青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『言語の七番目の機能』ローラン・ビネ 高橋啓訳

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評を書くときには、読者がその本を読む気になるかどうかを決める際の利便を考慮し、どんなジャンルの本かをまず初めに伝えるようにしているのだが、本書についてはどう紹介したらいいのか正直なところ悩ましい。シャーロック・ホームズ張りの推理力を発揮する人物が、ワトソン役の警視とともに殺人事件の謎を追うのだから、謎解きミステリというのがいちばん相応しいのだろうけれど、ミステリとひとくくりにしてしまうと少々具合が悪いことになる。通常のミステリ・ファンが本書を面白がるとは思えないからだ。

黒死館殺人事件』から法水麟太郎の超絶的な博学の披露を取り去ってしまったら、並みの推理小説と大して変わらないという評を読んだことがある。まあ、それは確かにそうだろう。衒学趣味(ペダントリー)を味わうことが謎解き興味より大事にされているのが明かな作品なのだ。名探偵を主人公に据えた探偵小説には、もともとそういうきらいがある。人の窺い知れない謎を解き明かすことのできる人物には、他を圧するだけの知の持ち主であることが要求されるのだ。それを出し惜しみするのはかえって無理がある。

シモン・エルゾグは、パリ第八大学(ヴァンセンヌ)で記号学の講座を受け持つ講師。今はサン=ドニにある大学がヴァンセンヌにあることから分かるように、時代は一九八〇年から八一年にかけて。フランスの政治で言えば、大統領がジスカール・デスタンからフランソワ・ミッテランにかわる激動の時代。社会党ミッテランが大統領に選ばれた日のパリの狂騒ぶりは、よく覚えている。

シモンが捜査に加わることになったのは、ジャック・バイヤール警視が大学を訪れ、無理矢理シモンを相棒に選んだからだ。ついには、一緒に大統領の執務室に招かれ、正式に国家に雇われることになる。どうやらことは国家的な一大事らしい。イデオロギー的にはヴァンセンヌに勤めるシモンは左派で、現大統領には批判的だが、ことの経緯上やむを得ない。何しろ、交通事故で入院中のロラン・バルトが、実は事故ではなく誰かに襲われた疑惑がある、というのだ。

この小説は、フランスの政権移行を背景に、時代の寵児であったロラン・バルトの事故死を題材にした謎解きミステリの形をとりながら、記号学構造主義といった当時の知の体系を軽やかにさらってみせるとともに、フーコーデリダドゥルーズアルチュセールジュリア・クリステヴァ、フィリップ・ソレルスといった綺羅星のごとき哲学者や作家たちを巻き込んで、ロマン・ヤコブソンが残したとされる『一般言語学』の草稿をめぐる、てんやわんやを露悪的な形で嘲笑してのける、かなり厄介な小説である。

ただ、小説内に書かれているアルチュセールが妻を絞殺した事件は実際に一九八〇年に起きているし、ロラン・バルトが交通事故に遭ったのも同じ年の二月で、史実と創作を巧みにないまぜにしてみせる小説作法は、ゴンクール賞最優秀新人賞を受賞した『HHhH―プラハ、一九四二年』以来、この作家の得意とするところだ。本作の目玉は表題にある『言語の七番目の機能』である。ヤコブソンの本には言語の持つ六つの機能が紹介されているが、七番目はない。ところが、草稿にはそれが書かれていたというから穏やかでない。

バルトはどこからか草稿を入手し、ひそかに屋根裏部屋に隠し持っていた。そして、紙片の裏表にびっしり「言語の七番目の機能」について書き写したコピーを持ち歩いていた。何者かがそれを奪う目的で彼を襲ったと考えられる。アルジェリアで戦ったこともあるバイヤールは左翼とインテリには縁がない。コレージュ・ド・フランスを訪ねてフーコーにバルトの話を聞きに行ったのはいいが、話の内容がさっぱり分からない。そこで、話を翻訳してもらおうと記号学の専門家を探しに今度はヴァンセンヌを訪れ、シモンを見つけた次第。

風体が逞しく押し出しのいいバイヤールと線の細いインテリのシモンという、二人のコンビがなかなかいい。読者はバイヤール同様、記号学について何も知らなくても心配することはない。すべて、シモンが分かりやすく翻訳してくれる。そして、知的エリートの際限のない大言壮語を聞かされたり、性的に放埓の限りを尽くすさまを見せられたりするたびに、腹の中でバイヤールがつぶやく悪口雑言に共感する。この仕掛けが小説の工夫なのだ。

ビネは、フーコーソレルスの文体を模倣して、パスティーシュの技量を見せつけながら、返す刀で、口舌の裏に隠された名誉欲やライヴァルの足を引っ張ろうとする敵愾心などをここぞとばかりに暴き立てる。言葉が華麗で文体が流麗であればあるほど、その内実の醜悪さが浮かび上がる。ミステリ仕立ての本作が意識したはずの『薔薇の名前』の作者、ボローニャの賢人ウンベルト・エーコを除いて、ほとんどのフランス人の哲学者や作家はひどい書かれようだ。フーコーの性豪振りなどあからさま過ぎて、これでよく文句が出なかったなと心配になるほど。

映画『ファイト・クラブ』から着想した「ロゴス・クラブ」という秘密の会合が面白い。拳ならぬ弁論で戦う一対一の争いである。弁論術のレベルによっていくつかの位階があり、相手を倒すことで位階が上がるシステムだ。もっとも、本戦ともなれば試合に敗れると指を切り落とされるという痛い判定が待ち受けている。まだ誰も知らない「言語の七番目の機能」を手に入れることができれば、恐らく無敵の勝者になれるだろう。

大は国家権力をめぐる暗闘から、小は個人の名誉欲まで、様々な思惑がいくつも重なりもつれあって何人もの人命が奪われる。パリ、ボローニャ、イサカ(アメリカ)、ヴェネツィアナポリと、大西洋を挟んでヨーロッパとアメリカを股にかけた壮大な謎解きミステリであり、スパイ小説でもある。カー・チェイスあり、傘に毒薬を仕込んだ暗殺あり、謎の日本人の二人組まで登場する一大エンターテインメント。時移れば、あの知の巨人もこう揶揄われるのか、と構造主義ポスト構造主義華やかなりし時代を知る者には、ほろ苦い思いを抱かせる問題作ではあるが、読ませる小説であることは間違いない。

『これは小説ではない』デイヴィッド・マークソン 木原善彦訳

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シュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットの画に「これはパイプではない」というのがある。紛れもなくパイプを描いた絵の下に、「これはパイプではない」と書かれているところに面白みがあるのだが、書かれていることはまちがっていない。『ウィトゲンシュタインの愛人』の作者なら、こういうだろう。正しくは、それは「パイプを描いた絵」なのだ、と。

『これは小説ではない』は、断章形式で書かれた実験小説である。そう書くと怖気づく読者がいるやもしれないが、面白さについては保証する。よく似た形式で書かれていた『ウィトゲンシュタインの愛人』には、まだしもケイトという名の女性が登場し、地上から人間が姿を消した世界という舞台が与えられていた。これは、そこから登場人物と世界を取り去ったものといえる。作家は、次のような断章で小説を書き出す。

 〈作者〉は文章を書くのを本気でやめたがっている。

 〈作者〉は物語をでっち上げるのに死ぬほどうんざりしている。

〈作者〉の意図に関する断章はまだある。

 〈作者〉は登場人物を考え出すことにも飽き飽きしている。

 まったく物語のない小説。〈作者〉はそれを作りたい。

 登場人物もいない小説。一人も。

 物語なし。登場人物なし。

 にもかかわらず、読者にページをめくる気にさせる。

 それどころか、始まりと終りがちゃんとある小説。

 最後には悲哀の余韻さえ残るもの。

 舞台設定(傍点四字)のない小説。

 いわゆる家具もなし。

 それゆえ、結局は描写(傍点二字)もなし。

 重要な中心的動機づけ(傍点四字)のない小説。それが〈作者〉の望みだ。

 それゆえ同様に、葛藤(かっとう)や対立のないもの。

 社会的なテーマなし。つまり、社会の描写なし。

 現代の風俗や道徳の描写なし。

 断固として、政治の話はなし。

 象徴をまったく用いない小説。

これらの断章の間に、「誰それ(作家、詩人、劇作家、作曲家等々の人名)は何々(病名)で死んだ」という文が無数に並ぶ。芸術家の死因のカタログのようである。他に作家や画家、音楽家の逸話。「誰それ(前同)は何(楽器)を弾いた」という事実。名作が世に出た時に、同時代の批評家や同業者からどれだけ罵倒されたか、という話題も多い。ジョイスの『ユリシーズ』など、ひどいものだ。婚外子の話。作家の父の職業、と脈絡のない事柄が羅列される。ただ、本当に脈絡がない訳ではない。

すべては繋がっている。その証拠に、ページを跨いで、同じ話題が繰り返されている。まるで詩の「繰り返し句」(リフレイン)のように。大事なことは繰り返される、とどこかで読んだ気がする。となれば、何が繰り返し言及されているかを探れば、この小説が何について書かれているのかが分かるわけだ。いちばん多く繰り返されているのは、作家の死因。これは死にとりつかれた作家もしくは芸術家の死を描いた小説である。

しかし、あまりにも多くの作家、芸術家が果てもなく何らかの病気で死ぬので、そこに何が隠されているのか知りたくなる。「木を隠すなら森の中」というのは、チェスタトンの『ブラウン神父の童心』に出てくる科白だ。画家のアルキンボルドに野菜や花を並べて王の肖像になぞらえた絵があるのをご存知だろうか。あるいは、「みかけハコハゐがとんだいい人だ」という歌川国芳の浮世絵を。どちらも、当人と全く関係のないものを用いて、人物の肖像を描いたものだ。

『これは小説ではない』もまた同じ手法を用いている。過去の同業者の人生の一部を借りてきて、塩梅よく配置することで、そこに〈作者〉とのみ記される、ある人物の人生、並びにその死を判じ物のように浮かび上がらせようというのがこの小説の意図するものだ。しかし、突拍子もない取り合わせや、まるで、あらかじめ意図された断章の「なぞなぞ」のような配置が、詩のような、音楽のような効果を上げ、読む者をして心地よくさせる。

 これはイリス・クレールの肖像画だ。私がそう言えばそうなのだ。
 ロバート・ラウシェンバーグはパリのある画廊に送った電報にそう書いた。

 これは小説だ。〈作者〉かラウシェンバーグがそう言えばそうなのだ。

まるで赤塚不二夫の言い種だが、これがすべてを物語っている。〈作者〉が、そういえば、そうなのだ。〈作者〉によれば、これは番号さえ振れば「長詩」にもなり、新たな『フィネガンズウェイク』でもあるかもしれない。そして〈作者〉のいうように「自伝」なのかもしれない。

しかし、〈作者〉が自分でいていることを鵜呑みにはできない。原爆に関する記述が、何か所かある。これは「社会的なテーマ」だろう。よく読めば、他にもいろいろあるにちがいない。「葛藤や対立」もある。実験小説に対する批評家の無理解にはかなり頭に来ていたのか、批評家と作者の対立を描いたエピソードの数は片手では足りない。ジョイスの『ユリシーズ』や、ホメロスの『イリアス』に寄せる関心の高さは、小説の向こう側にいる〈作者〉の顔をおぼろげに映し出してもいる。

まちがいなくページを繰るのが楽しい書物である。二度読み、三度読み、読めば読むほど仕掛けが見えてくる。「なぞなぞ」が解け、隠された絵柄が見え始めると、もう止まらない。〈作者〉の術中にはまっているのだ。そして、最後まで読めば、上出来のミステリのように「悲哀の余韻が残る」謎解きが待っている。それまでが、読む愉しさに満ちていただけに、いっそう悲哀を感じるのだ。〈作者〉のいう「重要な中心的動機づけ」がそこに透けて見える。文学や絵画、音楽が好きな読者には、芸術家に関するトリヴィア(詳細な註付き)のあまりな椀飯振舞に歓喜のめまいすら覚えるにちがいない。そして、その華やぎとうらはらにひそかに滲み出す悲哀も感じることだろう。

 明らかに〈作者〉は存在している。

 登場人物としてではなく、作者として、ここに。

 

『アウグストゥス』ジョン・ウィリアムズ 布施由紀子訳

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ジョン・ウィリアムズは長篇小説を四冊書いているが、一作目は自己の設けた基準に達しておらず、自作にカウントしていない。二作目が『ブッチャーズ・クロッシング』。三作目が第一回翻訳小説大賞読者賞を受賞した『ストーナー』。『アウグストゥス』は、その四作目で、完成されたものとしては最後の小説である。『ストーナー』は、しみじみと心に沁みる小説で、高い完成度を持つ作品だった。これで、ジョン・ウィリアムズの小説はすべて読んだことになる。どれも素晴らしい出来映えである。

アウグストゥス』は、書簡や回顧録といった媒体を用い、多様な視点を通じて初代ローマ皇帝アウグストゥスの人となりを描いてみせる書簡体小説ユリウス・カエサルの死に始まり、アウグストゥスの死をもって幕を閉じる歴史小説でもある。陰謀と策謀、盟約と裏切り、敵と通じて互いの敵を撃つという信義無用のローマの政治と軍事をその場にいて目撃した当事者、傍観者の口を借りて多彩に描き出している。

もちろん、その中心にいるのはガイウス・オクタウィウス、後の初代ローマ皇帝カエサル・オクタウィウス・アウグストゥスである。しかし、当のオクタウィウスの心の裡は小説も終わりに近づく第三部に至るまで、はっきりと分かることがない。ことが起きた時にオクタウィウスがどういう思いで、その行動をとるに至ったか、そして後でどう思ったかは、常に傍にいて彼を助ける、友人のアグリッパやマエケナスが書き残した文書の中で、間接的に触れている箇所を頼りに読者は推測するよりほかはない。

作品は三部に分かれている。第一部は、カエサルの暗殺からオクタウィウスが数多の戦いを制し、ローマ帝国の礎を築くまでの十三年間を、若い頃からの親友、軍人アグリッパの回顧録、同じく友人で外交・内政を担当した詩人のマエケナスの書簡を中心に描いていく。虚弱体質であったオクタウィウスに代わり、戦闘は常にアグリッパが指揮を執った。フィリッピの戦いやマルクス・アントニウスクレオパトラとの戦いであるアクティウムの海戦などの様子は戦記物を読むようでもある。

第二部は打って変わってオクタウィウスの家族に目が向けられる。自分の家系を残すことにこだわるオクタウィウスと妻リウィアの間には子がなかった。そこで先妻の生んだ一人娘のユリアを何度も再婚させ、男子の跡継ぎを得ようとする。知力に長け、美貌の持ち主でもあったユリアは、父の威光の下、平和が到来したローマにいて、若い富裕層の享楽的な催しに耽る。政略結婚の道具であったユリアが自己に目覚め、ティベリウスという夫のある身で姦通の罪を犯し、流刑にされた島でしたためた回顧録が中心となる。この皇帝の娘のスキャンダルを描いてみたいと思ったのが本作の構想の基となった。

第三部は、七十六歳になり、死期を悟ったオクタウィウスが、ダマスクスに暮らす友人の歴史家、ニクラウスに宛てて船中で書く長い手紙が中心だ。アグリッパをはじめ、心の許せる数少ない友人を次々と逝かせ、孤独な余生を送るオクタウィウスに残されたのはヘロデ王との連絡役として長らく自分の傍に仕えたニクラウスよりほかにいなかった。ここに至って初めて、オクタウィウスは、カエサル暗殺の報を受け取ったときの心境に始まり、娘ユリアに寄せる父としての愛情や、野心家の妻リウィア、その子ティベリウスに対するわだかまりを自分の声で語り出す。

それまで、隔靴搔痒の感があったオクタウィウス像が、霧が晴れたように明らかにされる訳だが、自分の姿を容易に見せようとしなかったオクタウィウスのことだ。この手紙もまた一つの韜晦であると言えなくもない。それかあらぬか、オクタウィウス死去の後、この手紙が届けられたとき、ニクラウスもまた亡くなっていたというから、皮肉極まりない。皇帝の親書である。おいそれと他人が開けるはずもない。ということは、ここに綴られているオクタウィウスの切々たる心情はいったい誰の手になるものか。いうまでもなく作者による。それをいうなら、いくつかの資料は別として、この小説の中に書かれた大半の書館、回顧録はすべて作家の手になるものである。

これまで、大叔父のカエサルや、マルクス・アントニウスクレオパトラに比べ、オクタウィウスは映画や演劇で採り上げられることがあまりなかった。しかし、その実態はパクス・ロマーナの創出者であり、ローマ帝国の版図を広げた最大の功労者でもある。どうしてそんなことになったのか。この小説の中のオクタウィウスは、先の三人に比べ、派手な演出を嫌い、自分が前に出ることなく、出自に関わらず有能な人材を登用し、戦いより婚姻関係で平和を維持しようと励む。もし、カエサルの跡を継がなかったら、一介の文人となっていただろう。そんな、思いがけなくローマを統べることになった人物の、稀有な半生とそれ故に引きうけざるを得なくなった孤独が読者の胸に迫る、壮大な叙事詩にも似た小説である。

『狼の領域』C・J・ボックス 野口百合子訳

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やはり、ジョー・ピケットは容易に人の入り込めない深い山中にいるのが何よりも似つかわしい。普通の場所では、この男の魅力は引き立たない。今回はワイオミング州南部のシエラマドレ山脈が舞台。その頃、ボウ・ハンターが射止めた獲物のところに駆けつけると、エルクは既に解体され、誰かが肉を持ち去った後だったという奇妙な事件が起きていた。他にも、キャビンが荒らされたり、車の窓ガラスが割られたり、立て続けに変事が起きていた。

ワイオミング州猟区管理官のジョーは、かつてブッチ・キャシディも姿を見せた山間の僻地バッグズに単身赴任中だったが、トゥエルブスリープ郡に空きができ、やっとのことで家族のもとに帰れることになった。人間のことは保安官に任せてもいいが、エルクのことは自分の仕事だ。ことの起きた現場を確認し、何があったのかを探ろうと、五日間のトレッキングを思い立ち、馬に乗って単身山に分け入った。なに、ひとりで山にいることが好きなのだ。

二年ほど前、オリンピックに備えて高地トレーニングに励んでいた女性長距離ランナーが行方不明になり、捜索隊の一員としてシエラマドレ山脈に入ったことがある。結局ランナーを見つけることはできなかったが、着衣の一部なりとも見つからないかと目を凝らしていたジョーの目にとまったのは男だった。圏谷(カール)にできた湖で不審な男が魚を釣っていた。決められた数以上釣っていて、許可証も携帯していなかった。

ジョーは杓子定規な男だ。相手は大男でこの山にも詳しそうだった。相手の言う通り見逃せばよかったのだが、それができない性分だ。男の名はグリム。キャンプには双子の兄がいて、つまりはグリム兄弟。違反切符を切るジョーに、兄の方は議論を吹っ掛け、一歩も退かなかった。まるでジョーの方が不法侵入者だとでも言いたげだった。そして、兄弟はジョーの後を追い、矢を放つ。矢はジョーの太腿を貫通し鞍を突き抜け馬体に刺さった。

二頭の馬が殺され、ショットガン、カービン銃も相手の手に渡ったとなっては多勢に無勢、逃げるしかない。山の中に灯りを見つけ、キャビンの戸を叩いたところで気を失った。助けてくれたのはテリという女性で兄弟とは旧知の仲。結局、兄弟にキャビンを襲われ、ジョーは窓を突き破って危ういところで難を逃れたが、傷ついた足を引きずりながら山を下り、麓の牧場で助けられ、病院に運ばれるという体たらくだ。

いつも間の悪い所に立ち会ってしまうのがジョーという男だが、今度ばかりは最悪だった。おまけに悪いことに、ジョーの供述を聞いて山に出動した保安官の一隊は、馬やエルクの死骸も、焼け落ちたキャビンの跡も何一つ発見できなかった。ジョーは大嘘つきだと皆に思われたのだ。州知事はジョーを休職させ自宅待機を命じた。一番まずいのは、兄弟に一矢報いることもできず、逃げ帰ったことで、ジョーは山の中に自分の大切なものをおいてきてしまった。勇気と自信である。

そんな夫に異変を感じた妻は、山に戻り、やるべきことをするよう夫を励ます。もちろん、頼りになる元特殊部隊員のネイトを連れて。つまり、これは徹底的に打ちのめされ、自信喪失した男がもう一度チャンスを与えられ、リヴェンジを果たせるかどうか、という物語である。もっとも、そこには例によって、政治家と実業家の仕組んだ陰謀が隠されていて、グリム兄弟と女性ランナーはそれと深いかかわりを持っていた。

本編が他のシリーズ作品と異なるのは、ジョーが対決するのが巨悪ではないということだ。事件の経緯を知るにつけ、兄弟の境遇には多分に同情の余地がある。自然の中で誰ともかかわらずに生きているという点で、兄弟はむしろジョーやネイトと共通する志向を持っている。一つ違うのは、ジョーは州政府によって雇われた、彼等のいう「政府側の人間」であることだ。やむなく連邦政府との関係を断ち、人目を忍ぶ生活を選んだネイトや、やむを得ず山に籠った兄弟は、ジョーが属する政府側にとって目障りな存在だった。

このねじれた関係がことをややこしくする。これまでネイトはいつ如何なる時でもジョーの側に立っていたが、ここで初めて、無条件でジョーの側に立つのをやめ、第三者的な立場をとる。これは今までにない展開である。長谷川伸の股旅物はウェスタン小説の翻案だという説を読んだことがある。敵対する相手に親近感を抱きながら、一宿一飯の恩義のために戦わざるを得なくなる、という話は『沓掛時次郎』をはじめ、他にいくらでもある。

これまで、このシリーズは、悪漢と善玉ははっきりしており、ジョーはゆるぎのない正義の執行者という立場に立っていた。ところが、この巻においては、あのネイトでさえ、ジョーを支持しない。無論ネイトはアウトローだ。初めから猟区管理官と行動を共にするのがおかしいのだが、今までは恩義のためにジョーに従ってきた。しかし、今回を境に二人は別の道を歩くことになるのだろうか。新機軸を開いたことで、今までにない憂愁を漂わせることになった『狼の領域』は、シリーズ中特別な意味を持つ一篇になったと言えよう。

『沈黙の森』C・J・ボックス 野口百合子訳

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ジョー・ピケットは最近、このワイオミング州トゥエルブ・スリープ郡の猟区管理官になったばかりだ。かつて許可なく釣りをしたということで、州知事に違反切符を切ったことで有名な男だ。ライフルの命中率は高いが、拳銃はからっきしダメで、おまけに常時携帯が義務付けられているというのに、よく車に置き忘れる。運転に邪魔なので外しているからだ。もっとも、携帯していても隙をつかれて抜き取られたこともある。

のっけからその失敗談が語られるので、読者は呆気にとられる。ワイオミングといえば映画『シェーン』の舞台となったところじゃないか。それが油断していて拳銃をとられるとは、とんでもない間抜けだ。そんな男が主人公で大丈夫なのか。誰でもそう思う。そこがつけ目だ。こう見えて、ジョーは目端が利く。馬鹿ではないのだ。頑固で愚直なところがあり、少々恐妻家でもあるが、猟区管理官としての能力は高い。ただ猟季ともなれば、なかなか家に帰れないので、家族には負い目がある。

『沈黙の森』は猟区管理官ジョー・ポケットを主人公とする人気シリーズの第一作。最新作『発火点』では大学生になっている長女のシェリダンも、ここではまだ七歳だ。夢見がちで動物好きのシェリダンは、本作で重要な働きをしている。夢で怪物を見たというシェリダンの話が気になったジョーは、家の外でたきぎの山に凭れて死んでいる大男を発見する。以前、禁猟期に鹿を撃って違反切符を切ったことがある男で、銃を奪われた相手でもあった。

男の手には取っ手が握られ、開いたクーラーボックスの中には小動物のものらしい糞が残っていた。なぜ死にかけの男がわざわざジョーの家までやってきたのか、中に入っていたのは何なのか? ジョーはその謎を解くために容疑者と思われるアウト・フィッター(アウトドア・レジャーのサポートをするガイド)仲間二人の捜索隊に志願する。ところが、同行者の二人、猟区管理官のウェイシーと保安官助手のマクラナハンが血気にはやって発砲し、大事な証人は重体、被疑者の二人は死体で発見され、謎は解けるどころか深まるばかり。

そんなとき、シェリダンはたきぎの山の中に何かが動くのを見つけ、親には内証で餌をやり、ペットにして可愛がる。ジョーは糞を調べてもらおうと、シャイアンにある狩猟漁業局に送るが、どうしたことかなしのつぶて。それどころか、銃を奪われた一件が狩猟漁業局の知るところとなり、副局長に呼び出され、違法な捜査に加わった件まで問題にされ、停職処分にすると脅される。しかし、ジョーに好意を持つ者もいて、あの糞が何のものかを知ることができた。

基本的に、ジョーの視点で描かれているため、ジョーの視界に入らないところは語られない。ところどころ、シェリダンの視点がまじるのだが、まだ七歳のシェリダンには、ペットのことで自分を脅す人物が、父の知り合いであるということは知っていても、名前は知らない。父に話せば母や妹に危害を加えると言われては口を噤むしかない。読者は、何者かの悪だくみがあり、ジョーの知らないところで、それが進められていることだけが分かる仕組みだ。

猟区管理官であるジョーにそれを知らせようとあの大男は死を賭してやってきたが、その前にこと切れた。誰かがその秘密を葬り去ろうとして必死になっている。三人の殺しは怨恨によるものではない。誰かが何かを隠蔽しようとしてしたことだ。シャイアンで、それが何なのかを知ったジョーは確かな証拠を得るためにアウトフィッターが殺された現場に向かう。

ジョーが証拠を求めて分け入る渓谷の窪地の描写が美しい。そこでエルクのような大物を狩りをしても、運び出す手筈がないために、そこは誰も入り込まない土地となっている。いわば人が初めて目にする景色なのだ。ところが、そこにいる筈の動物がいない。よく見ると塚状のものがいくつもある。そこは大量殺戮の跡地だった。人跡未踏の動物たちの天国が毒で汚染されていたのだ。

ジョーが愛するワイオミングの大自然は、アウトドア・レジャーやハンティングを目的とする者にとっては天国だが、たいして金にはならない。野生動物の保護は大事なことだが、規制は多く、ある者にとってはそれが金儲けの邪魔になる。たとえば、そこに絶滅したはずの動物が生き残っていたことが知れれば、マスコミは大騒ぎし、議会は法律を作り、規制ははるかに厳しくなり、その一帯の立ち入りは禁止され、そこで働く多くの者は仕事を奪われてしまう。

権力を握る者は、その力で人を操り、臭いものに蓋をする。ジョーのような頑固者は丸め込むには難しいので、手を出せないようにするしかない。あらゆる手段を尽くして隠蔽が図られた。しかし、ジョーは裏切りの証拠を手にした。最後はウェスタン流の決着をつけるだけだ。圧倒的に無力なものが、真実のために立ち上がり、一人で悪を暴こうとする。相手は町の実力者であり、保安官、政府の官僚といった権力者だ。ジョーの味方は家族しかいない。まるで一昔前の西部劇の世界である。

それまで見えていなかったものが、一つの謎を解くことで一気に明らかになる。なぜ、ジョーなのか、といえばジョーこそが信じるに足る猟区管理官だからだ。他の者の手に渡れば、握りつぶされてしまう。だからこそジョーでなければならなかった。裏から手を回して仕事の邪魔をされ、自信を無くしかけ、会社勤めも考えていたジョーが、動物の大量虐殺の現場を抑えたことで、自身を取り戻し、遂には苦手だった拳銃でかたをつける。溜飲が下がる、とはまさにこのことだ。第一作ながら、後のシリーズに至るキャラクターの性格づけがしっかりなされていることに驚いた。次作が読みたくなるのもよく分かる。

 

『鷹の王』C・J・ボックス 野口百合子訳

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ワイオミング州の猟区管理官ジョー・ピケットを主人公とするシリーズのいわばスピン・オフ。もちろんジョーも活躍するが、この作品の主人公はジョーではない。シリーズの多くの作品で主人公を助ける強力な相棒、ネイト・ロマノウスキが真の主人公だ。元特殊工作隊員のネイトは、二〇〇一年に突然、誰にも何も言わず、勝手に軍を去る。そこにどんな理由があったのか、これまでは読者に知るすべがなかった。その秘密のベールを剥がしたのがこの一篇である。

フライフィッシングをしていた男が、川を流れてくるドリフト・ボートを発見するところから話ははじまる。中には大量の血と三人の男の死体が乗っていた。頭が半分吹っ飛び、銃弾が体を突き抜けていることから、火器の強力さが分かる。このあたりで、そんなでっかい銃を持ち歩く男は、ネイト・ロマノウスキしかいない。保安官のマクラナハンはジョーに、保安官事務所に来いと電話する。二人には過去に様々な因縁があり、互いに反目しあう仲だ。

ネイトには過去があり、連邦から追われている身だ。しかし、地元のハンターに突然襲われるような恨みを買った覚えはない。これが「地元の部族のリクルート」なら以前所属していた特殊部隊<ザ・ファイブ>が本気で動き始めたということだ。ネイトは左肩に刺さった矢を抜き、血止めをすると自分の家に火を放ち、すべての証拠を消し、ジープを駆って次の目的地に向かう。仲間の安否を確かめ、無事に逃がすためである。

ネイトは大学在学中に鷹匠としての腕を見込まれ、後に彼の師匠となる鷹匠で、特殊部隊のボス、ジョン・ネマチェクにスカウトされ、特殊部隊の訓練を受ける。厳しい訓練に耐え、<ザ・ファイブ>入りを果たすと、アフガンや中東で、人には言えない仕事をしてきた。しかし、あることを契機に、自分の仕事がほんとうに国のためになっているのか疑問を感じるようになっていた。そこに国を揺るがすような事件が起き、自分が騙されていたことを知り、行方をくらませた。

直属上司のやっていたことが許せなかったし、行動を共にしていた自分も許せなかった。それ以降、彼はワイオミングの自然の奥懐に隠れ住み、鷹匠として生きることにした。ある殺人事件の容疑者として保安官に捕らえられたときにジョーと出会い、その人間性に触れ、この世にまだ信じることのできる人間がいることを知った。ジョーが真犯人をつかまえることで、ネイトは命拾いした。それ以降、彼はジョーに危機が迫ったとき、手段を択ばず助けるようになり、二人の友情は強いものになった。

しかし、今度の相手は自分の師匠であり、その強さも知力も、非情さも知りぬいている。ジョーには関わらせたくなかった。なぜなら、それはジョーだけでなく、彼の家族をも危険に巻き込むことになるからだ。ネイトは、ジョーに別れを告げ、単独で動き始める。しかし、頼りにしていた隠れ家はすでに敵の急襲を受け、ヘイリーという女性と二人だけ辛くも脱出し、二人はネマチェクを追うことになる。自分を殺そうとしている相手から自由になるには相手を仕留める以外にないからだ。

次々と襲いかかる殺し屋を逆に追い詰めては殺し、生き残った相手を拷問にかけて、ボスの居所を聞き出し、ネマチェクに迫るネイトの特殊部隊仕込みの能力がフルに発揮される。ジョーが主人公のシリーズ諸篇では、どちらかというと人を信じすぎるジョーのお間抜けなところが売りで、最後の最後にジョー言うところの本物のウェスタン、アドレナリン出まくりの大暴れまで、さほどのアクションは見られない。ところが、ネイトに光をあてた今回は胸のすくようなカー・アクションやガン・プレイが連続する。

ネマチェクは、自分の悪事の秘密を知る者を片づけるため、組織の人間や金に目がくらんで動く輩に嘘を吹き込んで、ネイトこそが悪の張本人だと思い込ませた。それだけではない。ネイトは今まで誰にも話はしなかったが、秘密を知っていそうなネイトの周囲の人物まで片っ端から殺しまくっていた。いったいその秘密とは? かつて、アフガニスタンの砂漠のど真ん中で、アラブの王族たちによる鷹狩りの集会があった。ネイトはネマチェクの命を受け、その集会に鷹を連れて参加していた。そこで出会ったウェスタン好きの背の高い男、その男がすべての秘密を解くカギだったのだ。

ジョーの出番はいつもよりは少ないが、ストーリーを動かす働きは彼が負う。ネイトはネマチェクを追うことに集中しているので、勢いストーリー展開はシンプルになる。敵を追い詰めるドライブの途中、ヘイリーに自分の過去を物語る。そこが、いいサイド・ストーリーになっている。一方、他人を簡単に信じる癖のあるジョーは今回もやらかしてくれる。そして、ひっかかっていたあること、つまりは伏線だが、それが最後にはっきりと焦点を結ぶ。

サスペンス満点の冒険小説である。シリーズ物ならではの安心感に支えられながら、ダーク・ヒーロー、ネイトの秘密を窺うという、なんとも贅沢な一篇。しかも、アメリカを揺るがす大事件がその背景にある、というのだから読み逃す手はない。シリーズ第十一作ということもあり、義母のミッシーの夫殺し疑惑などという、まだ読んでいないエピソードが小出しにされていたり、死んだはずのエイプリルがぴんぴんしていたりする謎も含めて、未読の巻を探し出して読みたくなるシリーズである。

『ラスト・ストーリーズ』ウィリアム・トレヴァー 栩木伸明訳

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ウィリアム・トレヴァーの絶筆「ミセス・クラスソープ」を含む、文字通り最後の短篇集。トレヴァーのファンなら誰でもすぐに手に取って読もうとするはずだから、こんな駄文を弄する必要もない。だからといって、初めての読者にぜひ読んでほしいと勧めようとも思わない。多分、とっつきにくいと思うから。はじめてトレヴァーの短篇集を読んだときは、首をひねった覚えがある。それまで読んでいた外国文学と少々趣きがちがったからだ。

派手なところはないが、落ち着いているとも言い難い。ひねった言い回しではないのに、妙にとらえどころがない。一読したところ、書いてあることは理解できるのに、全部わかったとは思えない。つまるところ、自分には合わないのだと思った覚えがある。ところが、それからしばらくして、トレヴァーの別の短篇集を読んでみたところ、これには興趣を覚えた。いったいどういう訳なのか。何冊か読んでから、最初の本を再読したら、初読時とは印象が全然違った。どういうことだろう。

短篇小説の定義を問われ、トレヴァーはこう答えている。

それは一瞥の芸術だと思います。長篇小説が複雑なルネサンス絵画だとしたら、短篇小説は印象派の絵画です。それは真実の爆発でなければならない。その強さは、絵に盛り込まれたものと同じくらい――それ以上ではないにせよ――そこから削られたものに負っています。短篇小説においては無意味なものを排除することが重要です。ただその一方で、人生はほとんどの部分が無意味なのですけど

小説の中で、人物の抱える「真実」の爆発する強さが、そこに盛り込まれたものより、そこから削られたものに負う、というのがまさにそれだと思う。ふつうの作家の小説は過不足なく書かれていればいい方で、強さを求めてあれこれと盛り込みすぎるきらいがある。そうする方がいいと思うからだろう。違うのだ。トレヴァーの言う通り「人生はほとんどの部分が無意味」なのだ。でも、人生のほとんどが無意味だなんて誰に分かるだろう。

トレヴァーの作品で主人公をつとめるのは、ほとんどが無名の市井の人々である。そういう人々にとって、ほんとうに意味のある人生の瞬間とは、そう度々あるとも思えない。自分の人生を振り返ってみても、日々はほぼルーティンの繰り返しだ。わざわざ取り出して見せるワンカットなど見つかりそうもない。しかし、誰にだって人生の中で一度くらいは「真実」が爆発する時があるにちがいない。それをどう切り取ってみせるかが短篇小説作家の力量なのだろう。

しかも、盛り込むことにではなく、無意味なものを削ることなくして、トレヴァーの短篇は生まれない。はじめて読んだときに感じた分かり難さは、そこにあった。ここぞという場面に強度を与えるため、トレヴァーはあえて省略する。トレヴァーを読むとは、与えられたものを手がかりに、省略された部分も読むということだ。気楽に構えて読んでなどいられない。うかうかしていると大事な一文を読み落とす危険がある。

ミステリを読んでいて、ちらっと書かれていたことが大事な謎を解くカギになっていた、と気づかされることがある。再読すると、ちゃんと触れられていて、よく読めば自分にだってわかったはずじゃないか、と思ってしまうが、そうではない。よく読めば分かるが、普通に読んだだけでは分からないように作者は気を配って書いているのだ。トレヴァーの短篇はミステリではないが、書かれていないものが謎のように働くことがあり、最後になってはじめて分かることもある。

「ピアノ教師の生徒」は、素晴らしい芸術家とその人間性の関係を主題に、人は誰しも自分を基準にしてものを見ることから逃れられないという真実を見つめた一篇。足の不自由な男」は、賃仕事を求めて人の寄りつかない一軒家にやってきた二人が豹変した夫人の態度をいぶかしむという「ミステリの味わいがある。「カフェ・ダライアで」は、一人の男をめぐって仲たがいした旧友の女二人。一度ひびの入った関係を修復することの難しさをじっくり見つめている。

「ミスター・レーヴンズウッドを丸め込もうとする話」は、若い女を食事に誘い、自宅に連れ込んだ裕福な銀行の顧客から金をせびろうとする話。高級住宅地まで来てはみたものの女の心は揺れるばかり。「ミセス・クラスソープ」は、妻に先立たれた男と年上の夫を亡くしたばかりの女との出会いとすれちがいを異なる視点で描いてみせる。人生の哀感を抑制の効いた筆致で描き出す。「身元不明の娘」は、不自然な死を遂げた孤独な娘の生活背景が最後の最後まで明かされない、という焦らしの効果を狙った作品。

「世間話」は妻子ある男性に勝手に思いを寄せられて、夫を返せと妻に非難され、困惑する女だが、実は女にも秘められた悲話があった。記憶障害を持つ絵画修復士と娼婦の一夜の出会いの奇跡を描く「ジョットの天使たち」。荒野(ムーア)を舞台に男と女の運命的な出会いと別れを描いた「冬の牧歌(イデイル)」。寄宿学校に入った娘とその父親の物語と役所を早期退職した二人の女の物語が交互に語られ、それが最後に交わることで、娘の出生の謎が明かされるミステリ仕立ての「女たち」、と最後まで、衰えをみせなかったトレヴァーの筆力が窺える、どれも読みごたえのある全十篇。