青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『橋の上の天使』ジョン・チーヴァー

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村上春樹が新しく訳したジョン・チーヴァーの『巨大なラジオ/泳ぐ人』がよかったので、「訳者あとがき」の中で紹介されていた川本三郎訳の『橋の上の天使』を探してきた。村上訳と、どこがどうちがうとはいえないのだが、いかにも川本三郎らしい文章で語られるチーヴァーの短篇は、村上訳のそれとはどことなく色あいが異なるのが面白い。それにしても忙しいお二人が自らの手で訳してみたいと思うほど、チーヴァーには魅力があるのだなあ、とあらためて思った。

「作家が好む作家(Writer’s writer)」といわれる、大人好みの小説を書くチーヴァーが、これまで書いてきた短篇六十一篇の中から選りすぐられた、当時本邦未訳の十五篇。村上氏は『巨大なラジオ/泳ぐ人』の「訳者あとがき」で、川本氏の訳と重ならないように考慮した、と述べていたが「さよなら、弟」と「父との再会」の二篇は川本氏の本にも採られている。どうしても外すことができなかったのだろう。訳しぶりの違いを読み比べてみるのも面白いかもしれない。

チーヴァーの短篇の特徴を川本三郎は「サバービアの憂鬱」とまとめている。<suburbia>とは、郊外居住者、もしくは郊外型の生活様式という意味だ。具体的には勤務先のニューヨークに電車で通勤可能なハドソン川沿いの郊外に住む白人のミドルクラス、あるいはその人々の生活様式を指す。さほど大きくはないが清潔な家に住み、芝生のある自宅にプールを持ち、週末はホーム・パーティーを開いて友人を招待しあうそんな人々である。

しかし、傍目には何不自由ない生活を楽しんでいるように見えるそんな人々も、人しれない疎外感や孤独に悩んでいる。自分も同じ境遇に育ったチーヴァーは、恵まれた立場にいる人々の心の奥底に潜む孤独や憂鬱を抑制のきいた文体で静かに語りかける。抑えの利いた筆致で剔抉されるその心の深淵は、アメリカの白人のミドルクラスの生活に縁もゆかりもない我々日本の小市民をも共感させずにはおかない。

八年前に楽しい時を過ごしたスキー場に再びやってきた一家を描く「小さなスキー場で」には、これっぽっちも救いがない。夫一人が空元気を装うが、娘は父から離れるとぐったり疲れているし、妻は妻で休暇を楽しんでいない。一度壊れてしまった家庭を再び取り繕うために、昔の思い出の場所を経巡る巡礼に出ているのだ。言い争う両親をよそにスキーに出かけた娘を惨劇が襲う。これほどまでに容赦のないチーヴァーはめずらしい。

「父との再会」は、良心の離婚以来、久しぶりに父に会う少年の姿を追う。息子を酒場に誘った父は、遜った態度を装いつつ、給仕に高飛車な物言いをする。それが災いして注文を忌避されると悪態をついて店を替える。どこへ行ってもその繰り返し。こういう輩はどこにでもいる。客なのだから、金を払うのだから文句があるか、という横柄な態度は、ふだんの鬱屈の裏返しだ。少年の視点で描かれているため、読んでいていたたまれなくなる。

定番の「クリスマス・ストーリー」も、チーヴァーの手にかかるとこうなる。「クリスマスは悲しい季節」の主人公チャーリーは高級マンションのエレベーター係。「メリー・クリスマス」と話しかける住人に「私には祭日ではないんです」と愚痴る。すると、同情した住人たちは、プレゼントやご馳走をチャーリーにくれる。彼は贈り物や酒や料理を下宿の女主人に持ち帰る。女主人はそれをもっと貧しい人々に持って行く。「最初は愛が、次に慈善の心が、さらに自分には力があるという自信が彼女を行動にかりたてた」とチーヴァーは書く。さらに勤務中の飲酒のせいで、チャーリーはクビにされる落ちまでつく。

「クリスマスは悲しい季節」などは、皮肉が効いてはいるものの、苦いユーモアも加味されている。エッセイや映画の評論では貧しい人々や底辺で生きる者に優しい眼を注ぐ川本氏だが、それ故にというべきか、ほとんどがアメリカに置ける支配階級であるWASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタント)を主人公にしたチーヴァーの作品の中から、かなり辛辣な作品が選ばれている。

家事に追われる妻に安心して頼り切っている夫が、突然妻に好意を寄せる男が現れたことに慌てる様子をシニカルに描いた「離婚の季節」や、たった一度の躓きに生涯責め立てられ、故国を追われることになる女性の悲劇を描いた「故郷をなくした女」。スポーツ万能だった男が寄る年波に勝てず、ハードルに躓くことで、自分のアイデンティティを喪失する「ひとりだけのハードル・レース」。ミステリアスに思えた人妻が自分の考えを口にしたとたん幻滅を覚えてしまう男の身勝手さを嗤う「貞淑なクラリッサ」等々、どれもチーヴァーならではの苦さが口に残る。

そんな中、突然橋を渡ることに恐怖を感じるようになった男の焦りと葛藤を見事に描写してみせる表題作「橋の上の天使」は、世界を喪失してしまったような不安と絶望の中に、まるで天使のように橋上に降り立つ女の子の出現が、一挙に世界を回復させる奇跡のような出会いを描いて、心温まる一篇になっている。女の子がフォーク・ソングを歌うときに奏でるハープは「厚紙のスーツケース」に入っているくらいだから、「五つの赤い風船」が使っていた、あのオート・ハープなんだろうか。弦の響きが耳に蘇るような気がして、とても懐かしかった。これを最後に持ってきた川本三郎の優しさに安堵した。