青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『償いの雪が降る』アレン・エスケンス

f:id:abraxasm:20190201145316j:plain

原題は<The Life We Bury>.。「私たちが葬る人生」とでもいうような意味で、こちらの方が中身に似つかわしい。というのも、主人公で探偵役をつとめるジョーも、彼が伝記を書こうとしている末期癌を患っている死刑囚カールも、ともに人には言えない過去を自分一人の記憶の裡に封じ込めているからだ。表題に込められているのは、もしかしたら救うこともできたかもしれない人の命をみすみす見捨ててしまったことを忘れ去ることができず、おめおめと今日の日を生きていることに対する罪障感だ。

ミネソタ大学で学ぶジョーにはジェレミーという十八歳になる自閉症の弟がいる。弟は母と一緒に暮らしているが、その母というのが躁鬱病で、しかも弟に暴力を奮うDV男と暮らしている。そんな家を嫌って家を出たジョーは酒場の用心棒のバイトをしながら大学に行っている。何かというと家を空ける母親に代わって弟の面倒を見なければならず、バイトも学校も思うように通うことができずにいた。

そんな訳で大学に来れたのは履修登録日ぎりぎりで、定員に空きがあった「伝記執筆」を選ぶことに。その課題が一人の人物にインタビューし、その伝記を書くというものだった。彼は近くにある老人ホームを訪れ、誰かを紹介してもらうことにした。そこで紹介されたのが、カール・アイヴァソンという、少女を強姦し、納屋に放火して焼死させた囚人だった。カールは末期のすい臓がんのため、仮釈放となり、獄舎を出てこの施設で暮らしていた。

未解決事件を扱うミステリは少なくないが、これはすでに裁判も済んで刑に服している囚人の無実を証明しようとする素人探偵の活躍を描く。同じ大学に通う男女の学生コンビが、過去の裁判の結果に疑問を感じ、死期の近い服役囚に無実の判決を得るため、無謀な挑戦を企てるというストーリーだ。いかにも若々しく、計画性のかけらもない、行き当たりばったりの展開を見せる。彼らの唯一の強みは、何十年もの時の経過による科学技術の進歩にある。

当時は、コンピュータといえば、軍事機密に使用されているくらいで、パソコンなどというものは庶民はおろか警察にさえ入っていなかった。さらには鑑定の決め手となるDNA鑑定も知られていなかった。しかし、証拠物件は保存されている。つまり、現存する該当者からDNAを採取することが出来さえすれば、当時は不明だった真犯人をあぶり見つけ出すことができるのだ。おまけに、暗号で書かれた日記の解明も、今ならコンピュータによって解読も可能である。素人の学生コンビでもホームズに勝る謎解きができるというもの。

しかし、謎解きの妙味はあまりない。いろは歌のアルファベット版のようなものがあって、ジェレミーが口にしたそれがヒントとなって、相棒のライラが難なく解読してしまう。どんでん返しというほどの意表を突く展開もなく、せいぜいちょっとしたミスディレクションが待っているだけ、というミステリとしてはあまり期待する部分がない。どちらかといえば、謎解きを扱う前半の「静」に対する、後半の犯人逮捕に至る「動」の部分の方に比重が置かれている気がする。

もう一つの謎は、カールという人物が何故犯してもいない犯罪に対して、無罪を訴えることをせず、さっさと判決を受け入れ、刑務所に入ろうとしたのか、ということだ。それには、PTSDなどと一くくりにすることのできない戦争に行った者にしか知り得ない事情があった。ベトナムで一緒に闘った戦友の語る戦場のカールは、仲間の命を救うために自分の命を投げ出すことのできる英雄だった。

そんな男が少女を強姦し殺すことなどありえないと戦友のヴァージルは言う。しかし、カールには他人には決して語ることのできない過去があった。ベトナム戦争という、アメリカの敗戦で終わる戦争には記録には残せない狂気の沙汰が蔓延していた。カールはその現場に遭遇し、葛藤しつつもどうすることもできずにいた。そして、その事実が彼を、戦場では当然である殺人ではなく、ある意図をもってする、殺害へと追い込んでいく。

人を殺すことについて、ミステリではたった一人の殺人もたいそう大ごとのように扱うが、いざ戦争ともなれば、ごくごく当たり前の若者が、無数ともいえる人々の命を奪う。国にいた人々も、それを命じた上層部も、戦争が終わればまるで何もなかったような顔をして平時に戻ることができるが、その手で人を殺した人間にとってはそうはいかない。カールもまた、長期の刑に服す中でそのことを考え続けてきた。

カールの考える神学論は、実存主義哲学に似ている。彼は死後に天国を待つことのできない身である。カトリック信者として自殺は論外だ。小児性愛者は刑務所のヒエラルキーの中では最下層に位置する。都合よく誰かに殺されるのを待っていたカールだったが、襲撃は未遂に終わり隔離されることに。考えあぐねた彼は、死後ではなく、生かされている「今」を天国だと考えるようになる。冤罪を晴らせるかどうかは、残り少ない時間との競争となる。

外連味のない真っ向から直球勝負のミステリ。解決に向かって爆走する若いジョーの愚直さに共感できるかどうかが鍵になるだろう。正直、この歳になると、もう少し隘路や回り道、寄り道といった逸脱がある方が助かる。後先考えずに一心に駆け続ける若者のパワーについていくのに息が切れる。これがデビュー作というから、余裕が出てくるのはこれからだろう。若い読者なら感情移入もたやすく、一挙に読みきってしまうにちがいない。最後に救いのある、爽やかな作風である。