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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『襲撃』 レイナルド・アレナス

なぜか突然流行のきざしを見せはじめている、これもディストピア小説の一つ。それも生なかのディストピアではない。人間(だろうと思われる)の手は鉤爪に変化しているし、一部の者は足さえ蹄に変わっているようだ。何かの寓話だろうか。とてもリアリズム小説のように読むわけにはいかない。かといって、『モロー博士の島』のような、SFめいた設定を楽しむことを目的にして書かれたとはとうてい思えない、他者蔑視の果ての罵詈雑言、呪詛の嵐のごとき小説である。汚い言葉や残酷な描写の苦手な方にはお勧めできない。

舞台は、<超厳帥>と呼ばれる絶対権力を持つ独裁者が統べる国家。人民は囁くことさえ許されず、へたに声を出そうものなら、囁き取り締まり軍によって処刑されてしまう。逮捕後も裁判、監禁などという煩わしいことはしない。鉤爪で頭をひっかけ、逮捕した者の番号を記入したら、まずは死刑だ。ひどい話だと思うかもしれないが、とんでもない。もっと悪いのは、家族、親族、友人知人は言うに及ばず、関係した者すべてが極刑に処せられる刑もあるのだ。本人だけが死んで終わるなら、軽い量刑と言える。

<俺>という一人称で語られる人物が主人公。というより、<俺>以外に人物扱いされているのは、冒頭に姿を見せてすぐ引っ込んでしまう母親と、終わりの方で登場する<超厳帥>を陰で操る黒幕ではないかと思われる<大秘書官>くらいのもの。後はすべて、有象無象。母親でない他者はすべて何らかの罪を犯した犯罪者で、<俺>には、殺してやりたい母親しか目に入らない。殺す理由は、自分が母親に似ており、このままだとその母親になってしまいそうだから、というものだ。

ディストピア小説というのは、絶対的な権力を掌握する独裁者あるいは組織が生み出した管理社会の非人間的な側面を事細かに描き出すことで、今は気づかれていないが確実に到来するであろう近未来の危機的状況に目を向けさせようとするところがある。『1984年』も『すばらしい新世界』もそうだが、そこに描かれている社会は、カリカチュアライズされた現実社会であり、少し歪んではいるけれど、乱視矯正レンズを透して見れば、そこに見えるのは現実に自分が暮らす世界の少し先に行きついた姿である。

ところが、本作が描くのは、戯画化などというものではない。たとえば、<複合家庭>に暮らす人々は、狭い部屋をあてがわれるのだが、その狭さといったら、一人が寝ている上にもう一人が寝る、という信じられない狭さである。男女を問わず毛髪を伸ばすことを許されず、その禿頭をワックスで磨いて光らせることを義務づけれるなど、悪い冗談を飛び越して、嗜虐的。何が憎くてこうまで執拗に民衆を虐げ苛まなければならなかったのか。

ストーリーというほどのものはただ一つ。母親がいそうな社会の吹き溜まり、犯罪者が集められているようなところに行き、母親を探すこと。ただ、その繰り返し。例えば砂漠地帯では、灌漑と称して棒でつながれた者たちが一列になって地面に唾を吐きかけ続けるというのだから、想像力の極北といいたいくらいのもの。これほど人を虚仮にした扱いをしゃあしゃあと書く小説は、サドの『ソドム百二十日』くらいしか他に知らない。

母を訪ねて三千里ではないが、次から次へと訪ね歩く地で<俺>が見つけるのはいつでも母ではない。それら男とも女とも見分けのつかない者どもは、鉤爪の餌食となって屠られ、肢体は裂かれ、腐肉は膿み、惨憺たる有様はわざわざ言挙げするまでもない。おそらく、次第に過剰になる死体損壊をはじめ、人を人とも思わない獣以下の扱いの惨状を描き、読者が目をそむけたくなるところまで、表現を突き詰めてゆくために、この憎悪をエネルギーにひたすら突き進んでゆく主人公が選ばれたにちがいない。

全体主義国家のパロディとして、官職にやたらと<超>やら<大>がつき、都市の名前にも<超厳帥>が頭についた<超厳帥郷>などという個人崇拝的な名称や誇大な名づけがされている。他にも、ただ「寒い」といえば、軽い罪ですんだものが、「私は寒い」と、自分の感覚をわざわざ強調した点が個人主義的だ、と最大級の罪に処せられるなど、個人主義と言葉や文字を嫌うディストピア社会の有り様は、文化系の学問を軽視したがるどこかの国のようだ。なぜディストピア小説が流行るのかといえば、今それが一番リアルだから。物言えば唇寒し、を誰もが実感していればこそ読まれているにちがいない。明日は我が身、なのだ。

この小説を、よくある共産主義国家をモデルに、独裁者による恐怖政治を描いたディストピア小説として読むことは可能だ。ただ、最後の章、その名もタイトルと同じ「襲撃」が付加されることによって、一気に様相が変化してしまう。いわば、問題が矮小化されるというか、社会や国家を論じていたものが、家族や親子という個人的な次元の物語に収斂されてしまう側面を持つからだ。

結末はある種のどんでん返し的な効果を持つ。単線的で、広がりというものを持たない小説で、それなりの意外性によって読者を惹きつけようと思うなら、この結末しかありえない。途中まで読めば、ある程度小説を読んできた読者なら容易に想像できる、その点が惜しい。最終章に至るまで、終始一貫して主人公のモノローグで通す必要が果たしてあったのだろうか。複数の人物を登場させ、サブ・プロットを設けることもできたはずなのに、あえて<俺>の独り語りに執着した理由とは何か。

何故か、母を頭に着けて「母国」と呼ばれる。母も生国も自分では選ぶことができない。もし、そのために自分では望みもしない生がそこで営まれるとしたら、人は母や国を憎むしかないだろう。自分が肯んじ得ないものの中に吸収されそうに思えたら、人はきっと我が身を守るため、自分を同一化させようとするものから身を剥がそうとする。仮令そのために相手を殺すことになっても。一見するとディストピア小説に見えるこの小説は、もっと個人的、実存的な意味を持つのかもしれない。キューバという他に代えがたい国家に生まれ、フィデル・カストロと同時代を生きた作家ならではの異色のディストピア小説といえよう。