青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ネヴァー・ゲーム』ジェフリー・ディーヴァー 池田真紀子・訳

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ミステリの世界には、いろんな刑事や探偵がごろごろしている。新しい主人公を考える作家も大変だ。四肢麻痺で首から下が動かせない、リンカーン・ライムは画期的だったが、さすがに、行動に制約が多すぎて作家の方にもストレスがかかったのか、今度の主人公は、サバイバル術に長けた行動派だ。おまけに、職業は刑事でも探偵でもない。なんと「懸賞金ハンター」だというから、いつの時代になってもアメリカは西部劇から抜けきれないらしい。

とはいえ、凶悪犯を狙う「賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)」ではない。行方不明者を見つけるため、個人や警察が懸賞金を設けることがアメリカにはあるようだ。というのも、もしそれが誘拐事件なら早期解決が大事だが、警察は実際に何かが起こるまでは動き出さない。そこで、こういう仕事が成り立つわけだ。仕事は失踪人の居場所を見つけるところまでで、救出はしない。後は警察の出番というのが建前だが、警察の動きは遅い。そこで、自ら事件の渦中に飛び込むことになる。

名前はコルター・ショウ。シェラネバダにある「コンパウンド(地所)」という広大な土地で父のアシュトンからサバイバル術を訓練されて育つ。兄妹の中でもコルターは追跡がいちばん得意だった。大学を優等で卒業し、一時は弁護士になることも考えたが、しばらく事務所勤めをしてみて、自分には向いていないことが分かった。一つところにとどまるのが苦手だったのだ。今ではウィネベーゴのキャンピング・カーを駆ってどこへでも出かけて行く。

ヤマハのオフロードバイクも積んでいるが、仕事中はウィネベーゴを近くのRVパークに停め、黒か紺のレンタカーを借りて行動する。なかなかの美食家で行く先々の地ビールを楽しみ、コーヒーはエルサルバドルの豆に決めている。今回はメキシコの朝食向け卵料理、ウェボス・ランチェロスのトルティーヤをコーン・ブレッドに変えて食べるという試みをしている。多分行き先が変わるたびにそこの地ビールと名物料理が紹介されるのだろう。こういう設定が心憎い。

第一話の舞台は、シリコンヴァレー。十九歳の女性が失踪し、父親が懸賞金を設けた。額は一万ドル。高額ではないが、父親の切羽詰まった様子を聞いて引き受けた。まだ明らかにはされていないが、ショウには別の稼ぎがあるらしく、懸賞金で食べているのではないようだ。ショウの捜査方法は特に目新しいものではない。聞き込みをして、目撃情報を集め、立ち回り先を突き止める。何しろ、まだその時点では事件かどうかも明らかではないのだ。それに警察ではないショウにできることは限りがある。

ただ、追跡者としての能力には秀でている。今回はカフェの監視カメラに残っていた映像から、行き先を予測し、事件現場で格闘跡を発見し、被害者の携帯電話を発見する。それで一件楽着のはずだった。だが、いくら待っても警察は来なかった。仕方なく、周囲を探るうちに死体を隠すにはうってつけの廃工場を見つける。そこで事件に巻き込まれることになる。犯人は現場に隠れていて、ショウを襲ったのだ。

誘拐事件が起きても身代金について犯人からの要求はない。しかも、一件だけでなく同一犯と思われる誘拐監禁事件が連続して起こる。カフェのコルクボードに残されていたステンシル風の男のイラストから、ショウはそれが「ウィスパリング・マン」というゲームの登場人物であることを知る。当時サンノゼで大規模なゲーム・ショーが開催中で、大勢のゲーマーでシリコンヴァレーは賑わっていた。犯人の狙いはゲームに関わりがあるらしい。

三件の誘拐監禁事件は「ウィスパリング・マン」というゲームを模したものだった。ホーム・スクーリングで育ったショウはゲームに疎かった。そこで、業界人がショウにレクチャーするという形式でゲームに関する蘊蓄が語られる。しかし、ゲームに詳しい読者には不要だろうし、ゲームをしない者には退屈な蘊蓄だ。謎解きミステリにはよくこうした解説が登場するが、ミスディレクションに必要なのだろうか。

同業者によるゲーム開発企業に対する妨害か、ソシオパスによる犯罪なのか、犯行動機ははっきりしないが、ゲーム中毒者の犯行なら、犯行の起きていた時間はディスプレイから離れていたことだけははっきりしている。「ウィスパリング・マン」を配信している会社社長の協力を得て、これだろうと思われる人物を特定するが、果たして最後の被害者を生きているうちに救出することができるのだろうか。

捜査権のないショウには警察関係者の協力が必要だ。今回は対称的な二人が登場する。いかにも刑事という見かけの白人刑事ライリーとアフリカ系アメリカ人の女性刑事スタンディッシュがそれだ。ライリーは女性の巡査にセクハラまがいの発言を繰り返す嫌な刑事役を演じ、スタンディッシュは逆に有能で感じのいい刑事役だ。この二人の役割設定がうまく生きていて、シリーズ物ながら、主人公がキャンピング・カー暮らしという設定では、おそらく、二度と登場しないのが惜しいくらい。

ジェフリー・ディーヴァーといえばどんでん返し。今回もきっちり用意されている。しかも、そのうちの一つは、ショウの抱えている難問についての謎解きの一つに関わるものだ。ショウは死んだ父が何か秘密を抱えていたことを知っており、シリーズを通してその解決を図ってゆくことになる。広大な土地でのホーム・スクーリングやサバイバル術の訓練といった、ショウの生い立ちが普通でないのには何か理由があるのだろう。次回作が楽しみな新シリーズの幕開けである。

 

『私はゼブラ』アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ 木原義彦訳

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ゼブラ(シマウマ)というのは本名ではない。父が死んだ時、木立ちを透いて棺の上に光が指して縞を作った。それを見て強烈なメッセージを受けた主人公が咄嗟に発したのが「私の名はゼブラ」という言葉だった。それ以来、彼女はゼブラを自称することになる。持って生まれた人格と異なる、新たなアイデンティティの獲得であり、宣言である。本名はビビ・アッバスアッバス・ホッセイニという二十代の亡命イラン人である。

 ホッセイニ一族はイランの知識人階級に属し、代々文学を能くしてきたが、独学者、反権力主義者、無神論者をもって任じていたため、時の権力者が王であれ、宗教者であれ、決して認められることなく、中には処刑された者すらいる。父の代にイラン・イラク戦争が勃発し、テヘランの家を捨て、カスピ海に近いノーシャーにある一族の隠れ家「本のオアシス」に逃げ込んだ。ゼブラはそこで生まれ、本に囲まれて育つ。以下に目次を示す。 

  1. 「プロローグ・私の不運な起源の巻」
  2. 「ニューヨークシティ・父の死とその埋葬、その結果、私の魂が不規則にいくつにも分裂するの巻」
  3. バルセロナ・亡命の虚空に飛び込み、言葉の防腐処理人ルード・ベンボと関わり合いになる巻」
  4. 「ジローナ・ミニ博物館の創設とルード・ベンボとの共同生活の巻」
  5. 「アルバニャ・ピレネー山脈の緑の谷で複数の魂に酸素を供給し、自然とのソクラテス的対話に従事するの巻」
  6. 「ジローナ・虚無の巡礼の仲間とともに亡命の歩廊を旅するの巻」
  7. 「水の大陸・沈んだ希望の海を渡るの巻」

 古い物語の形を借りていることからも分かるように、この小説は騎士道物語の形式を借りることで、その陳腐さを逆接的に批判したセルバンテスの『ドン・キホーテ』に倣っている。アロンソ・キハーナが騎士道物語を読みすぎたように、ゼブラは、父から午前中はニーチェを、午後はゲーテ、オマール・ハイヤム、ダンテ、スタンダールリルケカフカ、ペトラルカ、セルバンテスベンヤミン、そして清少納言芭蕉まで、ありとあらゆる文学を教えられて育った。 

郷士に過ぎないアロンソ・キハーナが「遍歴の騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」を自称して遍歴の旅に出るのは、物語の読み過ぎで正気をなくしたからだ。ゼブラもよく似たもので、本人はいたって意気軒昂だが、その振る舞いは常軌を逸している。寝食を忘れ、文学に没頭しているので、何日も部屋から出てこなかったり、ぷいとどこかへ行ってしまって帰ってこなかったり、一緒に暮らす者にとっては迷惑千万な相手なのだ。しかし、ゼブラはそんなことに無頓着で、ただ只管、亡命の虚空の中を虚無の巡礼者として遍歴するばかり。 

戦禍を逃れて国境地帯を彷徨う中で母を亡くし、父と二人食うや食わずで諸国を遍歴し、新大陸に渡ったものの父は病みついた挙句に死ぬ。父の死を契機に自分の考える文学理論を実践に移そうと、父と遍歴したルートを逆にたどる「大旅行」(グランド・ツァー)を計画する。「文学するテロリスト」、「虚無の女騎士」を自称して。「プロローグ」に特に濃厚な厭世的で虚無的な語り口は、ニーチェの文体のパスティーシュだろうか。他にも多くの文体模倣が駆使されているに違いない。 

ゼブラは。父に言い聞かされたホッセイニ一族第一の戒め「おまえは文学以外の何ものをも愛してはならない」に固く縛られている。また厳しい文学修行を通じて、その場しのぎの無内容な会話というものができない。バルセロナの空港へ迎えに来てくれたルード・ベンボを一目見るなり強く惹かれるのだが、気持ちを素直に表せない。相手の言葉の誤用を質したり、シェイクスピアやダンテを引用してみたり。このちぐはぐな会話が滑稽で、つい笑ってしまうのだが、笑われているのは果たしてどちらだろう。 

「でも、セックスのためのセックスはありだし、それはすべきだと思う。形而上学的な意味では、私は既にあなたという重荷を肩の上に担いでいるのだから、セックスのときは私が上にならせてもらう」。道端で初対面の相手にこんなことをいう。万事がこの調子。空気なんか端から読む気はないし、常に上から目線で相手と接するから、言葉は切り口上になる。それが災いして、二人はなかなか理解し合えない。セックスはできるのに、ルードが求める愛には応じられない。

 父による呪縛でごちごちに凝り固まった若い女性のアイデンティティは、一族の負の遺産であり、人間を蔑視した父の憎悪を引き継いでいる。しかし、それだけではない。貧苦と孤独な生活を強いられながら、自分を育てるための栄養を摂るようにして、脳内に取り込んだ、世界屈指の文学者の思惟や警句がゼブラの中で互いに響き合って、次から次へと独自の新しい発見、発想が飛び出してくる。この目くるめくようなアイデンティティの変容には驚かされる。

 「亡命」という主題を抜きにしてそれを語ることはできない。ゼブラはどこへ行くにも死んだ父のトランクを持ち歩く。そこには一族の家訓を描いた絵やサモワールといった日用品とともに『神曲』や『オデュッセイア』が入っている。ゼブラはそれを「私の過去の遺骸(なきがら)」と呼ぶ。曲がりなりにも、自分の国というものがあり、読もうと思って手を伸ばせばそこに本がある。それが当たり前だと思っていた。しかし、遍歴を定めとする亡命者に書庫はない。文学は予め自分の中に入っていなければならないのだ。実在する本は、時折り開いて、そこにあることを確かめるよすがなのかもしれない。

『指差す標識の事例』上・下 イーアン・ペアーズ 池 央耿 東江一紀 宮脇孝雄 日暮雅通 訳

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<上・下巻併せての評です>

時は一六六三年三月。王政復古から三年がたち、イングランドは落ち着きを取り戻しつつあった。ヴェネツィアの貿易商の息子でライデン留学中のマルコ・ダ・コーラは、家業に持ち上がった騒動の対策のため、英国に到着した。ところが、頼みにしていた代理人は死亡、父の資産は事業の協力相手に奪われてしまっていた。あいにく路銀も底をつき、一夜の宿もままならぬ身。ライデン大学で教えを受けたシルヴィウス師の紹介状を手に、急遽オックスフォードに向かう。

当時オックスフォードには、後に「ボイルの法則」を発見することになる、若きロバート・ボイルほか、ジョン・ロックやクリストファー・レンといった錚々たるメンバーが毎夜、エールを酌み交わしては科学や哲学論議に花を咲かせていた。ボイルがいると教えられたコーヒー・ハウスで、コーラは一人の女が男に頼みごとをし、邪険に断られる場に出会う。困っている娘を放っても置けず、耳にした話から、医学の心得があることを告げ、援助を申し出る。

女の名はサラ・ブランディ。母親が怪我をしたが医者を呼ぶ金がなく、元の雇い主に急場の助けを請い、断られたのだ。コーラは応急手当てを施し、その後も毎日様子を診に行くが、友人の医師リチャード・ローワーと地方へ出かけている間に、サラが殺人犯として拘留されてしまう。殺されたのはグローヴという大学教師で、死因は毒殺。サラの元の雇い主であり、馘首されたのを恨んでの犯行、というのが逮捕の理由。裁判の結果、サラは罪を認め、絞首刑となる。

「『薔薇の名前』×アガサ・クリスティ」という、惹句が目を引く。事件の裏には二通の文書があり、いずれも暗号化されている。暗号を解く鍵は一冊の本。舞台はオックスフォードの学寮、そこで毒殺事件が起きるという、まさに『薔薇の名前』仕立て。本作は四人の手記からなり、視点が変わる度に事実と目されていたことが、次々とひっくり返されてゆく。誰もが「信頼できない語り手」というわけだ。日本なら映画『羅生門』か、その原作である芥川龍之介の「藪の中」だが、英国ならクリスティの『アクロイド殺し』だろう。

手記を書いたのは、ヴェネツィア人学徒マルコ・ダ・コーラ。トリニティ・カレッジ法学徒ジャック・プレスコット。オックスフォード大学幾何学教授ジョン・ウォリス。歴史学者アントニー・ウッドの四人。殺人が起きたのは一六六三年だが、四人の手記を読むと、事件の始まりはそれよりずっと以前にあることが追々分かってくる。ことは、宗派対立と王を補佐する地位をめぐる権力闘争、という国を揺るがす大事に繋がっていた。

ジャック・プレスコットの父は王党派の軍人で剛毅清廉の士として知られていたが、何者かの讒言で内通者と断罪され、国外に逃れた後死去。家門は没落、領地は後見人の手に渡り、プレスコットはすべてを失う。父を信じる息子は、真実を求めて関係者に話を聞いて回るが、誰も相手にしない。追及し続けた結果、真実を知る手がかりは二通の文書にあることが分かる。文書は手に入れたものの、その際、後見人に重傷を負わせたかどで、プレスコットは逮捕されてしまう。

ジョン・ウォリスは微分積分学への貢献で知られる数学者だが、暗号研究者としてクロムウェル政権の国務大臣であったジョン・サーロウに雇われていた。クロムウェルには何度も暗殺が企てられており、サーロウは大陸にスパイを送って情報収集に余念がなかった。ウォリスは謀略のあることを知り、大陸から来たマルコに疑いを抱く。人を通じて素性を探らせた結果、コーラは貿易商の子ながら、トルコとの戦いで功績のある軍人だと分かる。

サラの父は、清教徒革命の中で最も急進的な、土地均分などを要求した水平派の指導者だった。ジェントリ(郷紳)層を中心とする独立派と相容れず、国王処刑後、独裁を強めるクロムウェルにより弾圧され、一家は町の中で孤立していた。民間療法に通じ、自然治癒力を持つサラを頼る者も多かったが、魔女だという悪い噂もついて回った。アントニー・ウッドは、そんなサラを愛し、何かと世話をしていたが、プレスコットの告げ口でグローヴとの仲を嫉妬し、二人は別れてしまう。

マルコ・ダ・コーラは人は良さそうだが、その正体が知れない。ジャック・プレスコットは父を信じることにかけては熱心だが、狂信者で人を人とも思わない陰謀家だ。ジョン・ウォリスは自身に対する思い入れが強く、一度こうと思い込んだら容易に意見を変えようとしない。「信頼できない語り手」ばかりだ。そんななか、名誉や地位に執着しない学究肌のアントニー・ウッドだけは信頼できそうだ。最後の語り手であることからもそれは分かる。

これといって探偵役をつとめる人物が見当たらず、推理らしい推理がされることもない。ひとつトリックがあるが、誰にでも分かってしまう初歩的なもので、ミステリとして、クリスティは過褒だろう。だが、王立協会の母胎となる会合に集う若者たちと旧体制にどっぷり浸かった長老派との対立や、清教徒イングランド国教会ローマ・カトリックの間に根づく宗教対立を含んだ、イングランドの複雑に入り組んだ権力争いを、ミステリの形式に落とし込んで、文庫上下巻で千ページを超える長丁場を最後まで読ませる力量は大したもの。

ボイルの「空気ポンプ」を使っての実験や、リチャード・ローワーによる史上初の人体間の輸血など、科学時代の幕開けを告げる動きがある一方で、あたりにはまだ、魔女や魔法、霊や錬金術が跋扈していた。混乱を極める時代の黎明期、歴史に名を残す実在の人物を多数配し、それぞれの経歴に応じた役どころを与え、一大歴史ミステリを仕立て上げたイーアン・ペアーズの力を評価したい。中でも、一六五五年にオックスフォードで絞首刑になったアン・グリーンをモデルにした、サラ・ブランディの造形が光る。『ストーナー』の訳者、東江一紀氏はじめ、名だたる訳者四人が、四つの手記を訳し分けているのも魅力だ。

『言語の七番目の機能』ローラン・ビネ 高橋啓訳

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評を書くときには、読者がその本を読む気になるかどうかを決める際の利便を考慮し、どんなジャンルの本かをまず初めに伝えるようにしているのだが、本書についてはどう紹介したらいいのか正直なところ悩ましい。シャーロック・ホームズ張りの推理力を発揮する人物が、ワトソン役の警視とともに殺人事件の謎を追うのだから、謎解きミステリというのがいちばん相応しいのだろうけれど、ミステリとひとくくりにしてしまうと少々具合が悪いことになる。通常のミステリ・ファンが本書を面白がるとは思えないからだ。

黒死館殺人事件』から法水麟太郎の超絶的な博学の披露を取り去ってしまったら、並みの推理小説と大して変わらないという評を読んだことがある。まあ、それは確かにそうだろう。衒学趣味(ペダントリー)を味わうことが謎解き興味より大事にされているのが明かな作品なのだ。名探偵を主人公に据えた探偵小説には、もともとそういうきらいがある。人の窺い知れない謎を解き明かすことのできる人物には、他を圧するだけの知の持ち主であることが要求されるのだ。それを出し惜しみするのはかえって無理がある。

シモン・エルゾグは、パリ第八大学(ヴァンセンヌ)で記号学の講座を受け持つ講師。今はサン=ドニにある大学がヴァンセンヌにあることから分かるように、時代は一九八〇年から八一年にかけて。フランスの政治で言えば、大統領がジスカール・デスタンからフランソワ・ミッテランにかわる激動の時代。社会党ミッテランが大統領に選ばれた日のパリの狂騒ぶりは、よく覚えている。

シモンが捜査に加わることになったのは、ジャック・バイヤール警視が大学を訪れ、無理矢理シモンを相棒に選んだからだ。ついには、一緒に大統領の執務室に招かれ、正式に国家に雇われることになる。どうやらことは国家的な一大事らしい。イデオロギー的にはヴァンセンヌに勤めるシモンは左派で、現大統領には批判的だが、ことの経緯上やむを得ない。何しろ、交通事故で入院中のロラン・バルトが、実は事故ではなく誰かに襲われた疑惑がある、というのだ。

この小説は、フランスの政権移行を背景に、時代の寵児であったロラン・バルトの事故死を題材にした謎解きミステリの形をとりながら、記号学構造主義といった当時の知の体系を軽やかにさらってみせるとともに、フーコーデリダドゥルーズアルチュセールジュリア・クリステヴァ、フィリップ・ソレルスといった綺羅星のごとき哲学者や作家たちを巻き込んで、ロマン・ヤコブソンが残したとされる『一般言語学』の草稿をめぐる、てんやわんやを露悪的な形で嘲笑してのける、かなり厄介な小説である。

ただ、小説内に書かれているアルチュセールが妻を絞殺した事件は実際に一九八〇年に起きているし、ロラン・バルトが交通事故に遭ったのも同じ年の二月で、史実と創作を巧みにないまぜにしてみせる小説作法は、ゴンクール賞最優秀新人賞を受賞した『HHhH―プラハ、一九四二年』以来、この作家の得意とするところだ。本作の目玉は表題にある『言語の七番目の機能』である。ヤコブソンの本には言語の持つ六つの機能が紹介されているが、七番目はない。ところが、草稿にはそれが書かれていたというから穏やかでない。

バルトはどこからか草稿を入手し、ひそかに屋根裏部屋に隠し持っていた。そして、紙片の裏表にびっしり「言語の七番目の機能」について書き写したコピーを持ち歩いていた。何者かがそれを奪う目的で彼を襲ったと考えられる。アルジェリアで戦ったこともあるバイヤールは左翼とインテリには縁がない。コレージュ・ド・フランスを訪ねてフーコーにバルトの話を聞きに行ったのはいいが、話の内容がさっぱり分からない。そこで、話を翻訳してもらおうと記号学の専門家を探しに今度はヴァンセンヌを訪れ、シモンを見つけた次第。

風体が逞しく押し出しのいいバイヤールと線の細いインテリのシモンという、二人のコンビがなかなかいい。読者はバイヤール同様、記号学について何も知らなくても心配することはない。すべて、シモンが分かりやすく翻訳してくれる。そして、知的エリートの際限のない大言壮語を聞かされたり、性的に放埓の限りを尽くすさまを見せられたりするたびに、腹の中でバイヤールがつぶやく悪口雑言に共感する。この仕掛けが小説の工夫なのだ。

ビネは、フーコーソレルスの文体を模倣して、パスティーシュの技量を見せつけながら、返す刀で、口舌の裏に隠された名誉欲やライヴァルの足を引っ張ろうとする敵愾心などをここぞとばかりに暴き立てる。言葉が華麗で文体が流麗であればあるほど、その内実の醜悪さが浮かび上がる。ミステリ仕立ての本作が意識したはずの『薔薇の名前』の作者、ボローニャの賢人ウンベルト・エーコを除いて、ほとんどのフランス人の哲学者や作家はひどい書かれようだ。フーコーの性豪振りなどあからさま過ぎて、これでよく文句が出なかったなと心配になるほど。

映画『ファイト・クラブ』から着想した「ロゴス・クラブ」という秘密の会合が面白い。拳ならぬ弁論で戦う一対一の争いである。弁論術のレベルによっていくつかの位階があり、相手を倒すことで位階が上がるシステムだ。もっとも、本戦ともなれば試合に敗れると指を切り落とされるという痛い判定が待ち受けている。まだ誰も知らない「言語の七番目の機能」を手に入れることができれば、恐らく無敵の勝者になれるだろう。

大は国家権力をめぐる暗闘から、小は個人の名誉欲まで、様々な思惑がいくつも重なりもつれあって何人もの人命が奪われる。パリ、ボローニャ、イサカ(アメリカ)、ヴェネツィアナポリと、大西洋を挟んでヨーロッパとアメリカを股にかけた壮大な謎解きミステリであり、スパイ小説でもある。カー・チェイスあり、傘に毒薬を仕込んだ暗殺あり、謎の日本人の二人組まで登場する一大エンターテインメント。時移れば、あの知の巨人もこう揶揄われるのか、と構造主義ポスト構造主義華やかなりし時代を知る者には、ほろ苦い思いを抱かせる問題作ではあるが、読ませる小説であることは間違いない。

『これは小説ではない』デイヴィッド・マークソン 木原善彦訳

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シュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットの画に「これはパイプではない」というのがある。紛れもなくパイプを描いた絵の下に、「これはパイプではない」と書かれているところに面白みがあるのだが、書かれていることはまちがっていない。『ウィトゲンシュタインの愛人』の作者なら、こういうだろう。正しくは、それは「パイプを描いた絵」なのだ、と。

『これは小説ではない』は、断章形式で書かれた実験小説である。そう書くと怖気づく読者がいるやもしれないが、面白さについては保証する。よく似た形式で書かれていた『ウィトゲンシュタインの愛人』には、まだしもケイトという名の女性が登場し、地上から人間が姿を消した世界という舞台が与えられていた。これは、そこから登場人物と世界を取り去ったものといえる。作家は、次のような断章で小説を書き出す。

 〈作者〉は文章を書くのを本気でやめたがっている。

 〈作者〉は物語をでっち上げるのに死ぬほどうんざりしている。

〈作者〉の意図に関する断章はまだある。

 〈作者〉は登場人物を考え出すことにも飽き飽きしている。

 まったく物語のない小説。〈作者〉はそれを作りたい。

 登場人物もいない小説。一人も。

 物語なし。登場人物なし。

 にもかかわらず、読者にページをめくる気にさせる。

 それどころか、始まりと終りがちゃんとある小説。

 最後には悲哀の余韻さえ残るもの。

 舞台設定(傍点四字)のない小説。

 いわゆる家具もなし。

 それゆえ、結局は描写(傍点二字)もなし。

 重要な中心的動機づけ(傍点四字)のない小説。それが〈作者〉の望みだ。

 それゆえ同様に、葛藤(かっとう)や対立のないもの。

 社会的なテーマなし。つまり、社会の描写なし。

 現代の風俗や道徳の描写なし。

 断固として、政治の話はなし。

 象徴をまったく用いない小説。

これらの断章の間に、「誰それ(作家、詩人、劇作家、作曲家等々の人名)は何々(病名)で死んだ」という文が無数に並ぶ。芸術家の死因のカタログのようである。他に作家や画家、音楽家の逸話。「誰それ(前同)は何(楽器)を弾いた」という事実。名作が世に出た時に、同時代の批評家や同業者からどれだけ罵倒されたか、という話題も多い。ジョイスの『ユリシーズ』など、ひどいものだ。婚外子の話。作家の父の職業、と脈絡のない事柄が羅列される。ただ、本当に脈絡がない訳ではない。

すべては繋がっている。その証拠に、ページを跨いで、同じ話題が繰り返されている。まるで詩の「繰り返し句」(リフレイン)のように。大事なことは繰り返される、とどこかで読んだ気がする。となれば、何が繰り返し言及されているかを探れば、この小説が何について書かれているのかが分かるわけだ。いちばん多く繰り返されているのは、作家の死因。これは死にとりつかれた作家もしくは芸術家の死を描いた小説である。

しかし、あまりにも多くの作家、芸術家が果てもなく何らかの病気で死ぬので、そこに何が隠されているのか知りたくなる。「木を隠すなら森の中」というのは、チェスタトンの『ブラウン神父の童心』に出てくる科白だ。画家のアルキンボルドに野菜や花を並べて王の肖像になぞらえた絵があるのをご存知だろうか。あるいは、「みかけハコハゐがとんだいい人だ」という歌川国芳の浮世絵を。どちらも、当人と全く関係のないものを用いて、人物の肖像を描いたものだ。

『これは小説ではない』もまた同じ手法を用いている。過去の同業者の人生の一部を借りてきて、塩梅よく配置することで、そこに〈作者〉とのみ記される、ある人物の人生、並びにその死を判じ物のように浮かび上がらせようというのがこの小説の意図するものだ。しかし、突拍子もない取り合わせや、まるで、あらかじめ意図された断章の「なぞなぞ」のような配置が、詩のような、音楽のような効果を上げ、読む者をして心地よくさせる。

 これはイリス・クレールの肖像画だ。私がそう言えばそうなのだ。
 ロバート・ラウシェンバーグはパリのある画廊に送った電報にそう書いた。

 これは小説だ。〈作者〉かラウシェンバーグがそう言えばそうなのだ。

まるで赤塚不二夫の言い種だが、これがすべてを物語っている。〈作者〉が、そういえば、そうなのだ。〈作者〉によれば、これは番号さえ振れば「長詩」にもなり、新たな『フィネガンズウェイク』でもあるかもしれない。そして〈作者〉のいうように「自伝」なのかもしれない。

しかし、〈作者〉が自分でいていることを鵜呑みにはできない。原爆に関する記述が、何か所かある。これは「社会的なテーマ」だろう。よく読めば、他にもいろいろあるにちがいない。「葛藤や対立」もある。実験小説に対する批評家の無理解にはかなり頭に来ていたのか、批評家と作者の対立を描いたエピソードの数は片手では足りない。ジョイスの『ユリシーズ』や、ホメロスの『イリアス』に寄せる関心の高さは、小説の向こう側にいる〈作者〉の顔をおぼろげに映し出してもいる。

まちがいなくページを繰るのが楽しい書物である。二度読み、三度読み、読めば読むほど仕掛けが見えてくる。「なぞなぞ」が解け、隠された絵柄が見え始めると、もう止まらない。〈作者〉の術中にはまっているのだ。そして、最後まで読めば、上出来のミステリのように「悲哀の余韻が残る」謎解きが待っている。それまでが、読む愉しさに満ちていただけに、いっそう悲哀を感じるのだ。〈作者〉のいう「重要な中心的動機づけ」がそこに透けて見える。文学や絵画、音楽が好きな読者には、芸術家に関するトリヴィア(詳細な註付き)のあまりな椀飯振舞に歓喜のめまいすら覚えるにちがいない。そして、その華やぎとうらはらにひそかに滲み出す悲哀も感じることだろう。

 明らかに〈作者〉は存在している。

 登場人物としてではなく、作者として、ここに。

 

『アウグストゥス』ジョン・ウィリアムズ 布施由紀子訳

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ジョン・ウィリアムズは長篇小説を四冊書いているが、一作目は自己の設けた基準に達しておらず、自作にカウントしていない。二作目が『ブッチャーズ・クロッシング』。三作目が第一回翻訳小説大賞読者賞を受賞した『ストーナー』。『アウグストゥス』は、その四作目で、完成されたものとしては最後の小説である。『ストーナー』は、しみじみと心に沁みる小説で、高い完成度を持つ作品だった。これで、ジョン・ウィリアムズの小説はすべて読んだことになる。どれも素晴らしい出来映えである。

アウグストゥス』は、書簡や回顧録といった媒体を用い、多様な視点を通じて初代ローマ皇帝アウグストゥスの人となりを描いてみせる書簡体小説ユリウス・カエサルの死に始まり、アウグストゥスの死をもって幕を閉じる歴史小説でもある。陰謀と策謀、盟約と裏切り、敵と通じて互いの敵を撃つという信義無用のローマの政治と軍事をその場にいて目撃した当事者、傍観者の口を借りて多彩に描き出している。

もちろん、その中心にいるのはガイウス・オクタウィウス、後の初代ローマ皇帝カエサル・オクタウィウス・アウグストゥスである。しかし、当のオクタウィウスの心の裡は小説も終わりに近づく第三部に至るまで、はっきりと分かることがない。ことが起きた時にオクタウィウスがどういう思いで、その行動をとるに至ったか、そして後でどう思ったかは、常に傍にいて彼を助ける、友人のアグリッパやマエケナスが書き残した文書の中で、間接的に触れている箇所を頼りに読者は推測するよりほかはない。

作品は三部に分かれている。第一部は、カエサルの暗殺からオクタウィウスが数多の戦いを制し、ローマ帝国の礎を築くまでの十三年間を、若い頃からの親友、軍人アグリッパの回顧録、同じく友人で外交・内政を担当した詩人のマエケナスの書簡を中心に描いていく。虚弱体質であったオクタウィウスに代わり、戦闘は常にアグリッパが指揮を執った。フィリッピの戦いやマルクス・アントニウスクレオパトラとの戦いであるアクティウムの海戦などの様子は戦記物を読むようでもある。

第二部は打って変わってオクタウィウスの家族に目が向けられる。自分の家系を残すことにこだわるオクタウィウスと妻リウィアの間には子がなかった。そこで先妻の生んだ一人娘のユリアを何度も再婚させ、男子の跡継ぎを得ようとする。知力に長け、美貌の持ち主でもあったユリアは、父の威光の下、平和が到来したローマにいて、若い富裕層の享楽的な催しに耽る。政略結婚の道具であったユリアが自己に目覚め、ティベリウスという夫のある身で姦通の罪を犯し、流刑にされた島でしたためた回顧録が中心となる。この皇帝の娘のスキャンダルを描いてみたいと思ったのが本作の構想の基となった。

第三部は、七十六歳になり、死期を悟ったオクタウィウスが、ダマスクスに暮らす友人の歴史家、ニクラウスに宛てて船中で書く長い手紙が中心だ。アグリッパをはじめ、心の許せる数少ない友人を次々と逝かせ、孤独な余生を送るオクタウィウスに残されたのはヘロデ王との連絡役として長らく自分の傍に仕えたニクラウスよりほかにいなかった。ここに至って初めて、オクタウィウスは、カエサル暗殺の報を受け取ったときの心境に始まり、娘ユリアに寄せる父としての愛情や、野心家の妻リウィア、その子ティベリウスに対するわだかまりを自分の声で語り出す。

それまで、隔靴搔痒の感があったオクタウィウス像が、霧が晴れたように明らかにされる訳だが、自分の姿を容易に見せようとしなかったオクタウィウスのことだ。この手紙もまた一つの韜晦であると言えなくもない。それかあらぬか、オクタウィウス死去の後、この手紙が届けられたとき、ニクラウスもまた亡くなっていたというから、皮肉極まりない。皇帝の親書である。おいそれと他人が開けるはずもない。ということは、ここに綴られているオクタウィウスの切々たる心情はいったい誰の手になるものか。いうまでもなく作者による。それをいうなら、いくつかの資料は別として、この小説の中に書かれた大半の書館、回顧録はすべて作家の手になるものである。

これまで、大叔父のカエサルや、マルクス・アントニウスクレオパトラに比べ、オクタウィウスは映画や演劇で採り上げられることがあまりなかった。しかし、その実態はパクス・ロマーナの創出者であり、ローマ帝国の版図を広げた最大の功労者でもある。どうしてそんなことになったのか。この小説の中のオクタウィウスは、先の三人に比べ、派手な演出を嫌い、自分が前に出ることなく、出自に関わらず有能な人材を登用し、戦いより婚姻関係で平和を維持しようと励む。もし、カエサルの跡を継がなかったら、一介の文人となっていただろう。そんな、思いがけなくローマを統べることになった人物の、稀有な半生とそれ故に引きうけざるを得なくなった孤独が読者の胸に迫る、壮大な叙事詩にも似た小説である。

『狼の領域』C・J・ボックス 野口百合子訳

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やはり、ジョー・ピケットは容易に人の入り込めない深い山中にいるのが何よりも似つかわしい。普通の場所では、この男の魅力は引き立たない。今回はワイオミング州南部のシエラマドレ山脈が舞台。その頃、ボウ・ハンターが射止めた獲物のところに駆けつけると、エルクは既に解体され、誰かが肉を持ち去った後だったという奇妙な事件が起きていた。他にも、キャビンが荒らされたり、車の窓ガラスが割られたり、立て続けに変事が起きていた。

ワイオミング州猟区管理官のジョーは、かつてブッチ・キャシディも姿を見せた山間の僻地バッグズに単身赴任中だったが、トゥエルブスリープ郡に空きができ、やっとのことで家族のもとに帰れることになった。人間のことは保安官に任せてもいいが、エルクのことは自分の仕事だ。ことの起きた現場を確認し、何があったのかを探ろうと、五日間のトレッキングを思い立ち、馬に乗って単身山に分け入った。なに、ひとりで山にいることが好きなのだ。

二年ほど前、オリンピックに備えて高地トレーニングに励んでいた女性長距離ランナーが行方不明になり、捜索隊の一員としてシエラマドレ山脈に入ったことがある。結局ランナーを見つけることはできなかったが、着衣の一部なりとも見つからないかと目を凝らしていたジョーの目にとまったのは男だった。圏谷(カール)にできた湖で不審な男が魚を釣っていた。決められた数以上釣っていて、許可証も携帯していなかった。

ジョーは杓子定規な男だ。相手は大男でこの山にも詳しそうだった。相手の言う通り見逃せばよかったのだが、それができない性分だ。男の名はグリム。キャンプには双子の兄がいて、つまりはグリム兄弟。違反切符を切るジョーに、兄の方は議論を吹っ掛け、一歩も退かなかった。まるでジョーの方が不法侵入者だとでも言いたげだった。そして、兄弟はジョーの後を追い、矢を放つ。矢はジョーの太腿を貫通し鞍を突き抜け馬体に刺さった。

二頭の馬が殺され、ショットガン、カービン銃も相手の手に渡ったとなっては多勢に無勢、逃げるしかない。山の中に灯りを見つけ、キャビンの戸を叩いたところで気を失った。助けてくれたのはテリという女性で兄弟とは旧知の仲。結局、兄弟にキャビンを襲われ、ジョーは窓を突き破って危ういところで難を逃れたが、傷ついた足を引きずりながら山を下り、麓の牧場で助けられ、病院に運ばれるという体たらくだ。

いつも間の悪い所に立ち会ってしまうのがジョーという男だが、今度ばかりは最悪だった。おまけに悪いことに、ジョーの供述を聞いて山に出動した保安官の一隊は、馬やエルクの死骸も、焼け落ちたキャビンの跡も何一つ発見できなかった。ジョーは大嘘つきだと皆に思われたのだ。州知事はジョーを休職させ自宅待機を命じた。一番まずいのは、兄弟に一矢報いることもできず、逃げ帰ったことで、ジョーは山の中に自分の大切なものをおいてきてしまった。勇気と自信である。

そんな夫に異変を感じた妻は、山に戻り、やるべきことをするよう夫を励ます。もちろん、頼りになる元特殊部隊員のネイトを連れて。つまり、これは徹底的に打ちのめされ、自信喪失した男がもう一度チャンスを与えられ、リヴェンジを果たせるかどうか、という物語である。もっとも、そこには例によって、政治家と実業家の仕組んだ陰謀が隠されていて、グリム兄弟と女性ランナーはそれと深いかかわりを持っていた。

本編が他のシリーズ作品と異なるのは、ジョーが対決するのが巨悪ではないということだ。事件の経緯を知るにつけ、兄弟の境遇には多分に同情の余地がある。自然の中で誰ともかかわらずに生きているという点で、兄弟はむしろジョーやネイトと共通する志向を持っている。一つ違うのは、ジョーは州政府によって雇われた、彼等のいう「政府側の人間」であることだ。やむなく連邦政府との関係を断ち、人目を忍ぶ生活を選んだネイトや、やむを得ず山に籠った兄弟は、ジョーが属する政府側にとって目障りな存在だった。

このねじれた関係がことをややこしくする。これまでネイトはいつ如何なる時でもジョーの側に立っていたが、ここで初めて、無条件でジョーの側に立つのをやめ、第三者的な立場をとる。これは今までにない展開である。長谷川伸の股旅物はウェスタン小説の翻案だという説を読んだことがある。敵対する相手に親近感を抱きながら、一宿一飯の恩義のために戦わざるを得なくなる、という話は『沓掛時次郎』をはじめ、他にいくらでもある。

これまで、このシリーズは、悪漢と善玉ははっきりしており、ジョーはゆるぎのない正義の執行者という立場に立っていた。ところが、この巻においては、あのネイトでさえ、ジョーを支持しない。無論ネイトはアウトローだ。初めから猟区管理官と行動を共にするのがおかしいのだが、今までは恩義のためにジョーに従ってきた。しかし、今回を境に二人は別の道を歩くことになるのだろうか。新機軸を開いたことで、今までにない憂愁を漂わせることになった『狼の領域』は、シリーズ中特別な意味を持つ一篇になったと言えよう。