青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『エリザベス・コステロ』J・M・クッツェー

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人は、基本的に自分の考えを率直に発言することができる。しかし、当然のことに批判や非難がつきまとう。ところが、作家は小説の中で自分の作り出した人物に好きなことをしゃべらせることができる。しかも、自分の代わりにしゃべらせるばかりでなく、自分の考えとはおよそ異なる意見や考えをしゃべらせることもできる。そういう人物をひとり設定しておくというのは、かなりいい思いつきなのではなかろうか。

クッツェーの場合、エリザベス・コステロがその役目をつとめている。オーストラリア出身の作家で、今はかなり高齢ながら、まだまだいろんな場所に出かけて行っては話をする機会があり、インタビュアーや対談相手とのやり取りを通して、自分の考えを明らかにしている。ただし、エリザベス・コステロは、クッツェーという腹話術師の使う人形ではない。なかなか食えない人物で、ある意味クッツェーアルター・エゴである。

性格的には狷介なところがあって、人の発する言葉に反応しては、それとは異なる意見を表明しだす。問題点を明らかにしながら、自分の考えをつらつら述べるわけだが、これがけっこう難物だ。筋を通し、物事を突きつめて考えようとするので、いきおい話は根源的になる。ふつう人はそこまで考え抜いて話をしたりしない。誰もが、相手の批判を喜んで待ち構えているわけではない。ひっかかることはできるだけスルーして、当たらず障らずにすませたい、と内心思っている。

何よりも自由人なのだ。実際に社会の中で生きていれば、そう自分の考えを押し通したり、他人の批判を気にせずやり過ごしたりできるものではない。しかし、エリザベス・コステロは若い頃からそうやって生きてきた。年をとり、体も今までのように自分の言うことを聞いてはくれないけれど、生き方を変えることだけはできない。それでも、不必要なもめ事はできるだけ避けるようにはなってきた。今回も講演の中で取り上げる人物が会場の中にいることを知って、講演内容を書き替えようとするなど、けっこう気を使っている。

エリザベス・コステロ文学賞の授賞式に招かれ長男のジョンとともにアメリカを訪問した時の話が「リアリズム」。自分の仕事を放り出して母親を支えるジョンの目を通して、少し疲れの目立つ作家の公的な生活とその間にはさまれる私事とが息子との真摯なやりとりがリアリズムの手法を通してじっくりと語られる。そして、それがそのまま文学上のリアリズムについて考える極上の「レッスン」となっている。この目の付け所が秀逸だ。

実は、連作短篇小説の体裁をとる、この本の各篇は、クッツェーが大学で行うレッスンのために書かれたものなのだ。因みに各篇の表題を挙げると「リアリズム」「アフリカの小説」「アフリカの人文学」「悪の問題」「エロス」「門前にて」「追伸」と、最後の二篇をのぞけば、ほとんど講座名のようになっている。御心配には及ばない。どれもちゃんとした小説として書かれていて、講義臭などどこにも漂いはしない。

その場に臨んだエリザベス・コステロの当惑やためらい、体の好不調の波、話し相手に対する思いといった実にこまごまとした印象が、まさにリアリズム小説の手法で綿密に描かれているので、その辺に転がっている娯楽的な読み物を読むより、格段に面白く読める。それでいて、話が核心に及ぶと、エリザベス・コステロの考えていることはそんなに簡単に分かるとはいえない。

「リアリズム」の中で、ジョンが母親に、なぜカフカの猿の話(「ある学会報告」)などを持ち出したのか、と聞くところがある。誰もそんなリアリズムの話など聞きたくないのに、と。それに対しては母は答える。「本のページにその痕跡が残っていてもいなくても。カフカという作家は、省かれた場面の間もずっと目覚めているのよ、読者が眠っているのをよそに」と。コステロの代表作はモリー・ブルームが主人公の『エクルズ通りの家』だ。

ジョイスの『ユリシーズ』を読めば分かるが、通りを行くレオポルド・ブルームのその時その時の意識の流れが、実に克明に綴られている。はじめて読んだときは驚いた。普通のリアリズム小説は、そこまでやることはない。省略に次ぐ省略で、話は進められている。「省かれた場面」というのは、それを言うのだろう。読者は場面が省かれていることに気づくこともなく、読んでいるつもりでいる。つまりそのとき「読者は眠っている」のだ。

そう書くと、何やら難しそうに思えるのはこちらの書きようがまずいので、クッツェーのせいではない。『モラルの話』を、読んで『エリザベス・コステロ』に手を伸ばしたのだが、エリザベス・コステロと、ジョンの関係は『モラルの話』に至って、ますます深まっているようだ。レッスンの側面は『モラルの話』にもちゃんと受け継がれているが、よりリアリズム小説的な方向に進んでいるように思える。

長男のジョンが、よき仲介者となって、エリザベス・コステロの考えている世界へ読者をいざなうことができるので、ジョンの登場する作品は読んでいて楽しい。『エリザベス・コステロ』の中でも「リアリズム」がお勧めだ。エリザベス・コステロの用いる方法は、ソクラテスの産婆術に似ている。ジョンは矢継ぎ早に母に議論をふっかけるが、エリザベス・コステロは、何食わぬ顔で次々とジョンの既成概念や思い込みを明るみに引き出し、その考えがジョン自らのものでないことを教えている。

そうして読者は、上出来の小説を読みながら、自分もまたレッスンに立ち会っていることに気づかされるのだ。エリザベス・コステロの繰り出す突拍子もない過去の打ち明け話に翻弄されながら、文学や人文学、悪の問題、エロスについて、いつか自分の頭で考えを組み立て、コステロ相手に議論を仕掛けている自分を発見する。これはナボコフの『文学講義』を、小説化したような、実に手の込んだ読者教育の試みである。