青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ザリガニの鳴くところ』ディーリア・オーエンズ

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二つの小説がひとつに縒りあわされている格好になっている。一つは一九六九年に沼地で起きた一人の男の死の謎を追うミステリ仕立ての小説。もう一つは、その十七年前の一九五二年に始まる稀有な生き方を強いられた一人の女性の人生を追った物語である。

アメリ東海岸、ノース・カロライナ州の海岸沿いには湿地帯が広がっている。水路が入り組むその辺りは開発が進んでおらず、もともとは逃亡奴隷や人生をしくじって流れ着いた貧乏白人たちが、粗末な小屋を建てて生活する土地となっていた。彼らはホワイト・トラッシュと呼ばれ、唯一の市街地であるバークリー・コーヴの住民から差別を受けていた。ただ、湿地は多様な生物が棲む豊かな土地でもあり、魚介類が豊富で、その気になれば自活できる環境にあった。

主人公のカイアは両親と兄姉とともに潟湖とオークの森に隔てられた海沿いの土地に建つ小さな小屋に住んでいた。貧しい暮らしではあったが、優しい母や兄のジョディに守られて六歳までは健やかに育った。一九五二年八月のある朝、母が家を出て行った。父親は酒を飲んでは暴力をふるう男で、残された兄や姉は次々と家を出て行き、二度と帰ってこなかった。いちばん年の近い兄のジョディも、出て行ってしまうとカイアは一人になった。

父に定職はなく、戦争で足を負傷したため障害年金で生活していた。もともとは広大な綿畑を持つ富裕な一家に生まれたが、大恐慌が起き、ゾウムシに綿がやられ、借金を負い、家を失った。学校をやめて働き出したが、何をやっても長続きしない。妻の実家は製靴工場を経営しており、そこで働き夜学に通うも、酒に溺れて退校処分となる。心機一転まき直しのため、湿地に建つ小屋へ家族で引っ越し、出直すはずだったが結局は酒浸りというのがこれまでの経緯。救いようのない男だ。

ぷいと家を出ると何日も帰ってこない父は頼りにならず、カイアは記憶に頼り、トウモロコシ粥を作り、菜園のカブの葉をゆでて飢えをしのぐ。少しずつ家事もできるようになると、父もカイアを見直し、素面の父とボートに乗って魚を釣る平穏な日々も持てるようになった。そんなある日、母からの便りを読んだ父は手紙を焼き捨て、怒って家を出て行ってしまう。一人ぼっちになったカイアの孤独な生活が始まる。

帯に「2019年アメリカで一番売れた本」とある。ベスト・セラーというのは、ふだん本を読まない人がこぞって読むからベスト・セラーになるのだ、という。だから、設定はいささか極端なものになりがちだ。年端もいかない少女が、人里離れた湿地の小屋に一人きりで生きていくのだ。学齢が来ても、親のいない少女は学校に行かない。家に迎えに来た女性に連れて行かれた学校で「湿地の少女」とからかわれ、二度と行かなくなる。少女の友だちは小屋近くにある海辺に集まるカモメだけだ。

父親の置いていった金が途絶えると、貝を掘って袋に詰め、ボートで顔見知りの黒人の店に行き、物々交換でガソリンや食料品を手に入れる。ジャンピンという黒人は酷い差別を受けていたが、カイアに優しく、妻のメイベルは服やその他の品々をカイアのために都合してくれたりする。もう一人、テイトという少年との出会いがカイアの人生の転機となる。テイトはジョディの友だちでカイアを知っていた。鳥の羽の交換を通じ、二人は仲良くなる。カイアはテイトに読み書きを教わることになる。

乾いた大地が水を吸い込むように、文字を知ったことでカイアの知識欲に火がつく。もともと、貝殻や鳥の羽を集めるのが好きだったカイアは、それらを図鑑で調べ、名前や採集場所その他を記載するようになる。テイトは学校の教科書の他にも詩集やナチュラリストの書いた本をカイアに与え、カイアは自分の見知っていた物についてぐんぐん知識を吸収していく。それらはやがて、テイトの手を通じ、出版社に送られて本にされることになる。

二人は惹かれあっていたが、カイアに死んだ妹の面影を見ていたテイトは最後の一線を越えることなく、大学に入るため湿地を去った。再び一人になったカイアは、もう立派な女になっていた。そんなカイアに目を留めたのがバークリー・コーヴの商店主の息子で、フットボールの花形選手でもあったチェイスだ。二人は急速に関係を深めるが、結婚を約束しながら、チェイスは町一番の美女と結婚してしまう。

沼地に建つ火の見櫓から転落して死んでいたのはチェイスだった。不思議なことに足跡も指紋もないことから、保安官は殺人を疑う。チェイスが死ぬ少し前にカイアと争っているところが目撃されており、保安官はカイアを逮捕する。しかし、カイアはその夜、出版社の人間と会うため、別の町にいてアリバイがあった。後半は、カイアの弁護士と検察側の法廷劇となる。敏腕弁護士によって次々と証言の不備が暴かれていくのは痛快だが、カイアは差別されていて陪審員の出す評決は予断を許さない。

謎の提出で幕が開いた物語は、謎解きで幕を閉じる。そういう意味では通常のミステリのようだが、そうとも言い切れない。ホタルやザリガニをはじめとする湿地の多様な自然、種の保存の為になされる生物の行為、生命を維持するための動物の本能の持つ残酷さ。湿地の中でひとり生きる女の孤独。閉ざされた集団の持つ差別性。孤独な人間の中に育つ、他者との間に一線を画す心情。様々なものが多種多様な色糸で織りなされ、描き出された一枚の大きなタペストリーを思わせる一篇である。