青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ライオンを殺せ』ホルヘ・イバルグエンゴイティア

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この国は今や独裁国家である。ちょっと前まではラテン・アメリカ文学によく登場する独裁者小説を面白がって読んでいたけれど、今では面白がってなどいられない。何もちがわないからだ。日本は民主主義国家で、人権が保障されている先進諸国の仲間入りを果たしていると思っていたのは、つい昨日のような気がするが、報道の自由度を見れば一目瞭然。クーデターを起こした連中がまず最初にやるのは報道機関を押さえることだ。現政権はそれを銃ではなく、寿司や焼き肉で可能にしたのだからたいしたものだ。

マスメディアさえ押さえてしまえば、あとは御用学者や幇間タレント、三文文士を使って、嘘をばらまけば、大衆は為政者の言うことを嘘ではないかと疑いながらも周りを見ながら、皆信じているのだからそれが本当なのだろうと思うようになる。一度そうなったら自分を守るために、そっちの側に加担する。批判者が出れば皆で叩く。そうして、真実でないものが大勢を占め、独裁政権は盤石となる。それが独裁国家というものだ。

一度そうなってしまえば、政府側の人間のやることをいくら批判しようが、独裁なのだから三権分立などないわけで、いくら悪いことをしようがおとがめなし。以前なら新聞やテレビが騒いで、世間を鎮めるために泣いて馬謖を斬る必要もあったが、今では頬冠りして時を待てばいい。ほとぼりが収まったところで、減税で恩を売った企業に天下りさせたり、政府に都合のいい事実を提供する名ばかりの第三者機関の長にするなどやりたい放題だ。

そうなってしまえば、いくら国会で追及しようが数の力で押し切られ、何の解決にもならないのはここ数年で嫌になるほど知らされた。選挙でどうにかなるのは、独裁国家となるまでのこと。選挙も金次第でどうにでもなる。一度箍がはずれた桶からは、水は駄々漏れだ。いろいろなところで信じられない不正や汚職、文書の改竄が起きるのも、漏れだした汚水と考えればよく分かる。さて、こんな国をどうすればいいのか。

表題の「ライオン」は独裁者のことである。我が国のようなソフトな独裁国家では独裁者は必ずしもカリスマ的なマッチョである必要はないが、マチスモが一般的なラテン・アメリカ諸国では、軍事的独裁者は強くなければならない。その点、独立戦争における活躍で「英雄少年」と称された現大統領、陸軍元帥ドン・マヌエル・ベラウンサランは、まちがいなしの「ライオン」であった。なにしろ、沖合の燧石島にある砦に立て籠るスペイン軍を急襲するのに、マチェーテ(山刀)一振りを口にくわえて裸で海を渡り、敵を全滅させたくらいだ。

アレパの現行憲法では再選が禁じられているベラウンサランは大統領選に右腕のカルドナを出馬させた。その対立候補である穏健党のサルダーニャの死体が海から引き揚げられるところから話は始まる。殺ったのはベラウンサランと分かっているが、その本人から捜査を命じられた警察は別の犯人を仕立てて銃殺する。権力者が無理を通せば、周辺にいる者がその無理を通すために、その何倍もの無理を通さなくてはならぬのはこの国に住む者ならよく知っているはずだ。

希望を断たれた穏健党の同志は、海外に移住して一流大学を出たペペ・クシラットを次の候補として選ぶ。三か国語を話し、乗馬もゴルフもすれば、鹿も撃ち、飛行機も持っている。三十五歳という若さも魅力だ。「飛行機で来てくれれば、選挙戦の勝利は間違いない」というのが笑わせる。アレパでは誰も飛行機を見た者がいないのだ。狭い島国である点でアレパは日本に似ている。国民は広く世界を知らず、また知ろうともしない。自分たちにないものを持っているというだけで憧れは賞賛に替わるのだ。だからあんなに外遊ばかりするのか。

お祭り騒ぎで待ち受ける島民の前に姿を現したクラシットだが、大統領と会ってみて、立候補は見送ると決める。国民は大統領を選ぶと踏んだからだ。クラシットに期待していた穏健党のシンパで富裕層のベリオサバル家の妻アンヘラは落胆する。クラシットはアンヘラに真意を打ち明ける。大統領を殺す、と。そう、たとえ、どんな悪党であろうと民意をつかんだ現職を相手に落下傘のように舞い降りた候補者が勝てるはずもない。しかし、法を改悪してまで現職にしがみつく独裁者を放置できない。ならばできることは、殺すことだ。

この小説は、大統領暗殺の計画が、何度も挫折するのをコミカルかつアイロニカルに描いてみせる。肥って来てはいるが、ベラウンサランは今でも燧石島陥落記念日にはかつてのように泳いで海を渡って見せる。民衆はその姿に歓喜する。それに比べ、穏健党の同志たちは、口ばかりの日和見主義で全く頼りにならない。頼みのクラシットもせっかくベラウンサランに弾を撃ち込みながら、防弾チョッキのせいで、傷を負わせることもできない。その挙句、かえって追われる身になる。

地の文の文末が現在形で終わっているので、戯曲のようだと思ったら、もともと映画の脚本として書かれたらしい。それもあるのだろう。三人称客観視点で通されていて、話者は登場人物から等間隔の距離を置き、特定の人物に寄り添うことがない。人物は突き放され、舞台の上で右往左往しているのだ。そんな中、意外な人物が最後に脚光を浴びる。颯爽と登場した貴公子然としたクラシットを助けたのは、貧乏教師のペレイラだった。

金にも教養にも恵まれた一流人士がなしえなかったことを、ヴァイオリンが弾けることだけが頼りの全くマッチョらしからぬ貧乏教師が最後に思いもよらぬ働きをしてみせる。この結末には強烈なアイロニーがある。政治的なイデオロギーも、選ばれた階級であるエリート層の使命感も、そんなものは何の頼りにもならない。事を起こすのは一人の人間に突然降りてきた何かをしなければという思いである、というのが結論なのだから。

ラテン・アメリカ文学というと途方もない奇想や奔放な出来事が次々と襲いかかるマジック・リアリズムを期待するかもしれないが、これはそういう種類の小説ではない。むしろ、端正な戯曲のような小説だ。それでいて、映画の脚本らしく、急ごしらえの飛行場に着陸するブレリオや、ベリオサバル家のパーティーの場面、闘鶏場に向かう大統領の車を襲撃する場面など、映画的な興趣に富む場面もふんだんに用意されている。後に映画化されてもいるようだ。独裁政権とどう立ち向かうか、我が身と引き比べながら読むと一段と味わい深い。