青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『曇天記』堀江敏幸

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どうということのない街歩きの中で出くわした小さな異変をたんねんに拾い集めて、体と心の感じた違和をことばで書き連ねていく。印象としては実に冴えない風景と事件の集積である。歩道橋の上を歩くときに感じる足もとが沈む感じであるとか、ビニール袋の持ち手が破けて本を何冊も抱きかかえて歩く困難さとか、ひたすら地味で読んでいて爽快感の全くない書物である。そう書くと何か否定していると勘違いされそうなのであらかじめ断っておく。これは何度でも読めるし、読みたいと思う本である。

一篇が三ページ以内に収まる短さは雑誌掲載という制約があるため。エッセイのようでもあり、身辺雑記という趣きもあり、そのまま掌編小説と呼びたい誘惑に駆られるあじわいを持つものもある。詩の引用を除けば、ほぼ全篇改行なしという組版は一見晦渋でとっつきにくそうに見えるが、方向感覚がまったくといっていいほどなくて、常に道に迷い続ける「私」の足取りは、そこはかとなくユーモアとペーソスが感じられ、黒っぽい字面から受けるほど読みにくくない。

読みにくくはないけれど、分かりやすくも書いていない。ひとつ例をあげるなら、何某と名前をあげればすむところを、いちいち自分のことばで書き直すので、記憶のしまってある柳行李の底をかき回しながら、これではない、あれでもないと手探りしていまだにわからずじまいの人名がいくつもある。

「家がなくなることについて」の中に出てくる「仏陀の化身のような筆名で多くの作品を残した作家」はすぐわかる。「ランボーからスタートしたんですからね。なんのバックボーンもなかった、だから彼が伝統なんて言ってもフィクションみたいな気がする」と天下の小林秀雄をばっさり切り捨てる、路地歩きの同伴者は吉田秀和でしかありえない。ここいら辺りまではついていける。

「私にとってその人は、監督ではなく役者だった。猫背に猪首、顔立ちは端正なサバンナの怪鳥に似て、いつも少しだけ薬が入っているような血走った眼をしている。背丈がどれくらいあったか知らないけれど、上目遣いで相手を捉えている印象があって、完全な主役にはなりきれない卑屈さを、じつにうまく体現していた。演劇的音痴ではないかと思われるほど絶妙の下手さ加減が魅力の、そのたたずまいを通して、私は肯定的な卑屈さとは何かを学んだように思う」

ここまで書いて、人の気を引くだけ引いておきながら、最後まで名を秘すのは、あんまりではないか。洋画か邦画かもわからない。若い頃に熱心に追っていたというのだから、当方もおそらく見知ってはいるだろう、その人がいったい誰なのか、いくら考えても思い浮かばない。なぞなぞを出しておいて、解答編だけちぎって捨てるようなまねをしている。気になって気になって仕方がない。最後に註を入れるくらいの配慮があってもいいところだろう。

表題の由来は中原中也の詩と、直接関係はないというものの、あとがきにあるように無縁というわけでもないようだ。連載三年目を迎えようとしていた時三月十一日がやってきた。「公の場で繰り返される紋切り型。それを口にする人々のふるまいのいびつさ。表現の水位の、あと戻りできないほどの低下」に中也の「黒い 旗が はためくを 見た」という詩句を思い浮かべている。あまり政治的な物言いをしない筆者が「黒い旗をそのまま半旗にしてしまうような世の流れに与するわけにはいかない」とまで記す。

「後ろめたさと反省」は真っ向から今の行政の姿勢を批判する。「いつの頃からか、日常と呼ばれるものが、話題や情報の消去と忘却の反復でしかなくなってきた。正確には、それを受ける側ではなく、送り出す側にとっての日常ということだ。話題や情報は、反省もしくは答弁と呼ばれるいくらでも代替可能な儀式によって、丁寧に、かつ乱暴に消されていく」

「憂いの方向は、持続としての日常に向けられるべきであり、使い捨ての言葉や血も肉もない記号としての反省でもなく、むしろ「後ろめたさ」(島尾敏雄)にこそ耳を傾けるべきだろう。後ろめたさは、季節の話題や儀式とは無関係に永続する。いったん消えてまたあらわれるという、情報の提供側にとって扱いやすい動きをしない。それは泥濘のようにいつまでも腹のなかに居座り、毒を放ち、また毒をもって日々を支える」

堀江敏幸らしくない文章の引用が続いたが、今現在の状況のなかにいると、何気ない街路を行く詩人の気質を持つ散文家であっても、このような硬質な文章を書かざるを得ないのだろう。安心してほしい。これは例外中の例外で、あとの文章はあまり上手に世渡りのできなさそうな、どちらかといえば心もとない作家が曇天の日を選んで外出した、その記録のような話がほとんどだ。ただ、そのなかに、日を置いてまた読みたくなるような心のどこかにひっかかりの残る何かが置かれている。

じっくりと時間をかけて、少しずつ紐解いていく。気の長い作業がぜひとも必要とされている。一気に読みきれる作品もある。時間をかけ、少しずつ読みほぐしてゆくのに適した書物もある。これはそんな本の一つ。