青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ある一生』ローベルト・ゼーターラー

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読ませようという気があるのか、と言いたくなるタイトル。原題が<Ein ganzes Leben>だから、直訳だ。すべてが、ここに集約されている。削りに削りまくった、飾り気とか色気とか、そういうものが一切ない、必要最小限度のもので成立している長篇小説。長さすら削られている。幼い頃、オーストリア・アルプスのとある山村にやってきた、何者でもない一人の男の一生を、三人称限定視点で突き放すように描いたリアリズム小説である。

アンドレアス・エッガーは、一九〇二年の夏、遠い町から馬車で運ばれ、山までやってきた。四歳くらいだった。母を亡くした私生児で、義理の伯父に引き取られたのだ。伯父はエッガーを労働力としか考えておらず、粗相をすると折檻が待っていた。八歳のころハシバミの枝を削った鞭で打たれ、左足の骨が折れた。伯父が医者代を惜しんだせいで、折れた足は元に戻らず、一生引きずることになった。

しかし身体は頑健で逞しく育ち、子どものころから大人並みに働いた。「だが緩慢だった。ゆっくり考え、ゆっくり話し、ゆっくり歩いた。けれど、どの考えも、どの言葉も、どの一歩も、その跡をしっかり残した。それも、その種の跡が残るべきだとエッガー自身が考える場所に」。十八歳になった誕生日の翌日、鞭打とうとした伯父に反抗し、「失せろ」と言われ、家を出る。

障碍者ではあったが、エッガーは、よく働き、要求は少なく、ほぼ何も話さず、どんな仕事も引き受け、確実にやり遂げ、不平は言わなかった。何をさせてもうまくやれた。食事へ行くことは稀で、行ったとしても一杯のビールと蒸留酒を注文するだけだった。ベッドで寝ることは滅多になく、藁の中や屋根裏、家畜小屋で眠った。二十九歳の年、貯まった金で森林限界のすぐ下にある干し草小屋つきの傾斜地を買い、小屋に手を入れ、そこで暮らした。

その頃がエッガーのいちばん幸福な時代だった。山小屋で寝付いている山羊飼いを助けに行ったのに、雪の山で見失うという事件が起きたのがその頃だ。背負い籠に縛りつけたはずの山羊飼いが、自分で縄をほどいて飛び降りたのだ。途方に暮れ、漸く村に帰ってきたエッガーは暖を求めて食堂に入った。そこで、新入りのマリーという女と出会う。それが二人のなれそめだった。

エッガーはマリーに結婚を申し込むのにふさわしい男になろうと、当時村でロープウェイの工事をしていた<ビッターマン親子会社>を訪ね、そこで働くことになる。誰よりもこのあたり一帯に詳しく、高所作業を得意としたため、工事用の穴をうがつ場所に最初に足を踏み入れる男になった。やがて、マリーと結ばれ、二人はエッガーの小屋で暮らし始める。しかし、幸せはそう長く続かない。雪崩が村を襲ったのだ。

総じて時間の順序に従って書かれているのに、冒頭に置かれた章には、エッガーの記憶としていくつかの思い出が断片的に挿まれている。それが、映画でいえば予告編になっている。山羊飼いの死についての考え、その直後のマリーとの出会いは、まさにエロスとタナトス。その後の<ビッターマン親子会社>が初めて村にやってくる場面、そして、初めての雪崩との遭遇。村の子ども達に「びっこ」と囃し立てられ、氷柱で応酬する場面。本編で出会うたび、ああ、あれだ、と気づかされる。

少し昔のことになるが、どの地域にも、一人や二人、共同体からはじかれたように、独りで暮らす年寄りがいたものだ。何かの不幸があって、家族と別れ、長い独り暮らしを強いられながら、気質のせいか、境遇のせいか、共同体に馴染めず、追いやられはしないものの中には入り込めない孤独者が。頑是ない子どもたちは、そんな人たちに向かって情のないひどい言葉を投げつけていた。小説を読んでいて思い出した。これは、そういう立場にある人の視点で描かれた小説ではないのか、と。

厳しくも美しい自然の中にあって、村の人々とは確かな距離を保ち、ほとんど襤褸と言っていい最低限の衣服を身に纏い、野生児のように暮らす主人公を、親しい人々を除けば、自分たちとは異なる存在として見ていたのだろう。エッガーはそれでもかまわなかったし、気にもしていなかった。ただ、マリーを失った後はしばらく立ち直れなかった。

山岳を主たる舞台とする小説として、山の自然の美しさが描かれる一方で<ビッターマン親子会社>の仕事は手つかずの自然の中に人工を引き入れることである。ロープウェイは観光客を村に引き入れ、スキー場が次々と作られ、夏は山歩きの人が村にやってくる。なかには、山歩きのガイドを務めるエッガーに、「君にはこの美しさが見えないのか」と説教を始める者まで出てくる。誰よりも山を愛しているエッガーに、偶々やってきた観光客が口走るこの台詞に強烈なアイロニーを感じる。

質朴で寡黙な男が、黙々と人生を送るうちに、世界は彼を一人置いて別なところに進んでいた。そして、その世界こそ我々読者が暮らしている世界なのだ。現代社会はエッガーのような暮らしを好んでする者を異端者扱いしてはばからない。そして、既にエッガーは周囲からそういう目で見られていた。川遊びの少年が三十代のエッガーに「びっこ」と呼びかけたのは、当時から村人が彼をそう呼んでいたことを物語っていたのだ。

世界は、エッガーの眼が見ているような美しいものではなくなった。人は自分のまわりに美しい孤独をおいておけなくなった。今では孤独に価値などない。群れたがり、衆を頼んで、我々はどこへ行こうとしているのか。激動する時代のさなかにあって、時々は振り返ってみることが必要ではないだろうか。我々は何を失い、代わりに何を得たのだろう、と。そんなことをしみじみと感じさせてくれる一服の清涼剤のような小説である。