青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ただの眠りを』ローレンス・オズボーン

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フィリップ・マーロウ、七十二歳。メキシコ、バハカリフォルニア州にある崖の上に建つ家で家政婦と犬と暮らす、引退した元私立探偵。他の作者によるマーロウ物の第四作。第三作であるベンジャミン・ブラック作『黒い瞳のブロンド』も読んだが、少し違和感を感じた。まあ、仕方がないだろう。誰もチャンドラーのようにマーロウを描くことはできない。それが分かっていても、こうして、その後のマーロウを描く者が次々に現れる。誰もが自分のマーロウを思うさま活躍させてみたいのだ。

悠々自適の隠居暮らしを楽しんでいる老人の家を二人の男が訪ねてくるところから物語は始まる。二人は保険会社の者で、マーロウに調査を依頼に来たという。山ほど借金のある実業家が夜の海で溺死し、警察の書類も揃っており、保険金は未亡人に支払われた。ただ、事故が起きたのはメキシコで、死体はその地で火葬されていて、保険会社としてはそこに何か問題はなかったのかあらためて調べたい、というのだが完全に疑ってかかっている。

ついては、メキシコ在住でスペイン語に堪能な元私立探偵がいいだろう、ということになった。以前のようにはいかない、というマーロウに危険なことはないから、と保険会社。実のところ退職以来、退屈していたマーロウは、その場で引きうける。経費付きで一日三百ドル。まずは、未亡人に会いに出かける。その未亡人というのがおそらくはメキシコの血の混じった混血美人で、歳はマーロウと同年輩の夫とは半分くらいの若い女

現地に飛んだマーロウは、そこで確信を得る。ジンという実業家は死んではいない。死んだのは別人で、同じ船に乗っていたリンダ―という男らしい。マーロウは、メキシコ各地を死んだ男に成りすまし、金に飽かして逃避行を続ける夫妻の後を追う。果たして、マーロウは無事使命を果たすことができるのか、とまあ、そういう話である。

メキシコの寒村で人が死に、警察の書類では本人確認がなされているのに、実は死んではいなかったというのは『長いお別れ』で使われた手垢のついたトリック。マーロウでなくても、メキシコと聞いただけでまずは疑ってかかる。いくらハードボイルドでも、犯罪の核心部分にはもう少し手の込んだ工夫がほしいところ。その他にも、ちょっとこれは、と思わせる点がけっこう多い。

ひとつひとつ挙げていくときりがないが、まずはマーロウが旅行に持参する探偵道具。盗聴器やらミノックスのカメラやら、オペラ・グラスといったがらくただ。一番おかしいのが、座頭市に倣った日本刀を仕込んだ仕込み杖。まあ、体裁は銀の石突きのある洋杖の格好をしているので、脚の不自由な年寄りの持ち物としては問題はない。しかし、銃ならまだしも、刀を振り回すフィリップ・マーロウというのはいただけない。「日本人読者にはなんだか嬉しい」などと訳者は本当にそう思っているのだろうか。

次に気になるのが、ジンの妻ドロレス。一応誰の目にも美人だということになっているが、自分の年齢の半分ほどの若い女に、マーロウが本気で相手をするとは思えない。『さらば愛しき女よ』のアン・リオーダンの扱いを思い出せば、このマーロウは歳のせいで色ボケになっているとしか思えない。ましてや、その人物像にそこまでいれあげるだけの魅力がない。お世辞にも女性を描くのが巧いとは言えないチャンドラーでも、ドロレスよりはキャラの立っている女が何人もいる。

さらには、若い頃とちがって金に困っていないマーロウが、何故、保険金詐欺を働いた夫妻を見逃すという条件で十二万ドルを手にするのか。金に困っていた時でさえ、マーロウは不正に手を染めることはなかった。薄汚れた街に暮らしてはいても、自分自身は汚れに染まることはなかった。清濁併せ呑む器量というのが老人の探偵にあってもいいとは思う。しかし、何故マーロウにそんな真似をさせる必要があるのか。全く納得がいかない。

歳を食ったマーロウは、予想通り、かつてのようにタフじゃない。坂道を歩けば息を切らせるし、酒を飲みすぎると、店の者の手を借りて部屋に担ぎ込まれる始末だ。自分が動くというより、周囲の手を借りながら捜査するというのは老人探偵なら仕方がない。そういう点ではリアルさは感じる。相変わらず、つまらないことを口走っては相手を煙に巻くのもお定まりだ。ただし、ジョークが時代がかっていて相手に理解されないところが哀しい。

歳をとったマーロウが思うように動けなくなった体に無理をさせながら事件を追うところは私だって見てみたい。そのアイデアは買う。老人力を駆使して、相手を油断させ、同じような年寄りと心を通わせ、話を聞き出す、こういうところはよくできている。しかし、肝心のマーロウの内部のこれまでに至る変遷が書き切れていない。多弁で内心を吐露したがるのは年寄りの常だ。それは良しとしよう。しかし、相手はあのマーロウだ。もっと食えない年寄りになっている筈ではないのか。少なくとも私の中のマーロウはそうだ。メキシコの風物はよく描けていて、そこは読んでいて楽しかった。