青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『神前酔狂宴』小谷田奈月

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若い人を主人公にして、一人称限定視点で語られているので、老人としてはなかなか入り込むことが難しかったのだが、そのうちに主人公が何にこだわりを抱き、何を自分の内側に入れることを峻拒しているのかが呑み込めて来ると、ああ、そういうことね、と理解できるようになった。この物語は、自分の世界を創り出すことのでき、そこではじめて息をする人間、安易に既成の世界に身を寄せ、いつの間にやら知らぬ間にそれと狎れ合い関係になってしまうことをしんから恐れる人間を描いた物語なのだ。

十八歳の浜野は時給千二百円という高額につられ、一緒に面接を受けた同い年の梶とともに派遣社員として高堂会館という結婚式場のスタッフに雇われる。高堂会館というのは高堂神社の一部にあたる。明治の軍人、高堂伊太郎を祭神にした神社という設定は、東郷平八郎と彼を祭神とする東郷神社がモデル。同様に椚萬蔵(くぬぎまんぞう)は乃木希典、椚神社は、乃木神社のことだ。

生まれも育ちも全くちがう別世界を生きてきた二人の青年が、切磋琢磨し、友情をはぐくんでいく。そこにやはり同い年の倉地という娘が登場し、互いに微妙な感情を抱きながら、一緒に仕事をする中で、成長をしてゆく。そう言えば聞こえはいいが、実は三人三様にどうにも譲れない部分があり、時にはその部分で衝突し、あるいは今まで気づいていなかった事実について思い知らされる、そのやりとりを三人の出会いから別れまでを見つめてゆく。

浜野は、仮面夫婦を続ける両親から離れたくて、高校卒業後、生家のある松本を離れ、東京にあるシナリオスクールに通い出す。彼には、頭の中で物語を創り上げる癖があり、それを紙の上に吐き出さないと生きていけない。誰に見せるでもない。ただ、蚕が糸を吐いて自分の殻を紡ぐように、そうすることで自分の生を維持している。それは他人には理解しがたい生き方で、一人考え事に耽ってばかりいる浜野は周りからテキトーな人間と見られている。

東京で一人暮らしをするために働き始めた浜野は、初めはクビにならない程度に働くテキトーなスタッフだった。それとは逆に梶はきちんとした仕事に就くことで苦労をかけた祖母を安心させてやりたいと一生懸命に働く。そんな二人は、ある日、結婚式の見積額のあまりにも高額なことを知り、驚き呆れる。キャンドル・サービスが一万円。自分たちの給料が全くの幻の中から生み出されていると知ったのだ。

浜野には結婚式やそれを他人に披露する披露宴の意味が分からなかった、というよりも意味を見いだせなかった。ところが、それが全くの絵空事、虚飾であることが理解できた途端、俄かにやる気が出てきた。茶番であれ、喜劇であれ、それに参加するなら、目一杯真剣にやるべきだ。でないと面白くない。彼はその日を境に最も熱心なスタッフに変貌を遂げる。カサギという派遣会社は結果がすべて、社員の給料は実力次第で上がるシステムだ。二人は競い合うように仕事に励む。

そんな折、出張奉仕に来ている倉地たち「椚さん」と高堂のスタッフとの間に不協和音が立つ。高度にシステム化され、戦場のような披露宴を受け持つ高堂のスタッフは、素人同然の「椚さん」がはっきり言って邪魔だった。梶の一言が火をつけ、高堂スタッフは露骨に椚ボイコットを始める。自分は加担しないものの浜野はそれに心を痛める。倉地もまた、椚のやる気のなさを感じていた。倉地は二人に、高堂のやり方を教わりながら、椚を変えてゆこうとする。浜野は、そんな倉地をモデルに、女戦士が戦いに挑むシナリオを描く。

本作は披露宴を司るキャプテンに登りつめる浜野の活躍ぶりを描く「お仕事小説」でもある。初めは虚飾と思えた披露宴だったが、いつのまにか、完全にその渦中の人となった浜野の結婚というものに対する気構えのようなものが随所にキラキラと眩しく語られる、と同時に華やかな舞台の裏で繰り広げられる、戦場のような現場の様子もたっぷり味わうことができる。さらに、浜野たち高堂が育てた「椚さん」たちに高堂会館の式場が乗っ取られるようになるシビアな顛末まで。

それと同時に神社や神事、神様というものを真正面から受け止める梶や倉地と、戦争で多くの人を殺した軍人を無邪気にあがめることに共感できない浜野との間に、少しずつひびが入り、やがてそれは対決や別離の要因となる。祖母に死なれて、弱みを見せる梶をもっと見てやれ、と話す倉地に、浜野は食ってかかる。他人のことをよく知ろうとせず、ずかずか入り込んでくるな、と。一度口火を切ると、浜野はそれまで口にしてこなかった「椚さん」に対する批判を倉地にぶつけ、決定的な別れが来る。

倉地はもともと神道科の学生であり、右翼的な考え方になじんでいた。ところが、その日をきっかけに同性婚も挙行するという高堂会館への闘いを積極的に始める。死者との間をとりもつ、という神社の存在を梶もまた信じはじめ、それは次第に強いものになる。梶から見れば、両親揃っていて兄弟も帰る所もある浜野は羨ましい身分だ。ところが、浜野はそれを大事にしようとしないで、好き放題を言っているようにしか見えない。

日本の若者の右傾化が止まらないのは、梶のように欠落を胸に抱いた者にありがちな不満ゆえだろうか。親孝行や結婚、家と家の結びつきといった習慣をよく吟味することなく当然視し、その内側にいる一部となることで安心し、それを当然視せず、違和感を持つ輩に対して批判する。浜野はリベラルでも左翼でもない。ただ、その物語をすんなりと呑み込めない。頭だけでなく体もそれを拒否する。なぜなら、彼の居場所は彼が創り出す世界を核としているからだ。そこで、自由に生きることが現実世界と折れ合うために必要なのだ。

何ならそれを文学と読んでもいい。人を十把一からげにしないもの。異を唱える者を拒絶しないもの。自分と異なる他者と共に生きることを快く感じる、そういう世界がある。そして、そういう世界をよしとせず、みんなが同じ考えや感じ方、人種や血筋、といった共通点で繋がる社会を激しく拒否する。簡単にいえば、浜野はそういう世界に生きている。しかも、理屈ではなく、全身全霊でそれを生きている真っ最中だ。今風の意匠の中にどこか古風な人格形成小説風の骨格を隠した一篇。