青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ミッテランの帽子』アントワーヌ・ローラン

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80年代のパリを舞台にとった、往年のフランス映画を見ているような、小粋で洒落たコントになっている。近頃の小説は、どこの国のものを読んでも大差がなく、深刻で悲劇的、ネガティヴな印象を持つものが多い。時代が時代なので仕方がないこととは思うが、毎度毎度そんな話ばかり読んでいると気がくさくさしてくる。せめて本を読んでいるときくらい、クスッとしたり、元気を得たりしてみたいと思う、そんな人にお勧めの一篇。

ミッテランといえば、ある年代の人ならすぐ思い出すのが、元フランス大統領、フランソワ・ミッテランその人である。一度は選挙に破れるものの無事返り咲いて社会党政権を率いた世界のリーダーの一人だった。ルーブル美術館の前庭にガラスのピラミッドを作ったのも、新凱旋門を建てたのもミッテラン政権のときだった。これは、そのミッテランが大統領であった当時の物語。当然、帽子の持ち主のミッテランは大統領のことである。

昔話によく出てくる「呪宝」と呼ばれるものがある。樹々や鳥の話す声を聞くことができる「頭巾」(ききみみ頭巾)や、それを着ると姿が見えなくなる「蓑」(天狗の隠れ蓑)などがそうだ。力を持たない民衆のあこがれやはかない願望を託された、今ふうにいえば魔法のアイテム。この話の中では何の変哲もない黒いフェルトの帽子がそれにあたる。ただ一つ、それがそんじょそこらにある帽子とは帽子がちがう。裏の折り返しに金字でイニシャルが、F.M.と入れてある。ミッテラン大統領愛用の帽子である。

ブラッスリー、というのは元はザワークラウトなんぞをあてにビールを飲ませる店のことだったが、今では一流レストランやカフェも、ブラッスリーを名のる。予約を確認しているところから見て、この話に出てくるのは、かなり高級レストランだろう。なにしろ、隣の席で大統領が食事をしているというのだから。それにしても、SPもつけず、一般人と一緒に食事を楽しむとはさすがに左派の大統領だ。気さくさを宣伝する散歩に、SP で脇を固めるどこぞの首相とは大違いだ。

その大統領が店に置き忘れた帽子を手に入れたのが、ダニエル・メルシエ。ソジェテック社の社員である。人事問題でストレスを感じていた彼は新しい一歩を踏み出すためにこのブラッスリーを訪れ、この帽子に巡り会う。自分のもののような顔をして帽子を手にしたダニエルは意気揚々と我が家に帰る。その次の日からダニエルは人が変わったように会議で自分の意見を遠慮なく発表し始め、いつの間にかルーアン支社を任されるまでになる。

どうやら、この帽子はそれを手にする者の裡に秘められた潜在的な資質を表に出すため、背中をひと押しする役割を担っているようなのだ。ところが、ダニエルは大事な帽子をル・アーブル行きの列車の網棚に置き忘れてしまう。丁度降ってきた雨を除けるために、それを手にしたのがファニー・アルカン。本を読んだり書いたりするのが好きで作品を書きためている。現在は先行きの見えない既婚男性と不倫関係にある。

もうお分かりだと思うが、ファニーが帽子をかぶると、不倫相手は別の男のプレゼントだと勝手に思い込んで別れ話を始める。ファニーはファニーで、出て行った男に未練を感じることもなく、帽子と出会ってからの経緯を手持ちのノートに書きはじめる。やがてそれは一篇の小説となり、文学賞を受賞することになる。この調子で、帽子は次々とちがう人物の手に渡り、それぞれの人物の運命を変えてしまうことになる。

帽子を手にすることになるのは四人の人物で、あとの二人は香水の調香師と資産家のブルジョワである。天才的な調香師だったピエール・アスランはいくつかの名作を世に出したものの、ここのところは長いスランプに苦しんでいた。ところが、公園のベンチで二つの香水の薫りが混じりあった帽子を見つけてからは生活が一変する。道行く人の香水をあてるゲームもかつてのようにできるようになり、新作まで思いつく。

ブルジョア階級の夜会に退屈しきっていたヴェルナールは、ふだんなら聞き流していた会話にひっかかりを感じ、猛然と反論を始める。反動の人士が集まるその席では、大統領のことをミットランとわざと発音を替えてからかうのがならいだった。ところが、ブラッスリーでクロークが取り違えた帽子を渡されたヴェルナールは俄然ミッテラン擁護の論陣を張る。さらに翌朝、いつもなら右寄りのフィガロを買うのに、なんと左派のリベラシオンを買って帰る。

このヴェルナールの変貌ぶりが80年代フランスのブルジョア階級の暮らしと文化をカリカチュアライズしていて、アンディ・ウォーホルバスキアまで登場するパーティーのドタバタ劇がとことん笑わせてくれる。さらに、アメリカのTVドラマ『ナイトライダー』まで登場するのはご愛敬だ。当時フランスではテレビのチャンネルが限られていて、特別なチャンネルに加入しないと見られない番組があったらしい。

エスプリがきいた軽いタッチで洒落のめしながらも、勢いのあった80年代フランスの人々の日常スケッチを通し、料理やワインの蘊蓄を傾けながらもさらりと流し、最後には水の都ヴェネチアのカフェ・フロリアンで、帽子が大統領のもとに帰るまでをノンシャランに描いていく。軽い気持ちで立ち寄った店で思わぬ拾い物をしたような気にさせてくれる上質のフランス製のコントである。