青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『何があってもおかしくない』エリザベス・ストラウト

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しっかり二度読み返した。とはいえ難しい話ではない。各篇に一人の話者がいて、ほとんどモノローグで、自分とそのすぐ近くにいる人々について語る、ただそれだけの話だ。特に何があるというわけでもない。貧しい暮らしを送ってきた中西部、イリノイの田舎町の人々の話である。田舎町の常として、人々はほとんどが知り合いで、一族の昔のことまでよく知っている。中には、人に知られたくないこともあるが、田舎人の楽しみというのは、他人に噂話をすることだ。それもひとかけらの遠慮もなく。

全九話。ひとつひとつが互いにどこかでつながっている。ひとつの話の中で話題に上る人物が、次の話の語り手を務めている。そうやって、多くの視点で多層的に語られることで、トウモロコシ畑と大豆畑とがどこまでも続く中西部にある田舎町アムギャッシュの佇まいや、そこに生きる人々のつましい生活が、鮮やかに、というのではない、薄汚く、わびしく、嫌らしく。それでいて、泥水の中にきらりと光る滑石のような、悲哀の底に沈む救いのようなものが最後に顔をのぞかせる。やりきれない話の集積の中、それが唯一の救いとなる。

九つの短篇をつないでいるのは、若い頃に町を出て行き、今はニューヨークに住む作家ルーシー・バートンその人である。立志伝中の人物というのは、こういう人のことをいうのだろう。子ども時代は相当貧しかった。父はベトナム戦争から帰って来ておかしくなった。いわゆるPTSDである。母親は仕立物をして一家を養った。子どもは三人。長男がピート、長女がヴィッキー、末っ子がルーシーである。

学校でもいじめられた。それでもルーシーは学校から帰りたがらなかった。その頃のことを用務員をしていたトミー・ガプティルは今もよく覚えている。巻頭を飾る「標識」は、そのトミーが語り手をつとめる。トミーは自分の酪農場が火事になり、借財を返すため土地を売って学校の用務員になった。トミーは時々一人暮らしのピートの家を訪れるが、ピートはそれを喜ばない。トミーの酪農場の火事は父の仕業で、トミーはそれを思い知らせるためにやってくるのだと思い込んでいる。

実は、トミーはずっと自分が搾乳機の電源を切り忘れたせいだと思っていた。ピートの父は仕事中手淫をしているところを雇い主のトミーに見とがめられたことを疎ましく思っていたのだ。トミーは火事に遭ったことを悔やんでいない。何が大切なのかを教えてくれた神の啓示だとさえ思うほどに。トミーは笑われると思って誰にも言っていなかったそのことをピートに話す。根っから善良なトミーの存在は、この田舎町の救いであり、この小説を静かに照らす灯りでもある。

人物相関図が必要と思えるくらい関係が入り組んでいる。まず、ルーシーの同級生でナイスリー姉妹の末娘パティは、高校の進路指導を担当していて、ヴィッキーの娘ライラに、子どもがいないことを性的な経験がないせいだと揶揄される。実は、夫は継父に性的虐待を受けて不能になり、パティはパティで母親が他の男と寝ているところを目撃して以来、性行為を嫌悪しており、夫婦仲はよかったが子どもはできなかったのだ。勢いでライラに汚い言葉を吐いたパティは翌日謝罪し、ライラもパティに心を開くようになる。

小説の深部で常に響いているのが、戦争後遺症であり、児童虐待であり、性的少数者の問題であることは論を俟たない。それが表面上に浮び上ることはないが、様々な要因が相乗的に積み重なり、とんでもないところで問題を起こす原因になっている。戦争にさえ駆り出されていなければピートの父もチャーリー・マコーリーも、性に溺れたりせずにすんでいただろう。すっかり変わってしまった夫の扱いに疲れた妻は子どもに辛くあたり、ルーシーたち兄妹は虐待に近い扱い受ける。

パティの姉のリンダや、パティの同僚で仲のいいアンジェリーナの家族の話も挿まれ、ルーシーたち兄弟と同じく貧しい暮らしをしていたメイベルとドティー兄妹も立派になった姿を見せている。ゴミ箱の中に入り、まだ食べられる食べ物を漁っていたメイベルは今では空調会社の社長に収まっている。ドティーはB&Bの経営者だ。二人の逸話も味わい深い。ルーシーとの距離の遠近により、語られる内容の深さや軽さに変化があって、深刻になりがちな話の中で程よいバランスを保っている。ただ、その中にもやはり性的抑圧は姿を覗かせている。どこまでいってもそれはついてくるのだ。

アムギャッシュに久しぶりにルーシーが帰ってきて、三人兄妹が再開する話が「妹」。視点人物は兄のピートである。有名人になった妹を出迎えるために、ふだんしたこともない掃除をし、ラグまで買いに走る兄が微笑ましい。しかし、兄や姉の昔話を聞くうちにルーシーはパニック発作を起こしてしまう。会いたくて帰っては来たが、帰郷は蓋をして覆い隠していた過去を一挙に引きずり出してしまう。作家となった今でも、ルーシーは真実に向き合うことができない。ルーシー・バートンの思いもかけない脆さが痛々しいが、ピートやヴィッキーの真情が垣間見え、読んでいてうれしくなる。読者にとって、ルーシーが実在するようにピートもヴィッキーも生きているのだ。

ニューヨーク・タイムズ』紙の書評がうまいことを書いている。「なぜストラウスを読むかと言うと、その理由はレクイエムを聴くのと同じだ。悲しさの中にある美しさを経験する」。そういう小説世界が好きなら絶対にお勧めである。いうまでもなく『私の名前はルーシー・バートン』の続編、いわば姉妹編である。『史記』でいうなら「本紀」に対する「列伝」。短篇集ながら、フォークナーのヨクナパトーファ・サガにならって「アムギャッシュ・サガ」の誕生と呼びたい。『私の名前はルーシー・バートン』を読んでから読むと面白さは倍増する。