青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『隠れ家の女』ダン・フェスパーマン

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二つの時間軸と二つの都市で物語は進められる。二つの物語が進行していく過程で、それまでばらばらに置かれていたピースが、位置が定まるにつれ、少しずつ絵柄が明らかになり、一枚の画が現れてくる。これは二つの部屋を行き来しながらジグソー・パズルのピースを組み合わせていくような、そんな入り組んだ仕組みの小説で、それでいて六百ページをこえる長丁場を一気に読み通すことのできる面白さも兼ね備えたスピード感のある小説である。

一つは一九七七年のベルリン。もう一つは二〇一四年のボストン。冷戦時代のベルリンを舞台にした物語は、当然のことにスパイ物。主人公はCIAに所属し、二年の訓練を終えてベルリンに派遣されたヘレンという若い女性。工作員としての派手な活躍を夢見てきたのに、与えられた仕事は「隠れ家(セーフ・ハウス)」の管理だった。そこで、彼女は重大な秘密を知ってしまう。一つは符牒を用いた秘密の会話。もう一つは諜報員が起こしたレイプ未遂だ。

「隠れ家」というのは、映画『裏切りのサーカス』にも登場する、スパイ小説や映画でおなじみの施設。諜報員同士の極秘の接触や秘密会議、あるいは一時的な避難のために、機密保護対策が万全になされた家のことだ。録音機材の管理点検の最中に、見知らぬ二人連れが現れたため、ヘレンは出るに出られなくなる。その間、階下の話をテープが記録してしまう。その晩、恋人のボーコムという古参スパイに強く言われ、証拠のテープを取りに戻ったヘレンは、レイプの現場に出くわしてしまう。そのときもテープは回っていた。

二〇一四年のボストンでは精神に障害のある息子が両親を銃で撃ち殺すという悲劇が起きる。姉のアンナは弟の無実を信じ、近所に住むヘンリーという青年を探偵に雇い、事件を調査しはじめる。すると、銃を持った弟と一緒に一人の男が目撃されていたことを知る。二人はその男について調べ始める。こちらは純然たるミステリだ。しかし、どうしてその二つの話が交互に語られるのだろうか。実は殺された母親の名はヘレン。二十七年後、女スパイはボストンの農場主の妻になっていたのだ。

女性が主役のスパイ小説というのは珍しい。しかも主題はセクシャル・ハラスメント。ヘレンが追いかける相手はソ連のスパイではない。立場を利用して弱い立場にある女性に性的な行為を強要する最低のクズ野郎だ。ところがこの男、組織の中では重要な任務に就いていて、ヘレンが太刀打ちできる相手ではない。テープのことは伏せておき、上司に報告を入れた途端、ヘレンはそれまでの権限をとりあげられ、秘密に触れることができなくなる。

八方ふさがりのヘレンに救いの手が差し伸べられる。パリ支局にいるクレアという女性が連絡してきたのだ。同じ男のスキャンダルの証拠を握っている。もう一人、アメリカにいるオードラという女性と三人で力を合わせ、その男と対決しようと。しかし、動き始めた途端にヘレンは解雇される。強制退去されるところを辛くも脱出したヘレンはパリを目指す。クレアと会って、力を合わせ、窮地を逃れ、レイプ魔をやっつけるために。

しかし、相手も名うてのスパイだ。部下を使ってヘレンをつけ狙う。追う者と追われる者との知恵比べ。何度も危うい目にあいながら、クレアやボーコムの助けを借り、ヘレンは難局を切り抜ける。秘密の場所を決めておいての情報の受け渡しや、偶然を装って咄嗟に情報を告げるなど、スパイ小説でおなじみの場面が繰り出される。この追いつ追われつのスパイ活劇がなかなかリーダブル。特段の新味はないのだが、女性が活躍するところが新鮮だ。

娘のアンナは母親似らしく、こちらもきびきびと動き回る。予想通りヘンリーと出来上がるのも早い。ヘレンは国立公文書館に通って、情報公開されたかつての秘密文書「グロンバック文書」を探っていた。民間の諜報活動を行う機関に関する文書で、グロンバック大佐はその創始者。秘密の符牒を使うのを好んでいたらしく、そこには、昔ベルリンの隠れ家で聞いた謎の符牒「湾、湖、動物園」等の意味が明かされていた。ヘレンの死はそれと関係があるのか。それとも精神を病んだ息子の衝動的な行動の結果なのか。

二人は、母親の使っていた実家の「隠れ家」の中から書類や写真、手紙の束、鍵を発見する。アンナはそれを手がかりに、自分の知ることのなかったCIAで働いていた当時の母の姿を再発見してゆく。それらの謎が解かれていくと同時に、母と同じ秘密を共有するクレアの安否が心配になる。電話をすると隣人が出て、クレアが車だけ置いて行方不明になったと知らされる。二人はオードラと連絡を取り、その家に向かう。ミステリとしては殺人の謎の解決が弱いが、お決まりのどんでん返しは用意されていて、楽しませてくれる。

「著者あとがき」によれば、グロンバック文書も、民間諜報機関<ザ・ポンド>も実在の文書であり、機関であるという。文書は長らく、ヴァージニア州の納屋に放置されていたらしい。二〇一〇年というから、つい最近CIAによって機密指定が解除され、現在はメリーランド州にある国立公文書館で閲覧可能だそうだ。全部で八十三箱というから相当な分量。謎の符牒も本物で、それを解読するための『グロンバック虎の巻』なる文書まであるという。