らしの継続という決まりに対する揺らぎを生じさせることになる。ある者は夫を捨て子どもを連れて街へと去り、ジプシー暮らしをやめる。アンジェリーヌを核とする、兄弟たちの大家族集団は、すでに維持できなくなっていた。新しい出会いがあり、悲しい別れがある。話者の視点は、常にジプシー一家の傍にあって離れない。「本を読むひと」と題名にあるエステールの帰るはずの家は一度も語られることがない。

『本を読むひと』という表題は、原題通りではない。原題は直訳すると『恩寵と貧困』。貧困は疑いようがないが、キリスト教でいうところの「神の恵み、慈しみ」が、どこにあるというのだろう。サンドロという男の子はコインを拾った幸運が忘れられず、下ばかり見て道を歩いていてひき逃げに遭う。妻に逃げられたシモンは警察の厄介になった挙句精神病院に入れられる。どこに恩寵があるというのか。いや、あるのだ、おそらく。エステールがここに通いつめたのは、そこにあったからだ、恩寵が。アンジェリーヌの語る言葉の中に、野菜畑での日々のつましい暮らしの中に、エステールの語る物語を聴く子どもたちの心の中に。

住む家はおろか家電からIT機器にまで囲まれ、何の不自由もない生活を送っているわれわれ日本人からみれば、何も持たず、何も欲しないアンジェリーヌたちの生き方は、貧しさの極みにあるかのように見える。しかし、濃密な家族間の愛情や、季節の巡りに合った単純素朴な暮らし、本や言葉、文字に対する激しい飢餓感、といったものが今を生きる私たちに果たしてあるだろうか。放浪の民であるジプシーの家族のなかに分け入った闖入者の眼で、子細に語られる日々の裡にこそ、われわれ現代人が見失った何かがある。それは「恩寵」としか呼び様のないものかもしれない。