青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ホーム・ラン』スティーヴン・ミルハウザー

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二〇一五年に刊行されたスティーヴン・ミルハウザーの短篇集<Voices in the Night>。何でも大きくて長いのが好きなアメリカでは短篇集でさえ厚い。日本でそれを訳すとなると、二分冊にするしか手はない。『ホーム・ラン』はその二冊の一冊目。残りは同じ訳者により二〇一一年『夜の声』(仮題)として刊行予定。作品の選択とその配列は訳者に課せられ、作者によって了承を得ている。

短篇小説八篇と短いエッセイが一篇収録されている。訳者は「短篇小説の野心」と題されたエッセイから読むことを強く推している。ミルハウザーの短篇についての考えを知るという意味でも、これから読むのもお勧めだ。でも、ミルハウザーならよく知っているというファンなら、冒頭の「ミラクル・ポリッシュ」から読むのもありだ。訳者には悪いが、やはりミルハウザーらしさが横溢している、この一篇から読み始めるのがいいかもしれない。

見知らぬ男から買った「ミラクル・ポリッシュ」という名の鏡の研磨剤。ふと思い出だして使ってみると、あら不思議。ふだんは人生に疲れ切った自分の顔が、顔かたちは同じなのに、どこかみずみずしく生き生きとして見えるではないか。ふだんは鏡など見ない自分が、ついつい鏡をのぞくようになる。その度に、なんだか自信に満ちた自分、いいことのありそうな自分が目に入り、元気づけられる。気をよくした「私」は部屋という部屋の鏡を研磨剤で磨き、遂にはホーム・センターに出向いて新しい姿見まで買う始末。

恋人のモニカも鏡の中では輝きを増している。いつ家を訪れても、ついつい自分ではなく鏡に映った「彼女」の方に目をやる男に、モニカは「あたしか彼女かよ」と最後通牒を突きつける。訳者のいう、この作家の短篇に多く共通するテーマ「ここではないどこかへの希求、その恍惚と挫折」がよく現れた一篇。人生を諦めかけていた男にかけられた魔法は、現実よりほんの少し見映えのする鏡の中の世界を生きることだった。しかし、彼女はそれを許さない。選択を迫られた男のとった行動は?

アルカディア」というのは、ギリシア由来の理想郷をさす言葉。ここでは森の中に建てられた「特別なニーズに応じるために作られた、のどかな森の隠遁所(リトリート)」のことだ。入居者向けに用意されたパンフレットには、お客様の声、スタッフの自己紹介、施設内の設備、湖や洞窟、沼、塔といった散策用のロケーションなどが、ランダムに配されている。いかにも高級リゾート施設への入所を誘いかける文面ながら、どこか違和感が残る。

たとえば「塔」の文章中にある「てっぺんでは展望台が塔の外側にぐるりとついており、腰の高さの手すりは著しく傷んでいます」という箇所や「沼」の「水は概して浅いのですが、水の下に隠れた、腐食した植物からなる沼地は足で踏むとその圧力で突然崩れる場合があります(略)とりわけ物騒な場所を示したパンフレットをご用意しています」という部分。わざと危険な場所に誘導しているようにも読めはしまいか。

<Et In Arcadia Ego>「われアルカディアにも在り」というラテン語の名言がある。ところで「われ」とは誰のことなのだろう? 実はこう言っているのは「死神」だ。アルカディアのような理想郷にさえ「死」は存在することを示唆している。この小説の「アルカディア」は、疲れて休息を求めている人、悲嘆に暮れて活路が見出せずにいる人、行き止まりに来てしまった人たちに、(死に至る)道を示すためによういされた施設だったのだ。

他に、久しぶりに母親の家を訪ねた息子と母の再会を描いた怪異譚「息子たちと母たち」。十三人の妻と同居する男が、それぞれの妻の特徴を淡々と語る「十三人の妻」。突然、自殺熱のようなものに襲われた町の住人が語る「私たちの町で生じた最近の混乱に関する報告」。お得意のアメリカのスモールタウンの夏の魅力を「ここではないどこかへの希求、その恍惚と挫折」というテーマで描き切る「Elsewhere」。

釈迦族の王子として、一切の危険と醜いものを遠ざけた城の中に暮らすガウタマが「生老病死」の四苦を知るに至るまでの若き日々を描いた「若きガウタマの快楽と苦悩」は、精緻な造りものを鏤めた在りし日のミルハウザーの世界を彷彿させる逸品。こういうのがもっと読みたいと思わせてくれる。しかし、誰でも年をとる。ミルハウザーとてそれは免れない。少年の日の熱に浮かされたような世界から、病や老いを扱う黄昏の世界への移行は紛れもない。

短篇小説の掉尾を飾る「ホーム・ラン」はマーク・トウェインが書きそうな途方もないほら話。これを最後に持ってきたのは訳者の自画自賛か。リズムに乗った、ハジケっぷりが半端ない。原文とはかなり変えているのだろうが、ノリノリの文章だ。古館一郎の朗読で聞いてみたいものだ。長篇小説重視のアメリカ文学の世界にあって、短編小説家の肩身の狭さを厭うかのような出だしから、一気に形勢を逆転し、短篇小説の持つ力の万能感を謳いあげるエッセイ「短篇小説の野心」は、やはり最後に読むのが相応しい。ミルハウザーの意気軒高ぶりがうかがわれ、こころ強い。