青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ラスト・ストーリーズ』ウィリアム・トレヴァー 栩木伸明訳

f:id:abraxasm:20200703124625j:plain

ウィリアム・トレヴァーの絶筆「ミセス・クラスソープ」を含む、文字通り最後の短篇集。トレヴァーのファンなら誰でもすぐに手に取って読もうとするはずだから、こんな駄文を弄する必要もない。だからといって、初めての読者にぜひ読んでほしいと勧めようとも思わない。多分、とっつきにくいと思うから。はじめてトレヴァーの短篇集を読んだときは、首をひねった覚えがある。それまで読んでいた外国文学と少々趣きがちがったからだ。

派手なところはないが、落ち着いているとも言い難い。ひねった言い回しではないのに、妙にとらえどころがない。一読したところ、書いてあることは理解できるのに、全部わかったとは思えない。つまるところ、自分には合わないのだと思った覚えがある。ところが、それからしばらくして、トレヴァーの別の短篇集を読んでみたところ、これには興趣を覚えた。いったいどういう訳なのか。何冊か読んでから、最初の本を再読したら、初読時とは印象が全然違った。どういうことだろう。

短篇小説の定義を問われ、トレヴァーはこう答えている。

それは一瞥の芸術だと思います。長篇小説が複雑なルネサンス絵画だとしたら、短篇小説は印象派の絵画です。それは真実の爆発でなければならない。その強さは、絵に盛り込まれたものと同じくらい――それ以上ではないにせよ――そこから削られたものに負っています。短篇小説においては無意味なものを排除することが重要です。ただその一方で、人生はほとんどの部分が無意味なのですけど

小説の中で、人物の抱える「真実」の爆発する強さが、そこに盛り込まれたものより、そこから削られたものに負う、というのがまさにそれだと思う。ふつうの作家の小説は過不足なく書かれていればいい方で、強さを求めてあれこれと盛り込みすぎるきらいがある。そうする方がいいと思うからだろう。違うのだ。トレヴァーの言う通り「人生はほとんどの部分が無意味」なのだ。でも、人生のほとんどが無意味だなんて誰に分かるだろう。

トレヴァーの作品で主人公をつとめるのは、ほとんどが無名の市井の人々である。そういう人々にとって、ほんとうに意味のある人生の瞬間とは、そう度々あるとも思えない。自分の人生を振り返ってみても、日々はほぼルーティンの繰り返しだ。わざわざ取り出して見せるワンカットなど見つかりそうもない。しかし、誰にだって人生の中で一度くらいは「真実」が爆発する時があるにちがいない。それをどう切り取ってみせるかが短篇小説作家の力量なのだろう。

しかも、盛り込むことにではなく、無意味なものを削ることなくして、トレヴァーの短篇は生まれない。はじめて読んだときに感じた分かり難さは、そこにあった。ここぞという場面に強度を与えるため、トレヴァーはあえて省略する。トレヴァーを読むとは、与えられたものを手がかりに、省略された部分も読むということだ。気楽に構えて読んでなどいられない。うかうかしていると大事な一文を読み落とす危険がある。

ミステリを読んでいて、ちらっと書かれていたことが大事な謎を解くカギになっていた、と気づかされることがある。再読すると、ちゃんと触れられていて、よく読めば自分にだってわかったはずじゃないか、と思ってしまうが、そうではない。よく読めば分かるが、普通に読んだだけでは分からないように作者は気を配って書いているのだ。トレヴァーの短篇はミステリではないが、書かれていないものが謎のように働くことがあり、最後になってはじめて分かることもある。

「ピアノ教師の生徒」は、素晴らしい芸術家とその人間性の関係を主題に、人は誰しも自分を基準にしてものを見ることから逃れられないという真実を見つめた一篇。足の不自由な男」は、賃仕事を求めて人の寄りつかない一軒家にやってきた二人が豹変した夫人の態度をいぶかしむという「ミステリの味わいがある。「カフェ・ダライアで」は、一人の男をめぐって仲たがいした旧友の女二人。一度ひびの入った関係を修復することの難しさをじっくり見つめている。

「ミスター・レーヴンズウッドを丸め込もうとする話」は、若い女を食事に誘い、自宅に連れ込んだ裕福な銀行の顧客から金をせびろうとする話。高級住宅地まで来てはみたものの女の心は揺れるばかり。「ミセス・クラスソープ」は、妻に先立たれた男と年上の夫を亡くしたばかりの女との出会いとすれちがいを異なる視点で描いてみせる。人生の哀感を抑制の効いた筆致で描き出す。「身元不明の娘」は、不自然な死を遂げた孤独な娘の生活背景が最後の最後まで明かされない、という焦らしの効果を狙った作品。

「世間話」は妻子ある男性に勝手に思いを寄せられて、夫を返せと妻に非難され、困惑する女だが、実は女にも秘められた悲話があった。記憶障害を持つ絵画修復士と娼婦の一夜の出会いの奇跡を描く「ジョットの天使たち」。荒野(ムーア)を舞台に男と女の運命的な出会いと別れを描いた「冬の牧歌(イデイル)」。寄宿学校に入った娘とその父親の物語と役所を早期退職した二人の女の物語が交互に語られ、それが最後に交わることで、娘の出生の謎が明かされるミステリ仕立ての「女たち」、と最後まで、衰えをみせなかったトレヴァーの筆力が窺える、どれも読みごたえのある全十篇。

『賢者たちの街』エイモア・トールズ

f:id:abraxasm:20200603101433j:plain

『モスクワの伯爵』で、とんでもない逸材を引き当てたと思ったエイモア・トールズの、これが長編デビュー作。一九二〇年代から一九五〇年代のロシアを舞台にしたのが『モスクワの伯爵』なら、これは一九三七年のアメリカ、ニューヨークが舞台。まるでタイムマシンに乗ってその地を訪れているかのような、ノスタルジックな世界にどっぷり浸れるのがエイモア・トールズの描き出す作品世界。デビュー作とは思えない完成度の高さに驚かされる。

一九六六年十月四日の夜、中年の後半に差しかかっていた「わたし」はニューヨーク近代美術館で開かれた写真展のオープニング・パーティに出席した。黒のタキシードと色とりどりのドレスがシャンパンで酔っぱらう騒がしい会場を脱け出し、写真に見入っていた「わたし」は、その中に懐かしい顔を見つける。ティンカー・グレイ。二十年以上も前に撮られた二枚の写真には歴然とした違いがあった。一枚は金持ち然として疲れ、もう一枚はみすぼらしく薄汚れているものの眼が輝いていた。それには一つの物語があった。

舞台はニューヨーク、マンハッタン。一九三七年の大晦日の夜、二十五歳のケイティは、ルームメイトのイヴと連れだって、グレニッチ・ヴィレッジにあるナイトクラブに出かけた。ホット・スポットという名の店ではクアルテットがジャズのスタンダード・ナンバーを演奏していた。持ち金が切れ、誰かにおごらせようとしていたとき、カシミアのコートを着た男が現れた。兄に待ちぼうけを食わされたセオドア・グレイ。裕福な銀行家は愛称をティンカー(鋳掛屋)だと告げた。

一人の男に二人の女。典型的な三角関係のはじまりかと思ったが、予想は覆される。何日かたったある日、二人を乗せたテディのメルセデスがトラックに追突され、イヴが顔と脚に大けがを負ってしまう。責任を感じたテディは、退院後イヴを自分の高級アパートに同居させた。イヴの表現を借りるなら、「壊したから買ったの」だ。ルーム・メイトを失ったケイティは下宿を出て一人で暮らし始め、二人と会うことは稀になった。

ケイティの本名はカティヤ。ロシア移民のコミュニティのあるブルックリンのブライトンビーチ育ちだが、現在はウォール街の法律事務所で秘書をしている。そういう意味では、サクセス・ストーリーの勝ち組である。イヴはインディアナ州の富裕層の娘で気ままな暮しに憧れてニューヨークにやって来た。ティンカーはケイティの読みではボストン生まれでアイヴィー・リーグ出身という上流階級に属する。

一人の男をめぐる女たちの物語であると同時に、社会階層の上昇と転落の物語でもある。ニューヨークにアール・デコ様式の摩天楼が聳え立ちはじめた三十年代。資産家やその子息たちは何かというと広大な敷地内で豪勢なパーティを催していた。運転手付きのベントレーロールス・ロイスの後部座席に乗り込んで、高級レストランやバーに出かけては仲間同士の集まりを楽しむ、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』のような世界が、小説を鮮やかに彩る。

その中には、テディの学校の上級生で、父親の後を継いだウォルトのような衒いのない本物の紳士もいれば、ディッキーのような若くて陽気な資産家の嫡男もいる。テディと暮らすうちに、イヴはその中に苦もなく入り込んでいく。そんなイヴは周囲の目にはテディの妻の座を射止めようとする野心家のように見えていた。ケイティもまた、秘書仲間の誘いで、彼女たちの兄弟が催すその種のパーティに顔を出すようになっていた。

摩天楼の最上階から下界を見下ろす気分や、シャンパンやマティーニを飲んで出来たばかりのフランス料理店で極上の料理を味わう気分が、ケイティの眼を通してふんだんに披露される。多少、スノッブの匂いがする気がしないでもないが、これが「わたし」の回想視点であることを思い出せば、これくらいは許されるだろう。素のケイティはディケンズをこよなく愛する読書好きで、作中にはウルフやヘミングウェイといった当時の人気作家の文章が至る所に鏤められ、文学好きの心をくすぐる。

大方の予想を裏切って、イヴに逃げられた傷心のテディはケイティに救いを求める。焼けぼっくいに火がついて、二人はつきあい始める。ところが、またもや邪魔が入る。今度はテディという人間にまつわる秘話だ。テディは苦労知らずのアイヴィー・リーガーではなかった。父の失敗のせいで学費が払えなくなり、プレップ・スクールを退学した過去を持つ。転落のハンディを背負いながら、必死で頑張ってもとの場所まで這い上がってきたのだ。

親から受け継ぐのは、資産だけではない。食事のマナーや社交上の儀礼、服装や会話の品格といったブルデューのいう「文化資本」がものを言う世界。ワシントンの小さな本を読んだくらいでは身につくものではない。そういうことには厖大な金がかかるのだ。しかし、テディはそれを身につけることができた。そこに彼の秘密があった。あるとき、ケイティは偶然、それを見つけてしまう。それがテディとケイティとの仲を裂くことになる。

冬に始まった関係が春を迎え、秋を知り、再び冬を迎える。季節の移ろいの中で、人々もまた移ろってゆく。ニューヨークという、世界に二つとない魅力にあふれる場所で繰り広げられる、粋で洒落ていて、疾走するジャズのように、目まぐるしい人間模様。ノスタルジックでありながらヴィヴィッドなムード満載の恋愛小説であり、勇気を持ち、真摯に自分の人生を生き抜こうとする人々の人間群像を描いた都市小説でもある。

原題は<RULES of CIVILITY>。巻末に付録としてついている、若き日のジョージ・ワシントンが記した『礼儀作法のルールおよび交際と会話に品位ある振る舞い』の前半部分を踏まえているのだろう。このままでは、書店でハウツー本のコーナーに並べられかねないのを危惧して、邦題を『賢者たちの街』としたのだろうが、この小さな本は、作品の中では重要な役割を果たしている。そのまま『礼儀作法のルール』で、よかったのではないだろうか。

 

『死んだレモン』フィン・ベル

f:id:abraxasm:20200701183918j:plain

原題は<Dead Lemons>だから、邦題はほぼ直訳。辞書で引くと<lemon>には「できそこない、欠陥品」の意味がある。色と香りは抜群なのに、かじると酸っぱいからだろうか。レモンにしてみれば、とんだ言いがかりだ。<dead>には「まるっきり、すっかり」の意味がある。くせの強いセラピストが、主人公の現状を指していう言葉なので「まるっきりダメ人間」くらいの意味なのだろう。邦訳は格調高く「人生の落伍者」となっている。

主人公の名は、作家と同じ、フィン・ベル。ウェリントンに住む三十六歳の白人で、仕事も家庭生活もうまく行っていたのに「中年の危機」に陥り、自分の人生を疑い始める。人に頼らず解決しようとした挙句、アルコール依存症となり、妻も友人も失い、飲酒運転でトラックに追突し、腰から下が麻痺状態に。今は車椅子を使っている。退院後、事業を整理して自宅を売り払い、ニュージーランド南島の最南端、リヴァトンという町に流れ着く。

第一章に「現在」とあるように、二つの時間軸が交互に入れ替わる。主人公の現在置かれてる状態というのが「八メートル下に波が逆巻く崖の上、頭を下にして宙ぶらりんでいる」というのだから異様だ。「片脚が車椅子ごと巨石の間にはさまったおかげ」らしい。追いかけていた事件の証拠を発見したところを犯人の一人に見つかり、崖から落とされそうになるが、相手の腕をつかみ、逆に相手を崖下に落としたばかりだ。

第二章は「五か月前」。主人公がこの町に来て、丘の上に建つ「最果ての密漁小屋」と呼ばれるコテージに居を定めるところから始まる。リヴァトンは一時期、捕鯨とゴールドラッシュで賑わったが、資源が尽きると、多くの者は土地を去り、残った者は密漁や海賊行為に走った。海沿いの小屋はその名残りだ。住民は原住民のマオリと各国から流れついたよそ者に分かれる。その中には、町ができる以前から住み着いているゾイル家のような得体の知れない一族もいた。ベルを突き落とそうとしたのはそのゾイル家三兄弟の長男だ。

はじまりは、猫だった。どこからか入り込んできた猫のことで、コテージのまえの住人エミリーを高齢者向けコミュニティーに訊ね、彼女が二十数年前に娘と夫を失ったことを知る。図書館で昔の新聞記事にあたると、当時十二、三歳と思われるアリスの失踪にはゾイル家の関与が疑われていた。ただ、警察が調べても確たる証拠が揃わず、現在も行方不明のままだ。父のジェイムズが消えたのはその一年後。警察はすぐにゾイル家を捜索したが、やはり何も発見できなかった。

ベルがこの事件を調べ始めたのは、隣に暮らすゾイル家に強い違和感を感じたせいだ。町の人との間に距離を置き、独自の暮らしを続けるゾイル家は、それまでも住民との間に様々なトラブルを抱えていた。ベル自身、夜間によく停電するので、電気を時間によって使い分ける話し合いに訪れたとき、豚の解体の途中だった、と腕を血まみれにした兄弟に間合いを詰められ「この三兄弟はどこかおかしい。心がざわざわするような、妙な空気を感じる」と強く感じたのだ。

崖の上で逆さ吊りにされたベルが、この苦境をどう乗り越えるかが、文字どおり、サスペンス(宙吊り)となって、ページを繰る手が止まらない。一方で、リヴァトンの町に落ち着いたベルは、マーダーボールという車椅子ラグビーに夢中になる。それを通じてタイというマオリの友人もでき、その従妹のパトリシアという長身の美女ともつきあい始める。ベティという老セラピストの独特のカウンセリングを通じて、自分の抱える問題点に少しずつ近づいてゆく。表題通り、これは「人生の落伍者」が再び人生に復帰する物語でもある。

その一方で、ベルは過去の事件の資料を求めて、地元紙の記者ベイリーを訪ねる。ベイリーはエミリーの弟だった。初めは、姉をそっとしておいてほしい、と渋っていた彼も、ベルの本気を知り、かつての担当刑事を紹介してくれたり、自分の集めた資料を提供してくれたり、と協力的になる。ところが、ベルが話を聞いた、タイの伯父にあたる郷土史家が首を吊ったり、コテージが家探しにあったり、不審なことが立て続けに起こる。

現在のパートはハラハラドキドキのサスペンス。過去のパートはミステリ。過去が現在に追いついたとき、周到に張り巡らせてあった伏線を最後に鮮やかに回収してみせる本格ミステリになる。捕鯨や、金の採掘といったニュージーランドの歴史に関する興味、それに変わり者のゾイル一族の出自にまつわる謎とあいまって興趣は尽きない。南アフリカ共和国生まれ、というベルの出自が謎を解く手がかりとなるなど、プロットもよく練られている。

自殺用に、頭を吹っ飛ばすことのできる、ホローポイント弾が装填できる銃を買うほど追い詰められていた男が、マーダーボールという格闘技のようなスポーツによって、生きることを実感し、パトリシアとの出会いによって愛について本気に考えはじめ、いつの間にか再び人生を前向きに捉えはじめたところ、崖に宙吊りされ、絶体絶命、まさに崖っぷちだ。何という皮肉。しかし、死を前にすることで、かえって激しく生を求める、のも事実だろう。

「死んだレモン」状態だった主人公を生き返らせるためには、それほど強烈なカンフル剤が必要だったのかもしれない。ベルは何度も危機に見舞われ、そして、そのたびに不死鳥のように(文字通り、火の中から)よみがえる。話がうますぎると思うところもあるが、南ア出身の双子の刑事を上手に使うことで、その不自然さを回避している。お定まりのどんでん返しまで用意され、読者をあっと言わせること請け合い。圧巻のページ・ターナーである。

『発火点』C・J・ボックス

f:id:abraxasm:20200604143700j:plain

コロラド州デンヴァ―にある環境保護局第八地区本部から、二人の特別捜査官が、ある件に関わる裁定文書をワイオミングまで届けに行くところから話は始まる。途中シャイアンの町で、陸軍工兵隊員の男と待ち合わせるが、男は二人が銃を携行していることに驚き、途中で姿をくらます。二人の特別捜査官は待ち合わせ場所に出向き、誰かに撃たれて死ぬ。この二人が主人公かと思っていたので、冒頭でさっさと死んでしまうことに驚いた。実は主人公は別にいた。

猟区管理官のジョー・ピケットを主人公とする、シリーズ物の最新作である。二人を殺して埋めた容疑者はブッチ・ロバートソンという男で、死体の埋まっていた分譲地の持ち主だ。ブッチは、ジョーの娘ルーシーの親友ハナの父親で、その日の朝、ジョーは仕事中、森の中でコーヒーのために火を焚いていた彼と話をしたばかりだった。森の木はマツクイムシにやられ、地表には枯葉が積もっていて、マッチ一本の火で山火事が起きる危険があった。

このシリーズは初めて読んだが、山に生きる主人公が魅力的だ。広大なワイオミングの山岳地帯に分け入り、森の生き物の暮らしや環境を守り、違法な狩人から動物たちを守る、今の仕事が気に入っているが、体の方は若い頃のように無理がきかなくなった。家族のことを考えると、現場を離れてデスクワークをすることも視野に入れる必要がある。どうやらこれまで、上や周囲との間に様々なトラブルを抱え込んでいるようで、なかなか腹を括れない。

ブッチの妻パムの話によれば、夫妻は金を貯めて湖を臨む土地を買い、そこに家を建てる気でいた。基礎工事のためにトラクターを動かして三日目、環境保護局から三人の女性がやってきて、夫妻の土地は湿地帯に属しており、形状を変えると莫大な罰金を払うことになる、と警告された。何度電話しても責任者と話ができず、一年経ち、何かの間違いだったのだと思い、トラクターを動かし始めたら、書類を渡すから待つようにと連絡があったという。その話には引っかかるものがあった。サケット事件に酷似していたからだ。

環境保護局から来たファン・フリオ・バティスタという男は権力を笠に着て、強引にブッチを逮捕しようと焦っていた。犯人の首に賞金を懸けるとまで言い出すので、ブッチに危険が及ばぬよう、ジョーは捜査員を案内して山に入ることにする。どちらが指揮を取るかで、州知事ルーロンと環境保護局地区本部長のフリオとの間で一波乱あるが、フリオはヒスパニック系というマイノリティの出自を盾に、白人による差別だと言い立て、逆に知事を抑え込んでしまう。鼻持ちならない男だが、悪知恵だけは働くようだ。

一方、賞金の一件を聞きつけた元保安官マクラナハンは、以前ブッチの店で働いていて、一緒に狩りをしたことのあるファーカスを道案内人として雇い、ソリオという狙撃手を引き連れ、反対側から山に入る。マクラナハンはブッチを射殺して賞金を射止めるだけでなく、選挙で自分を追い落した新保安官リードの鼻を明かし、次の選挙での返り咲きを目論でいた。

慣れない山中を馬で行く捜査員を率いるのはアンダーウッドという環境保護局管理特別捜査官だ。探索行の中で言葉を交わすうちに、ジョーは、プロとして仕事を果たそうとするこの男に親近感を覚えるようになる。話をするうちにフリオという名が新しい名で旧名がジョンだと知ったジョーは妻に電話してフリオについて調べさせる。すぐに圏外になる電話が人物や読者を焦らし、サスペンスを盛り上げる。さらにGPSが思わぬ悪さをすることに。

時が経つにつれ現場を知る者と机上で命令を下す者との対立が募っていく。食料その他、野営の準備もせずに山に入った捜査員に対し、山での狩りに慣れているブッチには準備に遺漏はなかった。マクラナハン一行はターゲットを捕捉し、ソリオは千六百メートル向こうの迷彩服の男を仕留めるが。相手は一枚上だった。逆に襲撃され、人質にとられてしまう。ブッチはフリオを電話に呼び出し、人質の命と交換に脱出用のヘリを要求する。

後半は、現場を知らない男の愚行が原因で山火事が起きる。ジョーは、急いで山を下りるアンダーウッドたちと別れて、ブッチを探すために、炎の迫る山にあえて残る。ジョーはブッチを見つけるが、山火事からどう逃れるかを考えねばならなかった。昔、シャイアン族が凶暴なポーニー族に追われ、切り立った絶壁の渓谷を渡った言い伝えがある。ジョーは以前、その跡をたどったことがあった。今はそれに賭けるしかなかった。

ジョーとブッチは手足纏いの二人を連れ、背後に迫りくるオレンジの炎を避けながら、サヴェッジ・ランを行く。この山火事からの脱出行が、ただならぬ迫力だ。まさに冒険サスペンス。ひとつ急場を乗り越えると更なる難関が待ち受けている。自分一人でも厄介なのに、山に不慣れな腹の出たマクラナハンまで連れて逃げなければならない。しかも、ずっと敵対してきた相手だ。それでも、最後まで命を守ろうと猟区管理官は最善を尽くす。

ようやく、渓谷の底を流れる川に降り、火傷を負った体を冷やす。ジョーは漂流物の中から丸太を掘り出し、今度はそれを舟代わりにして急流下りだ。左右に岩が突き出た激流を乗り切るため、右に左に舵を切る二人。息もつかせぬ急展開の連続。最後には誰も見たことのない大滝が待っていた。打ち身と切り傷だらけになりながらも、ジョーはこの川下りを満喫し、無事生還したら、いつか戻ってこよう、と思うのだった。

ミステリによくある汚れた裏街ではなく、山の美しさと怖さを描き切っているところがいい。環境を守る立場にありながら、法を悪用して私欲を満たす男がいる一方、命を賭して自分の仕事を完遂する男がいる。持つべきでない人間に権力を持たせることの愚かしさ、恐ろしさに改めて思い及び、エピグラフにある「悪の凡庸さ」が腑に落ちた。読者は、持てる知力と体力をフル活用して危機的状況を克服する主人公の活躍をたっぷりと堪能されたい。山岳小説好きとしては、シリーズの過去の作品を読みたくなった。作中ちらっと姿を見せる凶悪な印象の鷹匠ネイトが活躍するスピン・オフまであるというから楽しみだ。

『ウィトゲンシュタインの愛人』デイヴィッド・マークソン 木原善彦訳

f:id:abraxasm:20200616100026j:plain


SF的な味わいのジャケットに惹かれて手を出すと裏切られる。たしかに、地球にただひとり残る女性が主人公であることはまちがいないが、なぜそういうことになったのかについての説明は一切ない。「汚染」という言葉が出てくるから、何かが起きたのだろう、ということは想像できる。であるにせよ、どういう理由で、この四十代後半と思しきアメリカ人女性だけが、人はおろか動物その他の姿の消えた地球上に、十年以上も生き続けているのかについて、答えを求めても得るところはない。

説明できないのは、多分本人も知らないからだ。この本は「私」の独白、というより、タイプライターを叩いて、紙の上に印字したものとしてある。自分が記憶しているものごとを思い出しては、脈絡もなく、それからあれへと話題をつなげてゆく。過去の出来事が多いが、その中にぽつりぽつりと現在の様子が混じるので、今は夏、「私」がいるのはアメリカの海辺の近くの廃屋で、そこからは砂丘が見えることが分かる。 

かつて「私」はしばらくの間「心から離れた状態(アウト・オブ・マインド)」でいたことがある。言い換えるなら「正気を失っていた時期」「記憶から消えた時間」があったということだ。ここまで分かったところで、「訳者あとがき」に書かれている、J・G・バラードの次の文章を読んでほしい。「真のSF小説の第一号は――誰も書かなければ私が書こうと思うのだが――記憶を失った男が浜辺に横たわり、錆びた自転車の車輪を見つめ、その車輪と自分との関係の中にある絶対的本質をつかもうとする、そんな物語になるはずだ」。

浜辺に住む記憶を失った男が、自分の目にしているものと自分との関係の中にある絶対的本質をつかもうとしている。男と女を入れ替えたら、これは、J・G・バラードが書くことがなかった「真のSF小説」にそっくりではないか。「絶対的本質」とはまたご大層な物言いだが、表題の「ウィトゲンシュタイン」がここで関係してくる。ウィトゲンシュタインには「語りえぬことについては、沈黙するしかない」という名文句で知られる『論理哲学論考』という著書がある。

つまり、この小説は、J・G・バラードの設定を借りながら「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の世界に人が暮らしたらどうなるかを実験した小説」(デヴィッド・フォスター・ウォレス)なのだ。もう一つ、男性優位の世界をひっくり返してみせるのに、男と女を入れ替えていることからも分かるように、これは「真のSF小説」を目指した真面目くさった実験小説ではない。「論考」は難解極まりないことで有名だが、作家はその難解なテクストを使ってパロディーをやろうとしたのだ。

地球に記憶をなくした女ひとり、というSF的な設定を借りることで、世界を名づけるのは「私」ひとり、という絶対的な場を与えたのだろう。「私」が何かを語ることでしか、世界は存在しない。「私」の言葉と世界は対応している。「私」が誤れば世界も偽りとなる。だから「私」は、自分の記憶の誤りを何度も訂正する。曖昧な文を見つけると、次の文に正しく書き直す。そのこだわりが、いちいちウィトゲンシュタインの命題に関わっているように思えてくる。

命題その一は「世界はそこで起きることのすべてだ」。画家の「私」にとっての世界はまず絵画だ。「私」は世界中の美術館を訪ねている(ロシア語が読めないのでエルミタージュには行っていない)。面白いのはそこが鑑賞のためだけの場でなく、暖を取るための材料として大量の額縁をや絵が保存されている場でもあることだ。名画と呼ばれる絵画も布と木でできた物質だ。視点が変われば価値も変わる。

「私」の画題はトロイア戦争におけるヘレネやカッサンドラといった悲劇的な女性像。別にトロイア戦争を知らなくても読むことに支障はないが、知ってた方が楽しく読める。クリスタ・ヴォルフの『カッサンドラ』はお勧めだ。「私」は車でトルコに行き、トロイア遺跡を見学し、その意外な狭さにがっかりしている。たしかに、実際この目で見ると共感したくなるほど小さい。しかし、トロイア戦争自体、史実かどうかもはっきりしていないのだ。

「究極の二十世紀小説」とか、やたら威勢のいい惹句のせいで不安を覚える読者がいるかもしれないので、老婆心ながらひとこと申しそえると、『ウィトゲンシュタインの愛人』は、誰にでも読めるし、卑近なユーモアに溢れていて、抜群に面白い。たしかにペダントリーが駆使され、画家や、音楽家、哲学者にまつわる挿話が次から次と披露されるので怖毛をふるうかもしれないが、ご心配なく。「私」だってクロード・レヴィ=ストロースをジャック・レヴィ=ストロースと誤記している。名前の列挙は作家の遊び心の現れと見ればいい。

遊び心といえば、「私」は夏の季節、裸で暮らしている。世界に自分一人なら、そうなるのが自然かもしれない。昔はいろんな物を車で運んでいたが、ガソリンが切れたら別の車に乗りかえるしかない。その度に載せ替えるのが面倒で、今では数着の衣類以外は捨ててしまっている。絶対的本質を求める哲学者のカリカチュアだろう。以前は瓶詰の水を飲んでいたが、人がいなくなった今はテムズ川の水が生で飲めるという。人がいなくなれば世界はクリーンになる。当然水道は使えないので、大便は近くの海、小便は砂丘ですます。このあたりはSFっぽくて笑える。

「世界はそこで起きることのすべてだ」という命題をはじめ、「私」の独白はいちいちもっともらしく語られるのだが、正確を期そうと心がける、その端から記憶ちがいを書き連ねるし、自分の知ってることを饒舌に書きちらしながら、それを知ったのがちゃんとした本でなく、レコードのライナー・ノーツや子ども用の伝記であることをばらしてしまう。教養のひけらかしは、生理的現象の話で一気に笑い飛ばされ、奔放なユーモアと情感に満ちた情景描写が立ち現れる。

パンデミックが起き、世界を悲観的に見てしまいがちな、この時代だからこそ、読んでみたい、しなやかで、したたかな一冊。どんな境遇に置かれたとしても、「私」のように、冷静かつ知的に事実をたんたんと見つめ、ユーモアを忘れず、自分の身のまわりにあるもの、たとえば夜明けや落日の荘厳さを愛で、それを言葉で表してみること。人と世界とはそういう関係で結ばれている。そう、「語りえぬことについては沈黙するしかない」のだから。

 

『スパイはいまも謀略の地に』ジョン・ル・カレ

f:id:abraxasm:20200708114529j:plain

ジョン・ル・カレは、映画にもなった『寒い国から帰ってきたスパイ』、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(邦題『裏切りのサーカス』)、『誰よりも狙われた男』等々、数々の傑作をものしてきたスパイ小説の大家である。作家になる前は英国諜報機関MI5に入り、後にMI6に転属、二等書記官として旧西独大使館、ハンブルク総領事館に赴任した経験を持つ。

自身の経験や見聞、取材に基づいた事実をもとにストーリーを組み立て、複雑なプロットを駆使し、一筋縄ではいかない込み入った状況を巧みに操る力を持っている。冷戦が終了したとき、これでスパイ小説は終わった、と誰もが思った。が、どっこい、その後もル・カレはしぶとくこのジャンルに留まっている。キム・フィルビー事件を素材にとった『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』、イスラム過激派を扱った『誰よりも狙われた男』と、時代は変わっても、人間にとって国家が存在し続ける限り、題材には困らない。

本作の舞台はEU離脱に揺れるイギリスの首都ロンドン。主人公で語り手でもある「私」はナットと呼ばれる、イギリス情報局秘密情報部に勤める有能な要員運用者(エージェント・ランナー)。しかし、四十代後半ともなれば、現役のスパイではいられない。デスクワークの嫌いな彼は引退も覚悟していた。そんな彼に用意されたポストは<安息所>(ヘイヴン)と呼ばれる本邦内のロシア支局で、彼に言わせれば「ロンドン総局の管理下にあるまったく機能していない下部組織で、再定住させた無価値の亡命者と、落ち目の五流の情報屋をまとめて捨てる廃棄物処分場」だ。

そんなところで、一つ拾い物があった。最近加わったメンバーでフローレンスという若い女性だ。そのフローレンスが立てた<ローズバッド>作戦が彼の目にとまったのだ。ロンドン在住の新興財閥(オリガルヒ)のウクライナ人がモスクワ・センターとつながっていて、その怪しい資金の出所を探るというものだった。怖いもの知らずで、作戦の提案書にも道徳的な怒りをたぎらせずにはいられないフローレンスは、本署でも重要な役が任されている。

話は変わる。ナットは運動好きでバタシーにある<アスレティカス・クラブ>のバドミントンのチャンピオン。そんなナットにある晩、エドという青年が試合を申し込みに来る。実際戦ってみると両者の腕はほぼ互角で、いい好敵手だった。気のもめる仕事の息抜きに最適な相手を見つけたナットは土曜の夜にエドと力の限り試合し、その後いつもの場所でラガーを飲んで雑談をするのを楽しみにしていた。エドの関心は、現在の世界が置かれた状況についてで、特にEUを離脱しようとしているイギリスとそれを煽るトランプに腹を立てていた。

それはエドの求めでダブルスの試合をした夜のことだった。妹のローラがバドミントンをしたいと言っている、ついては誰かバドミントンのできる女性を知らないか、というのがエドの頼み。フローレンスに訊くと難なく了承してくれた。試合後、四人で食事に行くところで、電話が入った。<ヘイヴン>からで、休眠中の工作員から至急来てくれと連絡があったという。要員からの依頼は断れない。「私」は三人と分かれ、ヨークに向かう。

休眠工作員はセルゲイといった。ずっと音沙汰のなかったモスクワから連絡が入った。ロシアの大物スパイがロンドンに現れるという。ついては<隠れ家>を用意せよというもので、それは完璧主義を絵に描いたような注文だった。「私」はある人物を思い出し、過去に要員だった男に会いにチェコに出向く。それで確信を得た「私」は、これが活動中か今後活動しうる貴重なイギリス人情報源を含む高度な諜報活動であり、モスクワ・センターの非合法活動の女王自らが采配を揮っていることを突き止める。その人物とイギリス人情報源と出会う日が来た。観光客や市民に扮した大勢の監視員が見守るなか、そこに現れたのは誰あろう、「私」がよく知る人物だった。

巧みに張り巡らされた伏線が一つ、二つと回収されていくと、あっと驚かされる風景がそこに現出する。本格的なスパイ小説でもあり、無類のサスペンス小説でもある。どこかで誰かに罠にはめられたのか、疑心暗鬼にとらわれながらも「私」は与えられた手がかりを丁寧に読みほどき、耳に残る微かな訛り、アクセントを頼りに、名探偵よろしく事態を正しく読み替えてゆく。そして、最後に有能な要員運用者として、かつての相棒だった妻の手を借りながら窮地に陥った者たちの救出に向かう。

窮地に追い詰められた男が「他人を魅了する」という能力だけを頼りに、国家権力を相手に戦いを挑むという痛快極まりないストーリー。銃も拷問もなし。本人の情報ファイルにある通り「重圧の中でも多弁」という持てる資質を十二分に発揮し、かつての仲間や昔の恋人相手に、彼らの握っている情報を嗅ぎ出すあたりは息を呑む。冷酷非情というのがスパイ物のステレオタイプだったが、これは妻や子を愛する、ごくごく家庭的な人物が演じる逆転劇。シリアスな話題を扱いながら、どこかユーモアさえ漂う、後味の好い快作といえよう。

『ホーム・ラン』スティーヴン・ミルハウザー

f:id:abraxasm:20200803165724j:plain

二〇一五年に刊行されたスティーヴン・ミルハウザーの短篇集<Voices in the Night>。何でも大きくて長いのが好きなアメリカでは短篇集でさえ厚い。日本でそれを訳すとなると、二分冊にするしか手はない。『ホーム・ラン』はその二冊の一冊目。残りは同じ訳者により二〇一一年『夜の声』(仮題)として刊行予定。作品の選択とその配列は訳者に課せられ、作者によって了承を得ている。

短篇小説八篇と短いエッセイが一篇収録されている。訳者は「短篇小説の野心」と題されたエッセイから読むことを強く推している。ミルハウザーの短篇についての考えを知るという意味でも、これから読むのもお勧めだ。でも、ミルハウザーならよく知っているというファンなら、冒頭の「ミラクル・ポリッシュ」から読むのもありだ。訳者には悪いが、やはりミルハウザーらしさが横溢している、この一篇から読み始めるのがいいかもしれない。

見知らぬ男から買った「ミラクル・ポリッシュ」という名の鏡の研磨剤。ふと思い出だして使ってみると、あら不思議。ふだんは人生に疲れ切った自分の顔が、顔かたちは同じなのに、どこかみずみずしく生き生きとして見えるではないか。ふだんは鏡など見ない自分が、ついつい鏡をのぞくようになる。その度に、なんだか自信に満ちた自分、いいことのありそうな自分が目に入り、元気づけられる。気をよくした「私」は部屋という部屋の鏡を研磨剤で磨き、遂にはホーム・センターに出向いて新しい姿見まで買う始末。

恋人のモニカも鏡の中では輝きを増している。いつ家を訪れても、ついつい自分ではなく鏡に映った「彼女」の方に目をやる男に、モニカは「あたしか彼女かよ」と最後通牒を突きつける。訳者のいう、この作家の短篇に多く共通するテーマ「ここではないどこかへの希求、その恍惚と挫折」がよく現れた一篇。人生を諦めかけていた男にかけられた魔法は、現実よりほんの少し見映えのする鏡の中の世界を生きることだった。しかし、彼女はそれを許さない。選択を迫られた男のとった行動は?

アルカディア」というのは、ギリシア由来の理想郷をさす言葉。ここでは森の中に建てられた「特別なニーズに応じるために作られた、のどかな森の隠遁所(リトリート)」のことだ。入居者向けに用意されたパンフレットには、お客様の声、スタッフの自己紹介、施設内の設備、湖や洞窟、沼、塔といった散策用のロケーションなどが、ランダムに配されている。いかにも高級リゾート施設への入所を誘いかける文面ながら、どこか違和感が残る。

たとえば「塔」の文章中にある「てっぺんでは展望台が塔の外側にぐるりとついており、腰の高さの手すりは著しく傷んでいます」という箇所や「沼」の「水は概して浅いのですが、水の下に隠れた、腐食した植物からなる沼地は足で踏むとその圧力で突然崩れる場合があります(略)とりわけ物騒な場所を示したパンフレットをご用意しています」という部分。わざと危険な場所に誘導しているようにも読めはしまいか。

<Et In Arcadia Ego>「われアルカディアにも在り」というラテン語の名言がある。ところで「われ」とは誰のことなのだろう? 実はこう言っているのは「死神」だ。アルカディアのような理想郷にさえ「死」は存在することを示唆している。この小説の「アルカディア」は、疲れて休息を求めている人、悲嘆に暮れて活路が見出せずにいる人、行き止まりに来てしまった人たちに、(死に至る)道を示すためによういされた施設だったのだ。

他に、久しぶりに母親の家を訪ねた息子と母の再会を描いた怪異譚「息子たちと母たち」。十三人の妻と同居する男が、それぞれの妻の特徴を淡々と語る「十三人の妻」。突然、自殺熱のようなものに襲われた町の住人が語る「私たちの町で生じた最近の混乱に関する報告」。お得意のアメリカのスモールタウンの夏の魅力を「ここではないどこかへの希求、その恍惚と挫折」というテーマで描き切る「Elsewhere」。

釈迦族の王子として、一切の危険と醜いものを遠ざけた城の中に暮らすガウタマが「生老病死」の四苦を知るに至るまでの若き日々を描いた「若きガウタマの快楽と苦悩」は、精緻な造りものを鏤めた在りし日のミルハウザーの世界を彷彿させる逸品。こういうのがもっと読みたいと思わせてくれる。しかし、誰でも年をとる。ミルハウザーとてそれは免れない。少年の日の熱に浮かされたような世界から、病や老いを扱う黄昏の世界への移行は紛れもない。

短篇小説の掉尾を飾る「ホーム・ラン」はマーク・トウェインが書きそうな途方もないほら話。これを最後に持ってきたのは訳者の自画自賛か。リズムに乗った、ハジケっぷりが半端ない。原文とはかなり変えているのだろうが、ノリノリの文章だ。古館一郎の朗読で聞いてみたいものだ。長篇小説重視のアメリカ文学の世界にあって、短編小説家の肩身の狭さを厭うかのような出だしから、一気に形勢を逆転し、短篇小説の持つ力の万能感を謳いあげるエッセイ「短篇小説の野心」は、やはり最後に読むのが相応しい。ミルハウザーの意気軒高ぶりがうかがわれ、こころ強い。