青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ニックス』ネイサン・ヒル

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私小説というわけでもないのに、作家が主人公の小説というのがけっこう多い気がする。やはり、自分のことを書くのが作家の基本なんだろうか。読者の方は、別に作家志望とかでもないだろうに、やっぱり作家が主人公の小説が好きなんだろうか。よくわからないが、小説が書けなくて、ゲームばっかりやっている大学助教授の話である。ネット環境がいいからと研究室のコンピュータで参戦するというのはどんなものだろうか。

サミュエル・アンダーソンは大学助教授。一時期、作家を目指したが、短篇を一作完成して以来何も書いていない。今では講義の合間にネットゲームにのめり込んでいる。担当は英文学で、ハムレットを教えている。クレーマーらしき女学生にレポートの盗用を注意したところ、逆切れされて上司から叱責される破目に陥る。さらに、次作を書く契約で出版社から大金を受け取っていながら、原稿を送っていない件で訴えられかけている。

進退窮まったところに電話がかかる。何年も前に父と自分を置いて家を出て行ったきりの母が、大統領候補者に暴行し、大騒動になっていた。電話は弁護士からで裁判所に意見書を書いてくれという。捨てられた憾みこそあれ、母を助ける義理など毛頭ないサミュエルは、今や候補者の名にちなんで「パッカー・アタッカー」という異名を持つ母の暴露本を書くことで、件の出版社との契約を果たそうと思いつく。

取材のために再会を果たした母は過去について話そうとしない。弱ったサミュエルは、シカゴに住むゲーム仲間のポウンジを頼る。ポウンジは写真を手がかりに、当時の母の友人を探り当てる。アリスというその女性は、母の裁判を担当する判事の名前を聞くと、母を連れて即刻国を出るように警告する。どうやら相手は相当ヤバいやつらしい。アリスは、当時警官だったブラウン判事との経緯について話し始めるのだった。

すべてが謎につつまれている。まず、たとえ短篇にせよ、次代を担う作家の一人と目される小説の書けたサミュエルが、何故それ以来ただの一本も小説を書くことができないのか。また、母はなぜ突然,夫と子を捨てて家を出て行ったのか。或いは、母はなぜ、その日偶々公園にやってきた大統領候補に砂利をぶつけることができたのか。 

サミュエルは取材を通し、母親であるフェイ、そしてフェイの父でノルウェーからアメリカに来たフランクの過去をたどる。表題の「ニックス」とは、祖父の話に出てくるノルウェーの水の霊で、一人遊びをする子どものところに馬の姿をして現れる。子どもが馬に夢中になり、やがてその背に乗って遊ぶようになると、馬は子どもを乗せて走り出し、崖から宙空に飛び出して落ちる。子どもは岩に打ちつけられるか水底に沈む。

祖父によればその教訓は「うますぎる話は信じるな」というものだが、フェイは「君がいちばん好きな者が、いつか君をいちばん傷つけるのよ」と、息子に話して聞かせる。これが、この小説において繰り返し現れては変奏される主題である。愛するものが自分を窮地に追い込むことになる。それは、祖父から母を通じて孫に至る、ノルウェーからついて来た幽霊の呪いなのか。ノルウェーで祖父にいったい何が起きたのか。

探索の第一歩は、サミュエルの少年時代。ビショップとベサニーという双子の兄妹と知り合ったサミュエルは、裕福な階級に属する二人に惹かれる。兄のビショップは反抗的な少年で、教師やいじめっこには容赦をしないが、いじめられっ子には優しい少年だった。妹のベサニーはヴァイオリンの練習に余念のない美しい少女だった。サミュエルは一目で恋に落ちる。サミュエルの処女作は二人との交友を描いたものだった。

だが、ある出来事をきっかけにビショップは町を去り、後に軍に入って戦死する。後年、成長したサミュエルは、当時反抗的な少年たちに体罰をふるっていた校長が、なぜビショップの尻を打たなかったのか、という理由に思い至る。同時にビショップが見せた奇妙な行動の意味も。友の許しを得ずに、それを書いたことをサミュエルは苦にしていた。

一九六八年。母には別の物語があった。奨学金を得たフェイはシカゴの大学に進学しようとするも、父はそれを許さなかった。フェイは家を出て寮に入る。反戦運動真っ盛りのシカゴは勉強どころの騒ぎではなかった。隣部屋のアリスと出会い、運動の渦中に飛び込む。そこでカリスマ的な扇動者であるセバスチャンに一目惚れする。それがすべての過ちのはじまりだった。逮捕されたフェイは二度とシカゴにもどらないという約束で釈放されたのだった。

幼い性の目覚めとプラトニックな近親相姦関係。美しい兄妹との間で疑似的な三角関係に巻き込まれるサミュエル。フェイが巻き込まれる六十年代特有の反戦運動の高まりも見過ごせない。何しろアレン・ギンズバーグ本人がフェイとセバスチャンをめあわせるのだ。ビートニクやヒッピーといったムーヴメントがヴェトナム戦争に揺れるアメリカでピークに達し、やがて崩れてゆくその波頭の軌跡を、映画的なカット・バックの手法を多用し、シカゴの長い一夜を熱く描き出す。

児童性的虐待反戦運動、同性愛、ナチスの侵攻、といった多様な話題を多くのエピソードにからめ、最後に一族の問題に収斂させていく。これが長編デビュー作とも思えぬ手捌きである。ただ、多くの人物の視点で語られる物語に一貫性を求めるのは難しく、一族のストーリー以外は語られっぱなしで収集しきれていない。そのためか、どこか離れた位置から人々の騒ぎを眺めているような冷めた印象を持った。サミュエルのヰタ・セクスアリスを描いた部分が清冽だっただけに、惜しい気がする。短篇をもとに長編を書く難しさが出たようだ。自分を素材にしなくなったとき、どんなものを書くのか期待したい。