青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『あの本は読まれているか』ラーラ・プレスコット

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表題にある「あの本」というのが、ノーベル賞作家、ボリス・パステルナークの長篇小説『ドクトル・ジバゴ』。ソ連が出版を許可しないので、イタリアで出版され、瞬く間に世界中で翻訳され、ノーベル賞を受賞する。しかし、反革命的であることを理由に、ソ連は受賞式への参加を認めなかった。国外追放を怖れたパステルナークは国に留まることを選び、受賞を拒否。しかし、結果的にはノーベル賞を受賞している。

パステルナークは結婚していたが、オリガという歳の離れた若い愛人がいた。彼女がラーラのモデルである。この小説は東西冷戦期間中である一九四九年から一九六一年のソ連アメリカ、主にパステルナークの住むモスクワ近郊の村と当時CIAの本部があったワシントンが舞台となっている。CIAのスパイ活動を描きながら、世に知られている、いかにも血腥いCIAの作戦とは毛色のちがう、いわば文学的な香り漂う作戦を扱っているからだ。

中心になっているのは女性「タイピストたち」。有名大学で優れた成績を修め、意気揚々とCIAに就職した彼女たちは、その心意気を早々と挫かれることになる。CIAの前身であるOSSにいた女性たちは、前線で華々しい活躍をしたことが噂話で聞こえてくるのに、戦後のCIAで工作員になれるのはアイビー・リーグ出身の男性部員に限られていた。OSSの頃から勤めている有名な女スパイも今では年若い男たちの下で事務職をしている始末。タイピストたちは昼食時のカフェで、噂話に憂さを晴らす毎日だった。

彼女たちの職場「ソ連部」に新入りが入ってくる。ロシアの血を引くイリーナは美人だが、特にタイプ技術がすぐれてもいない。なぜ彼女なのか? イリーナの父は一家での渡米間近に港で逮捕され、その後死亡した。彼女にはソ連を恨む動機があった。もう一つ、彼女はどこにいても不思議と目立たなかった。それは情報を受け渡しする「運び屋」の必須条件だった。「運び屋」の技術を教えるうちに秘密工作員のテディは彼女を愛するようになる。

イリーナと対称的にどこでも人の目を引きつけてしまうのが、戦時中OSSで働いていたサリー。国務省の勤務に向いていないことを悟ったサリーは当時の伝手を頼って古巣に戻ってきた。彼女は魅力を武器に高官たちから情報を仕入れてくる「ツバメ」だった。サリーは一目見たときから、イリーナの才能に気づく。そして、テディに代わり、イリーナの教師役につく。全く正反対の二人だが、二人は初めて会った時から相手のことが好きになっていた。それは友だち以上の関係になることを暗示していた。

スプートニクの打ち上げ成功で、宇宙開発でソ連に一歩も二歩も先行されていたアメリカは、ハンガリー動乱の失敗もあり、すっかり意気阻喪していた。そんな時、サリーが手に入れてきたのがロシア語版『ドクトル・ジバゴ』を撮影したマイクロ・フィルムだ。CIAはこれを何百部も印刷し、ソ連内に持ち込み、国民を内部から揺さぶろうと考えたのだ。当然その任務はイリーナに与えられる。

一方、オリガは当局に逮捕され、尋問を受ける。彼の書いている作品について話せというのだ。彼女だけが書きあげたばかりの原稿が作家自身の口から朗読されるのを聞いていたからだ。しかし、彼女はどんなに責められても屈しなかった。彼女は矯正収容所送りとなった。スターリンの死により、解放されるまでの長い年月を劣悪な環境下で暮らしたことで、彼女は痩せこけ、別人のような姿で作家のもとへ帰ってきた。

小説は完成したものの、ソ連国内では出版は認められなかった。皮肉なことに、スターリンパステルナークの詩を愛していて、作家としての待遇は悪くなかった。ある日、二人の青年がパステルナークの家を訪れ、原稿を預かりイタリアで翻訳出版したいと持ち出した。自国での出版をあきらめていた作家は原稿を二人に託す。原稿はドイツを経由し、飛行機でイタリアに運ばれた。後日それを知ったオリガは作家を責めた。他国で出版されたりしたら、私はまた矯正収容所送りになる、と。

全体主義国家の過剰な情報統制の陰湿さは、今の我が国のそれによく似ている。さすがに矯正収容所までは行っていないが、SNSでの監視、批判は喧しい。まるで紅衛兵時代の中国を見ているようだ。閑話休題。一方、第二次世界大戦が終わり、戦後の平和を謳歌している当時のアメリカの佇まいがノスタルジックに描かれていて、音楽やダンス、食事や酒、サックドレスなどのファッション、と読んでいて懐かしい映画を見ているよう。

その少々軽薄で享楽的な雰囲気はスパイとしての情報受け渡しや、街角で出会う人々の背後にある物語を解読する技術の教育を描く部分にも揺曳している。イリーナとテディ、イリーナとサリーの、友情と愛が育まれて行き、それがイリーナとテディの婚約という頂点を迎えるところで三人の関係に陰が差し、やがて悲しい破局に至る。今となっては隔世の感があるが、同性愛を忌避する空気はCIA内部にも蔓延しており、讒言によってサリーは局を去る。

一冊の本が世界を変える、という主題は文学好きには堪らない。『ドクトル・ジバゴ』は、十月革命からスターリンによる大粛清に至る時代を奇跡的に生き抜いたインテリゲンチャの半生とその恋人とのロマンスを広大なロシアの大地を舞台に描いた長篇小説である。果たしてそれは「東」の世界の変革に影響力があったのだろうか。その後ソ連は崩壊し、ベルリンの壁は壊された。そう考えてみれば何らかの力はあったのかもしれないが、世界のその後は予想されたようには動かなかった。世界を変えるかどうかは知らないが、食べたものが体をつくるように読んだ本は人を作る。本は心して選びたいものだ。