青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『イングランド・イングランド』ジュリアン・バーンズ

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大金持ちが島を買って、金にあかせて島を好き勝手に作り変えてしまうという話が主題の一つになっている。ポオの『アルンハイムの地所』や『ランダーの別荘』に想を得たと思われる江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を思い出させる趣向である。しかし、中身はまるでちがう。ポオや乱歩の自己の夢想に忠実な仮想空間の実現という、ある意味純粋な個人の欲望の具現化に対して、サー・ジャックがやろうとしているのは、観光目的の施設の姿を借りた独立国の創設である。その意味では、既存の国家の中に独立国を作ろうとする井上ひさしの『吉里吉里人』の方が似ているかもしれない。

フロベールの鸚鵡』や『101/2章で書かれた世界の歴史』を書いたジュリアン・バーンズは英国小説界きっての知性派で知られている。歴史に対する懐疑的な姿勢は前掲の二作にも明らかだが、個人の記憶に関して同じ主題を扱った『終わりの感覚』が、いちばん気に入っている。本作が主題の一つにするのも、一つは個人の記憶の不確かさであり、アイデンティティというものが持つ曖昧さである。それは、主人公であるマーサ自身のアイデンティティであり、イングランドという国家のそれでもある。

そういうと、いかにも難しそうな気がするが、三部構成の一部と三部がマーサの少女期、晩年にあてられ、脂の乗りきった中年のマーサが活躍する第二部が、小説の中心であり、サー・ジャック・ピットマンの片腕となって「イングランドイングランド」を創出し、やがてそのCEOとなるまでの波乱万丈の人生はまさに怒涛のエンタテインメント。知性派の側面をかなぐり捨て、とまではいかないものの皮肉と諧謔を椀飯振舞して読者サービスに勤めている。ブッカー賞の最終候補まで行ったのも分かる。

マーサの父は、マーサが子どもの頃、家を出て戻らなかった。多くの子がそう感じるように、両親の離婚の原因が自分にあるように思いこんだマーサは賢く育ったが、神を信じず、皮肉屋で、男は誰もがマーサに惹かれたが、マーサはそうではなかった。成人したマーサは父との再会を果たすが、マーサの記憶の中心部分を占めるジグソーパズルも、父の記憶からはすっぽり抜け落ちていた。最後のピースが失われたせいで完成しないジグソーパズルは、マーサの人生の暗喩になっている。

さて、小説の核となる第二部は、「タイムズ」を買い占め、ワイト島にイングランドのレプリカを作るサー・ジャックという成り上がり男の野望を描く。マーサは、近くにイエスマンばかりが集まるのを厭うサー・ジャックがコンサルタントとして雇い入れた、いわば任命皮肉屋である。そこには、公認歴史学者のマックス博士、アイデア・キャッチャーのポール・ハリソン、その他のスタッフが集まり、アイデアを出し合う。ピットマンは、島内に二分の一サイズのバッキンガム宮殿を造営し、金と甘言を駆使して国王夫妻を迎え入れる。

その名も「イングランドイングランド」という観光施設は、ディズニー・ランドではないと言いながら、まさしくその英国版。ビーフ・イーターもいれば、ロビン・フッドのアトラクションもある、イングランドを満喫するべく造られた総合アミューズメント施設である。イングランドアイデンティティとは何か、をとことん追求してゆくのだが、そこに出てくるのは底の浅い、出来合いのイングランド像であって、アメリカ人や日本人観光客が喜びそうなものばかりだ。

おそらく愛情の裏返しなのだろう。徹底的に戯画化されたイングランド像がそこにある。そこを支配するサー・ジャックもまたその戯画化を免れない。自身は所属しない名門クラブのメンバーにしか許されないサスペンダーをし、唯我独尊。相手を挑発し、すべて自分の思い通りにいかなければ許せない。ある意味幼児的な自我は、赤ちゃんになっておむつをされて喜ぶという秘密の趣味を持つ所に現れている。いつクビにされても文句を言えない立場であるマーサとポールは、サー・ジャックに切られた新聞記者を雇い、その秘密を探り当てる。いざというときはこれを使って強請るつもり。それが功を奏して、ついにCEOに上りつめたマーサであったが、最後のピースは敵の手にあった。

第三部はオールド・イングランドのその後を描く。「イングランドイングランド」を追放されたマーサは、諸国をさまよった後、故国であるイングランドに戻るのだが、国家の実体、つまり経済から情報発信、それに国王まで「イングランドイングランド」に奪われてしまっては、旧イングランドに以前のような威厳は亡くなっていた。国土は荒れるままに放置され、それこそロビン・フッドがいた頃のアングリアに戻ってしまっていた。オールド・ミスと子どもに囃される年齢になったマーサは、故国と自分の来し方、行く末を見つめ感慨に耽る。

このすべてを奪われ、ただただ国民国家以前の旧態に先祖返りしてしまった旧イングランド、現在はアングリアと呼ばれる土地に、何故か不思議に惹かれる。インフラが整備されず、食べる物すら自給自足の産物でまかなうしかない、究極の地場産業スローフードな暮らし方。進歩とも成長とも無縁のありのままな暮らし方。もし、許されるなら、私もそこで暮らしたいとさえ思う。メディア王によって国を丸ごと買い占められたオールド・イングランドディストピアとして描きながら、おそらく、現実としてはあり得ないユートピアを皮肉にもそこに現出させる魔術師のような手捌きにうっとりさせられた。

主題であるアイデンティティについてマックス博士がマーサに説く言葉に我が意を得た思いがした。「私に言わせれば、たいていの人間は自分の人となりの大部分を盗むのだ。そうしなければ、貧しい人間ができあがってしまう。あなただって、意識するしないにかかわらず、大なり小なりそうしたつくりものなのだよ」。このどこか作家自身を彷彿させるマックス博士の言葉をもう一つ引いておく。「愛国心の最も熱烈な同衾者は無知であり、知識ではない」。これもまた然り。