青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『不意撃ち』辻原登

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五篇の短篇というには長い作品で構成された、いわば中篇集。辻原登は間口が広い。今回は時代的には現代に的を絞り、新聞や週刊誌に取り上げられた事件を物語にからませてリアルさを醸し出している。『不意撃ち』という表題作はない。突然、登場人物たちに降りかかる外界からのむき出しの悪意の来襲を意味するのだろう。

巻頭を飾るのは「渡鹿野」。つい最近も「売春島」という刺戟的なタイトルのついた本が出たくらいで、関西に住むある程度の年齢の男性ならよく知る地名である。今は往時の賑わいはないらしいが「志摩のはしりがね」と呼ばれる潮待ち、風待ちの船客を相手にする遊女の暮らした島で、その名残を今に留めている。

東京でデリヘル嬢をしていたルミ子は、殺人事件の現場に行き会う。それをきっかけに同じく現場にいたドライバーの佐巴と連絡を取り合う仲になり、やがて関係を持つ。ルミ子はかつてはルポライターだったが、同棲相手の男が急に失踪し、背後に暴力団の影があることを知り、子どもを親元に預け、今の仕事につくという過去があった。

帰郷する前にかつて仕事で訪ねた島でひと稼ぎをしようと渡鹿野に渡ったルミ子は、天王祭の晩やはり故郷へ帰ることにした佐把とひと時の逢瀬を楽しむ。渡鹿野には現地取材をしたのだろうか。辻原はよく古い日本映画の話を出す。渡鹿野の対岸にある的矢を小津の『浮草』のロケ地と書いているが、あれは大王町の波切ではなかったか。フィクションなので、ルミ子の記憶ちがいということもあるが、気になった。

不意撃ちが起きるのは最後。渡船場でタクシーを待つ佐巴がふと目にする行方不明者のポスターである。行方不明の女性の目許がさっきまで一緒にいた女に似ていると思い、姓名を確認しようとして、タクシーのクラクションにせかされる場面で終わっている。この行方不明者の件は事実である。事実とフィクションの融合は辻原のよく使う手法だが、未解決事件であり、家族のことを思うと、この使い方には疑問を感じる。

「仮面」は、阪神淡路大震災でボランティア活動をし、NPO法人を立ち上げた男女が東日本大震災の被災地に向かう。神戸での経験がものを言い、二人は現場を取り仕切る。そして被災地の子どもを連れ、東京で募金活動をすることになる。美談の陰にある真の動機が主題。当時はとてものことにこういう話は発表できなかったと思う。これにも、実際に起きた事件が大事な役を担わされている。

「いかなる因果にて」は、小さい頃にいじめられた経験を持つ者が何十年も経ってから事件を起こす話にひっかかるものを感じた話者が、自分の友達が教師に平手打ちされた事実を思い出し、亡くなった友達に替わって自分がその教師に会おうとする話。紀伊田辺、新宮と辻原の小説によく登場する土地を舞台に作家自身を思わせる話者の語りが、フィクションとも実話とも判断しかねる味わいをうまく演出している。

「Delusion」は時間だけでいえば近未来。精神科の医師である黒木が女性宇宙飛行士の不思議な体験を聞く。猿渡という女性は誰もいるはずのない宇宙ステーション内で、何ものかがいるという感じを持って以来、未来予測ができるようになる。ただし、自分に関わることだけで、それがいつ起きるかは分からない。人に話しても信じてもらえないので専門家の話を聞こうとやってきたという。他の話とは毛色のちがう話である。

個人的には巻末の「月も隈なきは」が面白かった。定年退職をした男が妻子を置いて、短期間、念願の一人暮らしを試みるという他愛ない話である。ただし行き先も告げず、少しの間、旅に出るとの書置きだけ残し、ある日ぷいっと出て行くので、夫のことをよく知る妻は心配ないとは思いながらも、探偵を雇って居場所を探す。その結果は。

ポール・オースターの『幽霊たち』や、つげ義春の『退屈な部屋』が紹介されている。参考にしたのかもしれない。日常生活に何の不満もない男が、一人暮らしがしたくなる。そこにどんな理由があるのだろう。主人公もよく分かっていないようだ。けれど、週の半分はバイトをし、後の半分は街歩きや映画、将棋といった趣味に時間を費やす毎日は楽しそうだ。

ここでも成瀬や小津の映画の話題が出る。一人暮らしということで山頭火や放哉も登場する。感じのいい飲み屋や食堂、文房具店等の蘊蓄も披露されるので、東京暮らしの同年輩には一種のカタログみたいに使える愉しみがある。ニューハーフとの体験をのぞけば、ヤバい案件は出てこないので、安心して読んでいられる。この年になると、あまり刺激の強いのは心臓に悪い。自宅の近くに、ひっそりと部屋を借りて隠れ住む程度の冒険でも結構どきどきするものだ。