青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『海の乙女の惜しみなさ』デニス・ジョンソン

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表題作「海の乙女の惜しみなさ」を筆頭に「アイダホのスターライト」、「首絞めボブ」、「墓に対する勝利」、「ドッペルゲンガーポルターガイスト」の五篇からなる短篇集。「私、俺、僕」と作品によって異なる人称に訳されてはいるが、英語ならすべて<I>。一人称視点による語りで全篇統一されている。もっとも、内一篇はアイダホにあるアルコール依存症更正センターに入所中の「俺」が外部にいる家族、知人にあてた手紙という形だ。

「私」の語りで語られる「海の乙女の惜しみなさ」は、掌編と言っていい短いスケッチのような章も含め、十の断章で構成されている。現代アメリカで広告代理店に勤める六十代の男が、自分の見てきたいろいろな人生の瞬間を思い出すままに語り出す。若い友人二人が結婚するきっかけになった夜のこと、自尊心が高価な絵を灰にしてしまう話、夫を亡くしたばかりの妻と出会った知人二人の話、美術館で知り合った絵描きとの交流と彼の自殺に纏わる話、等々。

それらが、互いに共通する要素を接点として、まるでしりとりのようにたいした脈絡もなく語り継がれてゆく。どうやら「君」に語り聞かせているようで、八十年代のゴールデンタイムのテレビ番組を見ていたなら、という問いかけがなされていることから考えると、自分より若いが、さほど歳の離れていない人間を想定しているようだが。

CMが受賞するのだから、それなりに成功を収めている。住んでいる地区もバスローブに房飾りのついたローファー履きで夜出歩けるというから高級住宅地だろう。若い頃に二度の離婚を経験し、今の妻とは二十五年続いている。すでに自立した、美しくも賢くもない娘が二人いる。人生に特に不満はないが、記憶が薄れつつある過去に未練もない。ときおり、静まりかえった近所を歩きに出る。民話に出てくる魔法の糸や剣、馬を求めて。あの『煙の樹』のデニス・ジョンソンも、枯れた境地にたどり着いたものだ、と思わされる。

「アイダホのスターライト」は、破格の一家に育ったキャスという男が、リハビリ施設で行われるカウンセリングの様子や、家族の集いに出てくれた婆ちゃんの武勇伝、それに抗アル中薬の副作用のせいで襲われる幻覚を手紙形式で訴える話。はたから見たらとんでもなく悲惨な境遇なはずだが、ジョンソン独特の乾いたユーモアのせいで、面白く読ませる。が、それでいてやはり、地獄の底を覗いたような暗澹たる気分にさせられる。

「俺」が十八歳のとき、盗んだ車で電柱にぶつかって逮捕され、四十一日間、郡刑務所に入れられた。そのときの同房者が「首絞めボブ」だ。周りにいた囚人とのトランプや喧嘩沙汰が語られる。そこで出会った囚人仲間の何人かは、刑務所を出た後も何度も「俺」の人生に気まぐれな天使のように立ち現れては「俺」をヘロイン中毒にし、使い回した注射針で病気に感染させた。血を売って飲み歩く路上生活者になってしまった「俺」の凄惨な思い出話。どん底の人生に落ち込みながら、悔悛のかけらもないのがすごい。

「墓に対する勝利」もまた「君」に語り聞かせる物語。「僕」は作家。LSDによる幻覚作用の中で受けた右膝の診察をまるで他人事のように語るところからはじまり、一人の作家の死を看取る話に横滑りしてゆく。今回の短篇集には友人の死が多く登場するが、なかでも本作が最も凄絶。ひとつ家に死者と同居する幻覚というのが妙にリアルだ。しかもそれでいて、不思議な安らぎに満ちてもいる。ある年を越えると、過去を振り返ることが多くなり、先のことを考えるとすれば、それは「死」のことになる。近頃、私もそうなりつつある。誰もが病気になり、世を去る。「大したことではない。世界は回り続ける」。そうなのだろう。早くそんな境地に達したいものだ。

掉尾を飾る「ドッペルゲンガーポルターガイスト」は、それまでのプロットに頼らない気ままな語り口とは大いに異なる、小説らしい小説。よく知られていることだが、あのエルヴィス・プレスリーには双子の兄弟がいた。死産とされているが実は生きていて、悪名高いパーカー大佐によって陸軍入隊時にすり替えられたのではないか、という大胆過ぎる仮説が話の骨子になっている。もみあげを剃り、GIカットにしたエルヴィスは双子の兄弟の方で、本物は殺されていた、というのだ。

コロンビア大学で詩のワークショップを教えていた「私」は、学生のマーカスの詩の才能を高く評価していた。授業でエルヴィスのことをしゃべったのがきっかけになり、「私」は、マーカスにエルヴィスの墓を荒らして捕まった話を聞かされる。マーカスはエルヴィスが双子の兄弟にすり替えられたという仮説に執着していた。マーカスはその後、アメリカを代表する詩人に登りつめるが、あるとき以来本を出さなくなる。長年にわたる二人の友情と、エルヴィスの謎の解明が、双子(ツィンズ)という主題によって、アメリカを揺るがしたあの事件と重ねられる。墓荒らしに執着し、ドッペルゲンガーに振り回される、マーカス・エイハーンという呪われた詩人がエドガー・アラン・ポーを彷彿させ、鬼気迫る。

ジーザス・サン』に次ぐ第二短編集。再読、三読するたびに、一つ一つの文章が忘れ難い味わいを持って心に響いてくる。「これを書いているのだから、僕がまだ死んでいないことは明らかだろう。だが、君がこれを読むころにはもう死んでいるかもしれない」というところを読んで、巻頭から話者に「君」と呼びかけられていたのが、自分であることに思い至った。長年、本を読んできたが、こんなにも心に沁みた話者の言葉は初めてだ。