青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『卍どもえ』辻原登

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テーマはどうやらユングのいう「シンクロニシティ」らしい。「共時性」ともいう、異なる人物の間で同じことが同時に起きる、いわゆる「意味のある偶然の一致」のこと。更にもう一つ。危険な状態が待ち受けていることを無意識裡に知っているのに、それを避けることができず、危機的状況に陥ってしまう人間心理の一面も扱っている。それが極端になったのが「破滅型」と呼ばれる人間類型だ。

瓜生甫は五十一歳。グラフィック・デザイナーとして脂の乗りきった状態にある。今は次々と舞い込む注文をこなしながら、一度受賞を惜しくも逃している、オリンピックのロゴマークのデザイン募集に応じ、賞をとることを目指していた。そんな時、かつて仕事上で付き合いのあった中子毬子に招待される。瓜生が紹介した建築家の設計による新築家屋を祝う集まりだった。

毬子の夫、中子脩はマニラで英語学校を経営する実業家。所有するクルーザーで沖に出て海に潜るのを趣味としていた。瓜生もスキューバ・ダイビングに凝っていたこともあり、二人はポーランドウオッカズブロッカのキンキンに冷えたのを薩摩切子のグラスで飲りながら、葉巻を燻らすうちにすっかり意気投合し、中子はパソコンを開き、毬子が裸で泳ぐ写真を見せた。偶然にもそれは、瓜生が撮り溜めた妻の写真の投稿を考えていた投稿サイトだった。

ユングは人々の心の中には集合的無意識というものがあると考えていた。奇妙な偶然の一致が起きるのは(大雑把にいえば)人々の心がそこでつながっているからだというのだ。中子は、写真を投稿してしばらく経ってから鞠子が見た夢の話をした。通りを行くと多くの人の眼に見つめられて落ち着かない、という夢だ。その話を聞きながら、瓜生は自分もまた危ういところに踏み込もうとしていたことに気づく。

妻の素顔や裸身を他人の眼に曝すのがどれほど危険な行為であるかを亭主が知らぬはずがない。それでも、なおかつそうせずにはいられない。その手の男の心理には何か共通するものがあるのだろう。集合的無意識などという高級なものではない。サイト名が「妻よ薔薇のように」という成瀬巳喜男監督による映画のタイトルを借用しているところからも、それを知る年齢や階層をターゲットにしているにちがいない。

作者はストーリーとは直接関係のない歴史的な事件についてかなりの紙数を割いている。登場人物の家族が事件に巻き込まれているという形をとる場合もあるが、回想場面の時代背景として書かれるだけのこともある。オウム真理教地下鉄サリン事件日航機123便墜落事件、さらには、日本による満州統治等々。どれも危機が近づいていることを知らず、誰もが巻き込まれてしまった悲劇的な事件であったことが共通している。

男たちの物語はこの後、二人がそれぞれ迎えることになる危機的状況を描いている。一人は打ちのめされ、精神的に追い詰められるほどの衝撃を受ける。ネタバレになるので詳細は控えるが、オリンピックのシンボルマークに関する事件がネタ元になっていることは主人公の職業をグラフィック・デザイナーにした時点で考えていたのだろう。もう一人の方は、破滅的な状況が暗示されるだけで終わっている。

それなりに力を備えた男たちが、女性関係絡みで破滅に向かって邁進する様は、傍観者的に見ている分にはある意味喜劇的ですらある。その一方で、男たちの妻やその恋人たちの何と軽やかで愉し気なことか。男というものを介在しない同性だけの快楽の営みが女子会めいた雰囲気で快活に描かれる。表題を読んだときからうすうす感づいてはいたが、これは谷崎の『卍』のパスティーシュになっている。

瓜生の妻、ちづるは博報堂の広報を担当していた。瓜生は大勢の競争相手を蹴落として結婚したわけだ。しかし、結婚を機に退職すると、否が応でも妻は夫に食わせてもらう立場に陥る。たかだか三百万を夫に無断で都合する手立てがない。まさか、同性の恋人が借金に苦しんでいるからと理由をいう訳にもいかない。夫が自らそれを出すように仕向けるために企てた妻の計略が気が利いている。ばかだなあ、と思うけれど、男の弱みを突いていて一概に他人事とも思えない。

フライド・グリーン・トマト』は映画で見ていたが、イジーとルースの関係が原作では同性愛を感じさせるものになっていたことには気づかなかった。夫の暴力や女狂いに手を焼く妻は多い。結婚という制度がもともと男にとって都合のいい形になっているからだ。まあ、それを言うなら、多かれ少なかれ社会の仕組みが男性有利に作られているのだが。同性愛だけでなく、フェミニズムにも踏み込んでいる点は評価できる。もっとも、本作における妻たちの行動は、せいぜいがお仕置き程度で、両性の新しい関係を模索するまでには至らない。

谷崎行きつけのアカデミーバー、飛田新地サウダージといった作者偏愛のアイテムは今回も登場する。それに加えて、ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』等々の小説をはじめ、成瀬巳喜男の『浮雲』、『流れる』などの邦画、洋画、コルトレーンとジョニー・ハートマン共演の「YOU ARE TOO BEAUTIFUL」、フェルナンド・ぺソアの詩集『ポルトガルの海』、マラケシュのジャマ・エル・フナ広場といったマイ・フェイバリットが続々登場するのに驚かされた。