青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『神秘大通り』上・下 ジョン・アーヴィング

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<上下巻併せての評です>

誰にでも人生の転機となった日というものがある。フワン・ディエゴにとって、それは十四歳のとき、父親代わりのリベラが運転していたトラックに過って足を轢かれた日だ。後輪に挟まっていた鶏の羽をとろうとしたところへ、サイドブレーキが引かれていないトラックがバックしてきた。足は潰れ、二時の方向に開いたままになった。障碍を背負って生きることにはなったが、それが自分の生きる方向を決めたことはまちがいなかった。彼は自分が行動するのでなく、他人の人生を観察し、彼らの人生を描く小説家になったのだ。

メキシコのオアハカ。ゴミの山の麓に建つ小屋に、フワン・ディエゴは住んでいた。小屋はゴミの山のボスであるリベラがゴミの中から掘り出した廃材で建てられていた。用済みとなった本をゴミと呼んでは、本好きに叱られそうだが、読者の心に残ったものは、その人の中にいつまでも存在し続け、時にはその人を作る一部となる。だとすれば、本自体は捨てられることにより、他者の手に渡る。そして、次の読者もまた同じことをする。ゴミの山は、金属その他のリサイクル品に限らず、知識や情操を養う宝の山でもあるのだ。そういう意味では、文学や哲学、歴史書の埋まったゴミの山は、そこで育った作家にとっては創作の前線であり、補給路でもある。

山の上からはゴミを焼く火から何本もの煙が空に上り、空にはハゲワシが舞い、地上では犬が吠える。犬の死体はハゲワシの餌食となり、最後はゴミと一緒に焼かれてしまう。時には人さえ焼かれてしまう。ゴミの山から金目の物を拾い集める少年たちはダンプ・キッドと呼ばれた。それが彼らの仕事だった。フワン・ディエゴはちがった。彼の漁るのは本だった。イエズス会の図書館が廃棄した他の宗派によるイエズス会批判の書であれ、小説、批評等の文学書であれ、彼はすべてを読んで、独学でスペイン語や英語を学び、自分の頭で考えることを学んだ。人は彼をダンプ・リーダーと呼んだ。

彼には一つ年下の妹がいた。名前はルペ。グアダルーペの聖母からもらった名だ。喉に障碍を持つルペの話す言葉は兄をのぞいて誰にも理解できなかった。ルペは人の考えていることや、その人が負っている過去、時には未来まで読んで兄に話していたのだ。手に入るのは子ども向けの本ばかりではない。彼はそれを朗読して妹に聞かせる。大人も知らないことを語り合う二人の異様な兄妹はこうして育った。妹の言葉は他の誰にも理解できない。フワン・ディエゴは、人に聞かすことのできない悪口や都合の悪いことはわざと訳さない。二人のやり取りは傍にいても他人には分らないからだ。こうしてルペの言葉は予言や託宣のようなものとして人に伝わることとなった。

ルペによれば、自分たちは奇跡なのだ。特に兄のフワン・ディエゴは。その奇跡を求めてか、何故か少年の周りには人が集まってきた。フワン・ディエゴに教育を与えたいと願うイエズス会修道士のペペ。足を轢かれた朝、アイオワから飛んできた神学生で、彼の教師となるはずのエドゥアルド・ボンショー。無神論者の整形外科医バルガス。良心的徴兵拒否者で体にキリスト磔刑図のタトゥーのあるグッド・グリンゴ(良きアメリカ人)。女性よりも美しいトランスヴェスタイト(異性装)の娼婦、フロール。彼らと巡り会うことで、フワン・ディエゴの人生は大きく動くことになる。

それは、フワン・ディエゴを取り巻く人々にも言えた。彼らは一様に負い目を感じ、人生から逃げていた。バルガスは家族全員が乗る飛行機に酔いつぶれていて乗り遅れてしまった。その機が墜落し、全財産は彼が相続した。彼は自分が許せない。フィリピンの戦場で戦死した父のために良心的徴兵拒否者となるはずのグッド・グリンゴは、徴兵を逃れてきたメキシコで、メスカル酒と娼婦に溺れるメスカル・ヒッピーと成り果てていた。心の優しさを臆病と誤解され、家族と折り合いのつかないエドゥアルドもまた、大学を放棄してイエズス会に逃げ込んでいた。彼らは生の意義を取り戻すために、我知らずフワン・ディエゴを求めたのかもしれない。彼の潰れた足は聖痕(スティグマータ)だったのだ。

主人公フワン・ディエゴは小説が始まる時点で五十四歳。アイオワ大学で学生に創作を教えていたが、引退して作家一本でいこうと考えている。高血圧のため、アドレナリンの放出を抑えるベータ遮断薬を処方されている。そのせいで性欲が減退するのは、バイアグラでなんとかできても、彼の大事な夢を見る能力が奪われてしまうことに不満を覚えている。フワン・ディエゴは五十四歳の作家となった今でも、十四歳当時の記憶を手放すことができないでいる。彼の中には十四歳のフワン・ディエゴが生きている。というか、フワン・ディエゴは二つの自己に引き裂かれているのだ。

引退記念としてフィリピン旅行中の今も、その問題が彼を襲う。薬をスーツケースに入れてしまったのに、大雪のせいでJFK空港で二十七時間も待機中なのだ。フィリピン旅行の目的の一つは、名前も知らないグッド・グリンゴの代りに、死ぬ前に約束した彼の父の墓参りをするというものだ。彼は今回の旅を感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)だという。負い目を感じたまま一生を送ることはできない。十四歳の自分にはできなかったが、今の自分にはできる。なぜなら、彼は作家であり、充分に生きることのできなかった人たちの生を、描くことで再び蘇らせることができるからだ。

アーヴィングは、アドレナリンを抑圧する薬と性欲を亢進する薬の二種類の薬の不都合な摂取により、フワン・ディエゴを十四歳当時のオアハカ時代の彼と現在のフィリピン旅行中の彼を、夢を媒介にして交互に切り替える。夢うつつの状態でいる初老の小説家はバイアグラのせいで性的妄想の虜となり、ファーストクラスで知り合った二人の魅力的な女性に宿泊先や旅程を好きなように変更されても言いなりになる。しかも、その二人の女性は以前にどこかで見かけたような気がするだけでなく、不思議な事実がついて回る。二人とも、鏡に映らず、カメラにも映らないのだ。

初読時は読み飛ばしてしまうのだが、実はこの二人に対する言及は、実に注意深く書かれている。ルネサンス絵画の大作の端に画家が描く自画像のように、誰の目にも止まらないけれど、フワン・ディエゴの目には映っているのだ。まるで守護天使のように、彼の人生が危機的状態に落ち入りそうになると、どこからともなくヴェールで顔を覆った二人の黒衣の女性が姿を現し、危機から脱した時には忽然と姿を消す。二人の黒衣の女性は、足をつぶされたあの日イエズス会の教会にもいたのだ。

初老の作家のエロスとタナトス塗れの一大ドタバタ劇と思春期を生きるみずみずしい二人の兄妹と彼らを見守る大人たちの悲喜劇を、見事なプロットと細部にわたる書き込みを通じて、壮大かつ華麗に描き切ったジョン・アーヴィングの力の入った長編小説である。上下二巻という大作だが、一気に読み通してしまうこと請け合い。とんでもなくおかしいのに、ひどく悲しい、不思議な小説世界はまるで魔法の国だ。表題の神秘大通りとは、グアダルーペの聖母の巡礼が歩く通りのことだが、作品の中で起きるすべてが神秘であり奇跡である。小説そのものが『神秘大通り』なのだ。

人道的な立場からの中絶等に対するカトリックの教義批判、性的少数者に対する差別批判、アメリカが関わった戦争への批判、コンキスタドールによるメキシコ侵略が齎した混乱、サーカスの世界、そのほか多くのテーマが取り上げられている。それら全部について触れるのは無理なので、ゴミの山ならぬ既存の文学から自分の文学を作り出す手法についてだけ、触れておきたい。

フワン・ディエゴが一時身を寄せたサーカス団にいた一座の花形で脚の長い少女ドロレスのことだ。魅力的な少女からただの妊婦へと堕落する少女のドロレスという名は、ナボコフの『ロリータ』を彷彿させはしまいか。また、レストランで何十年ぶりかに会った昔のいじめっ子の昔と変わらぬ強圧的な態度に、その家族の前で、かつて、その男がしたこと言ったことをぶちまけてみせる場面には、ウィリアム・トレヴァーの『同窓生』を思わせる怖さがある。アーヴィングを読むのは初めてなので、自作からの引用については分からないが、旧知の読者なら易々と見つけ出すことだろう。文学から作り出される文学の持つ豊饒さは文学を愛する者には何よりの愉悦である。堪能されたい。