青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『泥棒は図書室で推理する』ローレンス・ブロック 田口俊樹 訳

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ローレンス・ブロックの名を知ったのは彼の編集した『短篇画廊』がはじまり。続編の『短篇回廊』を読み、その実力のほどを知った。そして、三巻本の『BIBLIO MYSTERIES』の序文で杉江松恋氏が、ローレンス・ブロックの作品として挙げていたのが、本作と『泥棒はライ麦畑で追いかける』の二作だった。チャンドラーがハメットに贈ったサイン本をめぐる話と聞いては、チャンドラー好きとしては放っておくわけにはいかない。

泥棒探偵バーニイは人気があるらしく、これがシリーズ八作目。盗みに入ったところで殺人事件に遭遇し、しかたなく素人探偵として事件の謎を解く、というのがお約束らしい。シリーズ物の常として、マンネリズムは楽しみながらも、過度のマンネリ化を避けるため、一話ずつ趣向を凝らさなくてはならない。今回のそれは、クリスティの『ねずみとり』と『そして誰もいなくなった』を足して二で割る、本格英国ミステリ調の道具立て。そこにレイモンド・チャンドラーをからめようという、何とも凄い力業である。

ニューヨークで本屋を営むバーニイは、イギリスをこよなく愛する恋人のレティスを喜ばせようと、カトルフォード・ハウスに予約を入れていた。そこは、イギリス風のもてなしで有名なカントリー・ハウス風ホテルで、今では本国でも望めないサーヴィスが受けられることで知られていた。ところが、直前になってレティスが結婚することを知ったバーニイは、キャンセルする代わりに、友人のキャロリンを誘う。彼女は、宿賃はおごりだと聞き、同行を承諾する。

実はバーニイには別の狙いがあった。カトルフォード・ハウスには図書室があり、多くの貴重な本が収蔵されている。その中に、チャンドラーがハメットに贈ったサイン本の『大いなる眠り』の初版本があるらしい。もし、ダスト・カバーつきの美本なら二万五千ドルはくだらない代物だ。そんな所に一人で泊まりに行けば、不審に思われるのは必定だが、二人連れなら疑われることもない。そういう算段でキャロリンを誘ったのだ。彼女はレズビアンで、そちらの心配はなく、バーニイが泥棒だということも知っている。この二人の気のおけない会話が実に気が利いていて、楽しい。

ところが、ニューヨークから北に三時間ほど行くと、三月だというのに雪が降りだし、カトルフォード・ハウスに行くには、断崖にかけられた吊り橋を徒歩でゆくしかない。予想通り、泊り客が全員揃ったところで、この吊り橋は切れ落ちる。おまけに雪で電話は通じなくなる。完全なクローズド・サークルの完成である。それから、一人、二人と死者の数は増え、連続殺人の様相を呈することに。やむを得ず、バーニイが素人探偵を買って出る。だが、決定的な証拠がつかめないバーニイは、自分の考えを披歴することをためらい、またもや新たな死者が出る。

雪に降り込められた、英国風カントリーハウスで起きる連続殺人、という見立てである。本屋でもあるバーニイは、いやというほどミステリを読んできている。それで、ついついクリスティ風ミステリに倣い、謎解きを始めるがなかなかうまくいかない。何かがちがうのだ。そこで、彼が思いついたのは、これは、クリスティではなく、チャンドラーなのでは、という考えだ。ポアロミス・マープルのやり方で行くのではなく、フィリップ・マーロウのように行動してみることだ。

まあ、キャロリンもいうようにどこがマーロウ、という感じではあるのだが、真相は究明される。いわゆる謎解きが主体の本格物を好む読者にとっては、少々というか、全くというか、謎解きはかなり物足りない、と思われる。だが、ローレンス・ブロックの泥棒探偵バーニイ・シリーズを楽しみにしている読者には、その辺はまったく問題ない。最後に、とっておきの解説がついている。チャンドラーの読者なら、よく知っている、あの「運転手を殺したのは誰だ」というエピソードである。

『大いなる眠り』が映画化され、脚本の手直しをしているときのことだ。スタッフの一人が登場人物の一人であるお抱え運転手がどうして死んだか知りたいと言い出した。誰も分からないので、作家に聞いてみようということになった。そこで電話したところ、チャンドラーは「わからない」と答えたという、文学史上超有名なエピソードである。キャロリンもいうように、イギリス風の謎解きミステリでは、謎は最後にきちんと解かれるものと決まっている。バーニイが最後に言う。

「現実社会というのは、もっと不確かなもので、わからないことももっといっぱいある。わからないというのは、確かに苛立たしいことではあるけど、だからといって、そのために夜も眠れなくなるというほどのものでもない。だろう?」。これは作者、ローレンス・ブロックによる正統的謎解きミステリに対する批評ではないだろうか。その手の作品の中には、辻褄を合わせるために、かなり無理をした作品が少なくない。そんなことより、もっとミステリを愉しむことだ。本作のケリのつけ方には、フィリップ・マーロウのスタイルが感じられる。本格物のパロディよろしく、面白おかしく洒落のめしながら、そのあたりはきちっとハードボイルドをやっているのだ。憎いね、ローレンス・ブロック

『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』川本直

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ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』から借りた表題からも分かるように、世に知られた著名人の人生をよく知る語り手が、本当の姿を暴露するというのが主題だ。それでは、ジュリアン・バトラーというのは誰か。アメリカの文学界で、男性の同性愛について初めて書いたのは、ゴア・ヴィダルの『都市と柱』とされているが、ジュリアン・バトラーの『二つの愛』はそれに続く同性愛文学のはしり、とされている。

一九五〇年代のアメリカでは、同性愛について大っぴらに触れることはタブー視されていた。ジュリアン・バトラーのデビュー作も、二十に及ぶアメリカの出版社に拒否され、結局はナボコフの『ロリータ』を出版した、ある種いかがわしい作品を得意にしていたフランスのオリンピア・プレスから出ることになった。アメリカに逆輸入された作品は、批評家たちにポルノグラフィー扱いされ、囂囂たる非難の的となる。

しかし、続いて発表された『空が錯乱する』は、ローマ史に基づいた歴史もので、相変わらず同性愛を扱っているものの、繊細な叙述と実際の見聞によるイタリアの遺跡の描写を評価する向きもあった。ところが、三作目の『ネオサテュリコン』は、ペトロニウスの『サテュリコン』を現代のニューヨークに置き換えて、二人の同性愛者のご乱行を露骨に描いたことで、またもや顰蹙を買うことになった。

その第一章を、裏技を使って雑誌「エスクァイア」に載せたのは、ジュリアンの友人のジョンだったが、それがもとで彼は解雇され、友人の薦めでパリ・レヴュ―誌に引き抜かれ、ジュリアンとともに渡仏する。『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』は、そのジョンが、晩年になって過去を回顧して自分とジュリアンの創作と生活について、世間に知られていない秘密を余すことなく書き綴ったものである。

作品によって作風が異なるのも当たり前のことで、実はジュリアン・バトラーというのは、名前こそジュリアンの名になっているが、その内実は、エラリー・クイーン藤子不二雄と同じ、合作者のペン・ネームだったのだ。二人は、アメリカの上流階級の子弟が進むことで有名なボーディング・スクール(全寮制寄宿学校)、フィリップス・エクセター・アカデミーの同窓生で、寮の部屋をともにしていた仲だ。

演劇祭でジュリアンがサロメ、ジョンが預言者カナーンとして共演したことがきっかけで、交際が始まり、結局ジョンは生涯ジュリアン以外とベッドを共にすることがなかった。デビュー作はジュリアンが書いたものにジョンが手を入れた。ジュリアンは発想や会話は抜群だったが文章力は皆無。一方、内向的な性格のジョンは、部屋にこもって文章を読んだり書いたりするのが好きだった。派手好みのジュリアンは湯水のように金を使う。一緒に暮らし始めた二人は、不本意ながら合作に舵を切る。もっとも、書くのはジョン一人だった。

どこへでも女装で出かけてゆくジュリアンは、華奢だったため、まず男と見破られることはなかったが、アメリカでは変装は罪で、逮捕される危険もあり、二人は渡欧。最後はイタリアのアマルフィ近くのラヴェッロに居を構え、ジョンは日がな執筆を、ジュリアンはカフェで酒を飲んでは興に乗って歌を披露するという暮らしを続ける。トルーマン・カポーティ―やゴア・ヴィダルといった友人がヴィラを訪れては、飲めや歌えの大騒ぎを繰り返す、この時期は二人にとっての酒とバラの日々だった。

十代後半から八十歳代に至るまでの回顧録で、当時のアメリカの作家やアーティストが繰り広げる乱痴気騒ぎを、楽屋話よろしく本編に織り交ぜて語られるので、文学好きにはたまらない。人気者としてちやほやされ皆に愛されるのが大好きなジュリアンは本のことなどそっちのけでひたすら飲んでいるばかり。一方、締め切りに追われるジョンの方は書くことに夢中。相手に対する葛藤もあるが、ヨーロッパ各地を巡っては、料理や酒に舌鼓を打ち、名所旧跡を訪れては、感慨に耽る。この膝栗毛は読んでいて愉しい。

まるで、外国文学の翻訳のような体裁なので、ついうかうかとその気で読んでしまうが、実は根っからのフィクション。ジュリアン・バトラーという作家は存在しない。ジュリアンとジョンの二人は、イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』のチャールスとセヴァスチャンがモデル。二人が楡の木陰で蟠桃を口に含んで白ワインを飲むところに仄めかされている。『ブライヅヘッドふたたび』では、それが栗の花と苺だった。また、ジョンとジュリアンの略歴は作中にも何度も登場するゴア・ヴィダルのそれから採られているようだ。政治家の父を持ち、晩年はラヴェッロでパートナーと暮らすところまで。

しかけはその他にも用意されている。実作者と思わせる日本人がジョンにインタビューしにくるのだが、そのインタビュアーである川本直による「ジュリアン・バトラーを求めて――あとがきに代えて」という文章が末尾に付されていたり、『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』を書いたアンソニー・アンダーソンが、自分で小説を書くのをやめたジョンの変名で、いわば、ひとり芝居だったという詐欺まがいの行為まで含めて、この小説の作品世界は成り立っている。

これが初の小説だというが、実に達者なものだ。引かれ合いながらも全く異なる資質を持つ二人の男が、長い人生を共に暮らす。なにかと窮屈なアメリカを離れ、祖父の資産と小説の印税や、映画化による契約金で、潤沢な生活を送る二人。放蕩生活を楽しむジュリアンが酒に溺れ身を持ち崩してゆくのに比べ、他人との接触を避け、執筆一筋できたジョンが、ジュリアンの死を契機として、人と生きることに目覚めてゆくところなど、翻訳小説風であるからこそ読めるところで、日本の小説だったら嘘臭くなるにちがいない。次はどんな世界を見せてくれるのか楽しみな作家の登場である。

『獄中シェイクスピア劇団』マーガレット・アトウッド 鴻巣友季子 訳

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劇場で見たことはないが、ピーター・グリーナウェイ監督、ジョン・ギールグッド主演の『プロスペローの本』という映画を観たことがある。『テンペスト』は復讐劇。魔法を究めることに執心し、政務を疎かにしたことにより、弟に大公位を簒奪され、三歳の娘ミランダとともに島流しにあったミラノ大公プロスペローが、十二年後、偶然近くを通りかかった船を魔法の力で難破させ、かつて自分を陥れたナポリ王や弟アントーニオに復讐を果たすという、シェイクスピア最後の戯曲だ。

『獄中シェイクスピア劇団』は、シェイクスピアの作品を現代作家が語り直すという趣向の「語りなおしシェイクスピア」シリーズ第一作。今回の作者は『侍女の物語』『誓願』等で有名な、あのマーガレット・アトウッド。この組み合わせで面白くないはずがないと期待しつつ読んだが、巻を措く能わず、の言葉通り一気に読み終えた。ラップあり、ダンスあり、罵倒語たっぷり、というミュージカル版『テンペスト』。期待は裏切られなかった。

ミラノ大公の座を追われたプロスペロー役を、カナダの田舎町マカシュウェグで行われる演劇フェスティバルの舞台芸術監督を務めるフェリックス・フィリップスという演劇人にすることで、アトウッドはシェイクスピアお得意の「劇中劇」という「入れ子構造」を使い『テンペスト』に更なる一捻りを加えている。劇作りに忙しい自分の代わりに資金集めやスポンサーの接待役を他人任せにしたつけが回り、ある日突然フェリックスは監督の座を追われる。部下のトニーがその後釜に座るという段取りである。

とりあえずの住まいとして見つけたのがマカシュウェグ近郊の廃道の突き当りにある丘の斜面を掘って建てられた『テンペスト』劇中の土牢そっくりの小屋。失意のフェリックスはそこで隠遁生活に入る。妻は産褥死、娘のミランダは三歳で死んだ。芝居にかまけて看取ってやれなかったことを後悔しているフェリックスは今でも傍にミランダがいる気がして、始終話しかけている。死んだ子の相手をしている間に九年が経ち、遂には娘の声まで聞こえ出す始末。フェリックスはこのままではいけないと社会復帰を考える。

そんな時、近くにある「フレッチャー矯正所」という刑務所内で文学を教えていた教師が急死、後任を急募中であることを知る。デュークという変名で採用されると、早速、講座をそれまでの「ライ麦畑」からシェイクスピアに変え、最後には受刑者たちによる演劇を披露する。それが受け、受講希望者も年々増え常連も出てくる。『リチャード三世』や『マクベス』の評判は上々で、瞬く間に三年が経ち、四年目の今年、「フレッチャー矯正所」に大臣が訪問するという知らせが届く。今では民族遺産大臣にまで出世した、あのトニーだ。一緒に来るのが当時後ろで糸を引いていたサルで、今は法務大臣になっている。

ようやく復讐の時が来た。今年の演目は、監督を解雇された年にやるはずだった『テンペスト』に決めた。ところが、問題が持ち上がる。大事なエアリエルとミランダ役に一人として手が挙がらない。大気の精エアリエルを妖精(フェアリー)だと信じる受刑者たちは、そんな役を演じたら後でどうなるか分かったもんじゃない(フェアリーには同性愛者の女性役という意味がある)と言う。また女の役でもマクベス夫人ならかまわないが、十五歳の可憐な少女役は、同じ理由で誰もやりたがらない。

獄中劇という趣向がここで生きてくる。エアリエルは妖精ではなくエイリアンのようなものだと言いくるめたが、ミランダの方はなすすべがなく、以前候補として挙がっていた女優アン=マリーに連絡し、快諾をもらう。こうして、劇の練習が始まる。キャスティングに始まり、それぞれの役柄の理解、舞台や衣装の製作、振付け、音楽や映像の準備(なにしろ獄中ということで、実際に観客は入れないで録画したものを見せる)と実際の劇ができていくまでが受刑者たちとの会話を通して生き生きと描かれる。

個性の強い役者が揃っている。ハッカーもいれば、元軍人の強盗、詐欺師、麻薬組織の一員、会計士、人種もアイルランド系、東インド系、スカンジナヴィア系、ヴェトナム難民の家系、WASP、ネイティブ・カナディアン、中国系、アフリカ系カナダ人、と色とりどり。受刑者とは言っても、シリアルキラー小児性愛者はいない。それでも男ばかりの中に女優が入ってゆくのだから、フェリックスは心配するがアン=マリーはなかなかの強者で、すぐにチームの中に入り込み、かえって受刑者たちの強力な助っ人となる。

手ぐすね引いて待ち受けるフェリックスたちのところへトニーとサルたち一行がやってくる。ちょっとした薬を仕込んだ果物とジンジャーエールが用意され、それに手をつけた者は眠りこみ、暗転の中でミランダの相手役、ナポリ王子ファーディナンド役にあたるサルの息子は拉致される。トニーがこれ幸いとサルと党首争いが進行中のセバートにサル追い落としの計略を聞かせるところを録音し、それをネタにフェリックスは復讐を果たすというのが語りなおしの『テンペスト』。ネタばらしのようだが、そもそも種は初めから割れている。

それよりも、受刑者たちが最後にチームで話し合ったそれぞれの役の解釈を披露するとともに、その後の展開を語るところが、いかにも「語りなおし」という趣向にふさわしい。かつて独りよがりで、誰の意見も聞こうとせず、一人で悦に入っていた独裁者フェリックスが、受刑者たちの独特の解釈に百点満点を与え、演劇はチームプレイであることをあらためて理解し直してゆくところなど、胸が熱くなる。

ラップで聴かせるシェイクスピアという発想がぶっ飛んでいるが、『テンペスト』はもともと音楽劇として構想されているので、現代風の語り直しとなれば、ラップもあり、か。ラップといえば韻(ライム)を踏むのが知られている。「バン、バン、キャリバン/獣あつかい、ひどいじゃん!」。原文は読んでいないが、訳者も、かなり苦心したことだろう。原作を知らないからという、心配はご無用。そういう読者のために、作者による<オリジナル・ストーリー>が巻末に付されている。やみつきになりそうなシリーズの登場である。

 

『歓喜の島』ドン・ウィンズロウ 後藤由希子 訳

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ウォルター・ウィザーズは元諜報員。CIAの人材調達係として、スウェーデンで働いてきた。旧家の出で、そつがなく人の気を逸らさない。控え目で自分の分の勘定は自分で持つので、誰からも好かれている。美男だが押しの強さはない、俳優で言えばレスリー・ハワードやフレッド・アステアシャルル・ボワイエといったタイプ。服装の趣味がよく、一本のマッチで二本の煙草に火をつけることができる。一口でいうと、スタイリッシュなのだ。

ところが、彼がその人たらしの腕にものを言わせて籠絡し、西側のために働かせていたカモたちが始末されたり、評判を落としたりすることが相継ぐ。潜入スパイがいるらしい。自分のせいで拷問を受けたり、命を落としたりする人間が出たことで、悪夢を見るようになった、ちょうどその頃、ジャズ・シンガーで恋人のアンも、アルバムの録音でニューヨークに戻ることになった。ウォルターはカンパニーに辞職を願い出た。彼はニューヨークの情報会社に勤めることになる。

クリスマス・イブの日、ウォルターは社長から直々、パーティーでのボディガード役を命じられる。対象は次期大統領候補の上院議員ジョーゼフ・ケニーリー(ケネディがモデル)の妻マデリーン。ごついタイプでなくソフトなタイプがいいというので、彼にお鉢が回ってきたのだ。当時は冷戦時代、民主党推しで、ソヴィエトと戦う姿勢のケニーリーのことを彼は買っていた。パーティーに押しかけて来たビート詩人を体よく追い払ったことで、ケニーリー家のお覚えめでたくなったウォルターだったが、ケニーリーは食わせ者だった。

ジェイムズ・エルロイの『アメリカン・タブロイド』を読んだから、ジャック・ケネディの女好きはよく知っている。FBI長官のフーヴァーが、その秘密を暴露しようと暗躍していたことも。この夜もジョー・ケニーリーは浮気相手のスウェーデン女優マルタをパーティーに呼んでいた。ウォルター名義の部屋を使って密会しようとしていたのだ。ところが、その晩、マルタが死ぬ。自殺に見せかけた殺しであることをNYPDの警部が見抜き、ウォルターは容疑者にされてしまう。

二人の情事は誰かに盗聴されていた。ウォルターは、アンの不審な動きに目を留めて後をつけ、うまく立ちまわって録音テープを入手する。一九五八年はアメリカン・フットボールの歴史に残るジャイアンツ対コルツの試合があった年。ウィンズロウはこの試合をかなりの長さにわたって書いている。これがフットボールに興味のない日本人には長すぎると評判が悪い。しかし、その後、録音テープをめぐっていくつものグループが争奪戦を繰り広げる。ボールの奪い合いとテープの奪い合いは、どちらも知力と体力を尽くしたチームプレイだ。

しかも、コルツのオーナーは試合の勝ち負けではなく、六点差での勝利にこだわっている。それが賭けの勝敗を決めるのだ。この点も、グラウンドで必死に戦うプレイヤーを尻目に、観覧席にいるオーナーが選手を操っていることを仄めかしている。試合に大金を賭けているウォルターとケニーリー二人の姿が、その後の暗闘を象徴していると見れば、このシーンの意味が分かる。スタンドから試合を眺めるウォルターは、どうやら自分がまきこまれたゲームについても手がかりをつかんだようだ。

ジョン・ル・カレ風のスパイ活劇から、ニール・ケアリー風の探偵小説、その間にアーサー王と王妃グィネヴィア、それに騎士ランスロットに擬した、ケニーリー、マデリーン、ウォルターの三角関係を挟み、大晦日のニューヨークの街を舞台にしたド派手な追走劇を配したサービス満点のサスペンス。後味のいいのは、この時期のウィンズロウの持ち味。一途なまでに思い姫を守ろうとあらゆる手を尽くして力を揮うサー・ウォルターの姿が凛々しい。

何より、プロローグ「懐かしのストックホルム」に始まる、ジャズの名曲、演奏について触れた部分が多いのも、往年のジャズ・ファンにはうれしいところ。なにしろ、あの伝説の伯爵夫人までが登場し、ウォルターとアンに声をかけるのだ。ニューヨークの名店、お高くとまるのではなく、ステーキを食べるなら、本物のジャズを聴くなら、ここといった通好みのお勧めの店があれこれ並び、タイムマシンに乗って、一九五八年のマンハッタンを訪れたような気になれる。

ユリシーズ』で、ジェイムズ・ジョイスはダブリンのとある一日を様々な文体で描いたが、『歓喜の島』でドン・ウィンズロウが描こうとしたのは、一九五八年のクリスマスから大晦日にかけてのニューヨーク。ロックフェラー・センター前に大きなクリスマス・ツリーが立ち、電飾が輝き、人々は愛する人たちにプレゼントを買うために、五番街をそぞろ歩く。クラブでは着飾った人々が、流れるジャズを聴きながら酒を楽しんでいる、そんな古きよき時代のマンハッタン島の姿が現出する。

主人公のウォルター・ウィザーズは、これが初出ではない。ニール・ケアリー・シリーズ第四作『ウォータースライドをのぼれ」で、時代に取り残されたアル中の名探偵として脇役で顔を見せている。お気に入りのキャラクターではあるが、初登場にして殺してしまっていた。一九五八年を舞台にした作品を構想していた作家は、彼の黄金時代をこの時代に持ってくれば、スタイリッシュで頭脳明晰なところが主人公にうってつけだと思ったという。

訳について一言。後藤由希子の訳は、東江一紀の名訳にも引けを取らない調子のいい訳に仕上がっている。ただし、人名に誤りがある。今回は一九五八年を謳いあげるために、ブロードウェイの名優たちのまねき上げが披露されている。その大事な場面で、あのドン・アメチーをドン・アミーチー。愛すべき名優イーライ・ウォラックを、エリ・ウォラックとしている。こういうところ、作家は愛を込めて書いている。訳者も心して訳すべきだ。

 

『パールストリートのクレイジー女たち』トレヴェニアン 江國香織 訳

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「一九三六年、僕は六歳だった。妹は三歳、母は二十七歳で、僕たちは新しい生活を始めようとしていた」。ところはニューヨーク州オールバニー。ニューヨークといえば聞こえはいいが、パールストリートはアイルランド系の貧民が暮らすスラムだ。家族を捨てて家を出ていったきりの父から、アパートを借りたから引っ越して来いという手紙が来て、はるばるやってはきてみれば、父は留守。聖パトリックデイの飾りつけだけが空しく待っていた。

「僕」の父はペテン師で、家族はいつも置いてけぼりを食ってばかり。今度も期待も虚しく、父は顔を見せることなく母と二人の子どもは見知らぬ土地に取り残される。フランス人とインディアン(オノンダガ族)の血を引く母は、鬱の時と躁の時が交互にくる性格で、今回も激しく落ち込んだ後は、父への怒りをぶつけるように猛然と家中を掃除しはじめる。所持金は五ドルで、帰る家はなし。ここで生きていくしかないのだ。

一家の働き手に見捨てられ、病弱でフルタイムで働けない母を支え、新聞配達で金を稼ぎ、母が寝込んだときは看病し、幼い妹の世話をしなければならない「僕」が、パールストリートで暮らした子ども時代を描く物語。世界恐慌の時代で、一家の暮らしは食うにも困る有り様。おまけに母はかっとなると相手かまわず喧嘩を吹っ掛けるたちで、生活保護の申請に行っても相手とやり合ってしまい、話にならない。

ただ、自分で服を縫い、当時はまだ珍しいパンツルックを着こなす美しい母が「僕」は大好きだった。母は、スラム街で暮らしていても自分たちをそこの住人と同じだとみなしてはいなかった。いつか迎えの船が来る、それまでの辛抱だ、と信じていた。だから、掃除も洗濯もしっかりこなし、休日は街に出かけ、ウィンドウショッピングをし映画を見た。妹のアン=マリーは、第二のシャーリー・テンプルを夢見て、ダンスのレッスンさえ受けていた。

スラム街の話と聞くと、なんだか惨めに聞こえるかもしれないが、それはちがう。たしかに食べるものはピーナッツバターを塗った食パンがせいぜいで、それも手に入らないときはポテトのスープだけ。材料となるじゃがいもは、妹の乳母車を引いて何ブロックも離れた配給所に行って「僕」がもらってくるのだ。傍目から見たら、悲惨な境遇だろう。しかし、これを書いているのは大きくなった「僕」だ。回想を通して見れば、事態はいささか違って見える。失われた時間を振り返る時、人は誰しもフィルターをかけずにはいられないものだ。

「僕」はただの子どもではなかった。スラム街の子が通う地域の小学校では学力がずば抜けていて、年上の子のクラスに編入されるが、そこでも成績は群を抜いていた。IQを調べたところ二百幾つ、というから凄い。分かりきったことを何度も繰り返す授業は退屈で、ついつい空想にふけることが多くなる。教師に贔屓され、いじめの対象にされるが、殴られても相手を離さず、いつまでも食い下がるので、そのうち構われなくなる。当然相手になれるような子はいない。一人でごっこ遊びをするのが習慣になる。

当時のポップスや、ラジオの人気番組、そして、映画の話が文章の間に大量に紹介されている。母が好きな女優がベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードだというから、なるほどと思う。男まさりのしっかりした女性を目指していたのだろう。母はダンスが得意で従妹のローナとペアを組んでコンテストで優勝したこともある。ラジオから流れてくる曲に合わせて歌ったり踊ったり、ドラマを聞いたり、と夕食後の団欒は楽しそうだ。

「僕」をめぐる大人たちについて触れておこう。「僕」の素質にいち早く気がついた優れた教師のミス・コックス。彼女の早すぎる死で「僕」は勉強する気を失う。雑貨屋の主人のケーンさんはユダヤ人で「企業心溢れる社会主義者」。本屋を失敗してこの町に流れてきた。人種的偏見に悩まされながらも、親切で支払いはツケにしてくれる。「僕」は、ケーンさんが短波ラジオ仕入れる国際情報で、ヨーロッパで何が起きているかを知る。ヒトラーが登場して、ポーランドに侵攻し、瞬く間にヨーロッパを席巻していった頃だ。

アパートの最上階にカウボーイが引っ越してくる。ボイラーの故障を修理してくれたのがきっかけで、ベンは家族と仲良くなる。やがて、母との間に交流が生まれ、二人は結婚を考え始める。そんな時、日本が真珠湾を襲い、ベンも戦争に行くことになる。僕のごっこ遊びは、人の来ないレンガ工場の砂山を使った砂漠のアラブ人から、ワシントンパークの丘の上で、一人で何役もこなして日本兵やナチを相手に戦う、戦争ごっこに変わる。

成長するにつれ、母と衝突することも増える。何度か家出も試みたが、残された母と妹のことを思うと家に帰るしかなかった。母が自分のことを頼りにしていることも分かるが、それが自分を縛りつけていることに耐えられなくなる。ベンが自分の代わりに母の力になってくれたら、自分はどこへでも出て行ける。戦地からの便りが途絶えるたびに、ベンの身の安全より自分の将来が心配になる自分のことが「僕」は許せない。果たして、ベンは無事帰還して、母と一緒になれるのだろうか。

大恐慌時代から第二次世界大戦へと移ろいゆくアメリカの世相。そんな中、IQ二百以上の多感な少年の目を通して語られる、貧しさにめげず、たくましく生きる一家の暮らし。性に目覚め、神とのつきあい方に悩み、奇妙な隣人たちを通して人間を知ってゆく「僕」と当時のアメリカの姿が、事細かに生彩溢れた文章で綴られる。こんなに面白い小説を読んだのは久しぶりだ。結びで、二十四年後の「僕」は、父レイとの再会を果たす。蛇足のように挿まれた逸話が放つ最強のイロニーを含め、トレヴェニアンの小説術は素晴らしいの一語に尽きる。訳は江國香織。文章に独特のリズムがあり、読んでいて愉しい。小説好きにお薦め。

『眠りの航路』呉明益 倉本知明 訳

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学生時代、御所の中を歩いていて、蛞蝓になって塀をのぼってゆく夢の話を聞いたことがある。なんでも、夢を見たら、自分の襟首をひっつかんで夢から引っぺがし、枕元においてある紙に、今見たばかりの夢を書き写すことを習慣にしているのだそうだ。せっかく気持ちよく眠っているのに、ずいぶん過酷なことをするものだ、となかば呆れて聞いていたが、後に彼はH氏賞を受賞した。物書きになるような者はふだんから、並の人間には及びもつかぬことをしているものだ。主人公も同じことをしている。

日本では『歩道橋の魔術師』、『自転車泥棒』、『複眼人』が既に訳されている呉明益だが、この『眠りの航路』が最初の長篇小説である。呉明益といえば、台北の中華商場を舞台にした作品で有名だが、本作にも登場する。そして、あの自転車と失踪した父についても詳しく語られている。邦訳の順序が、逆になっているので、本作が『自転車泥棒』の前日譚のようにも読めるが、事実は、読者から「あの自転車は、あれからどうなったのですか」と訊かれ、思いついたのが『自転車泥棒』だったのだ。

そんなこんなで、愛読者にとっては初めて出会う気がしない「ぼく」は、台北でゴシップ紙の記者をしている。しかし内心では今の仕事に嫌気がさしている。そんなとき、友人に誘われて数十年に一度という竹の開花を見るために、陽名山に登って以来、睡眠時間の周期が二十七時間に伸びたことに気づく。眠くなるのが一日に三時間ずつ遅くなる。そして睡魔に襲われると、夢も見ず、死んだように眠るのだ。いつどこで眠り込んでしまうかも知れないのでは、記者の仕事もできず、「ぼく」は、山の中に家を借り、時間に縛られない仕事をするようになる。「ぼく」はそこに大量の太平洋戦争の資料を持ち込む。

短章形式で、複数の話題が入れ代わり立ち代わり語られるので、最初は分かりづらいが、そのうち、太平洋戦争末期、台湾から神奈川県の高座海軍工廠に少年工として渡航した十三歳の「三郎」というのが、「ぼく」の父であることが分かってくると、話のつながりが見えてくる。「ぼく」の父は難聴という持病のせいもあって、寡黙で自分のことを話さない人だった。大学に進んでからは、商場にあった家を出て、父と話すこともなくなっていた「ぼく」だが、同窓会の日、偶然出会った今は古本屋をしている旧友から、父が昔売った本に紛れていた菓子箱を返される。その中には、写真その他、父の過去が残されていた。

断章ごとに、叙述のスタイルが変わる。ひとつは、現在の「ぼく」が語る睡眠障害について、医者と語り合う夢と眠りについての理論的考察。山に籠りながら、週一で医師の家に通ううち、日本の医師を紹介された「ぼく」は日本に渡る。「ぼく」は治療の傍ら、父の所持品に記録されていた場所を訪れる。もう一つは、太平洋戦争末期の三郎の海軍工廠での暮らし。彼はそこで五歳年上の平岡君と知り合い、秘かに敬慕の念を抱くようになる。平岡君は宿舎の図書館職員をしていたが、暇を見つけては少年工に話をしてくれた。二人はそこで、終戦詔勅を聞くことになる。

この「ぼく」の現在と戦争末期の三郎の話に割り込むように、「ぼく」の語る、父の中華商場時代の回想が入る。そして、それとは別に「あなたは」という二人称の語りによる、日本語教育を受けて育ち、戦後帰国したものの、中国語を話す台湾人の中で暮らす三郎たち「失われた世代」の抱く違和感と孤独が綴られる。叙述スタイルが異なるのは、「ぼく」が、小説を書こうとしているからだ。ある意味ではこれは作家の構想メモのようなものだ。整理して普通の小説らしい体裁をとることもできただろうが、作家はこのスタイルを採用した。

断章形式は便利な形式だ。前の章とは無関係に全然別のことが書ける。視点もいくらでも変えることができる。だから、短くなったベッドの脚の代わりに床と脚の間につっこまれて身動きがとれなくなり、寝ている人間の夢に入り込むようになった「石ころ」という名の亀の視点でも書ける。あるいは、地上を遠く離れた世界に坐す観世音菩薩の心中にも入り込むことができる。人々の祈りを聴くことのできる大慈大悲の観世音菩薩の心中には広大無辺の図書館があり、内部は六角形だというから、まるで、あの「図書館」ではないか。

「ぼく」と父は「夢遊病」と「睡眠障害」という夢にまつわる共通項を持っていた。夢について深く知るにつれ、それまで見ることもなかった暴力的な夢や不思議な夢を見ることになり、疎遠だった父との関係を再構築してゆく。戦争というものを知ることなく大きくなった「ぼく」の目を通して、父のような「失われた世代」と称される人々の、これまで台湾では表だって語られることがなかった世代の存在意義を問い直したい。ひとつには、そういう思いがあったのだろう。これ以降の作品と比べると、幾らか生硬な感があるのは否めない。

ただ、そこは呉明益。こんなに詰め込まなくても大丈夫なのに、と思えるほど多彩なエピソードを用意して、読者を愉しませてくれる。観世音菩薩の図書館もそうだが、平岡君が三郎に語って聞かせる「蘭陵王」や岬の物語は、先行するテクストを巧みに自分の小説に繰り入れる、この作家の持ち味を早くものぞかせている。また、厖大な数の太平洋戦争中の資料を読み込んだ結果が、あの映画『風立ちぬ』にも出てきた牛を使っての飛行機の移動や、上野動物園で見世物にされたBー29の搭乗員の話等に活かされている。また、「レム睡眠障害」をはじめ、眠りや夢に関する理論も平易に紹介されていて、大いに勉強になった。

夢の話だが、以前は見たこともある、空を飛ぶ夢もとんと見なくなり、見るのは退職前の仕事に纏わる夢がほとんどだ。やるべき仕事が期日までにできておらず焦ったり、その言い訳を考えたり、とまるでわざわざ夢で見なくてもいいようなお粗末な夢ばかりなのは、夢を重視してこなかった罰なのか、それとも、定年でさっさと退職したことを、心のどこかで悔やんでいるのか、こればかりは自分でも判断のしようがない。

『小説ムッソリーニ 世紀の落とし子』上・下 アントニオ・スクラーティ 栗原俊英 訳

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<上下巻合わせての評です>

これは、戦後イタリアではじめて真正面からファシズムを描いた小説である。では、今までなぜそれができなかったのか。それは、偏にムッソリーニという人物のキャラクターにある。ある種の能力に恵まれてはいても、等身大の彼はどこにでもいるイタリアの大衆の一人に過ぎない。こんな人間を真正面から取り上げれば、いくら反ファシズムの思いで書かれたとしても、読者がムッソリーニに、ひいてはファシズムの荒々しい魅力に魅了される危険性がある。現にこの小説が評判になると、そういう批判が起きたという。

ベニート・ムッソリーニが、戦闘ファッショを立ち上げ、ファシスト党独裁政権を樹立するまでを描く全四部作の、本作は第一部にあたる。上下巻合わせて約千ページ。圧倒のボリュームながら、これでも一九一九年から一九二四年に至るわずか五年間を扱っただけにすぎない。小説と銘打ってはいるものの、著者曰く「あらゆる出来事、人物、会話、作中で交わされる議論は、史料か、信頼の置ける複数の証言に依拠している」ノンフィクション・ノヴェルである。

ヒトラーと比べるとムッソリーニは影が薄い。映画や小説にしても圧倒的にヒトラーの方に分がある。どうしてそうなったかは知らないが、この本を読んでみると、ベニート・ムッソリーニはなかなかの傑物である。何でも呑み込んでしまうファシズムという融通無碍な大風呂敷を広げ、党勢拡大のためには、何度でも倦むことなく妥協を繰り返し、二股も三股もかけて、粘り強く交渉をする。規律正しく政務をとる一方で、複数の女性とのつきあいも欠かさない。一語一語をはっきり区切る演説は聴く者を魅了してやまない。

敵、味方に分かれて多くの人物が登場し、同時多発的に事件が展開してゆく。ムッソリーニの手兵は「突撃隊」と呼ばれる元軍人からごろつきまで含む、暗殺、放火、懲罰と何でもありの無法者の集まりだ。ムッソリーニはこれを直接ではなく、同僚や直属の部下に命じて操り、ボリシェビキをはじめとする敵対集団の勢いをそぐために用いる。こうすれば自分に火の粉が降りかかることはない。なんのことはない。やくざ、暴力団、マフィア、ギャング、何でもいいが、同じ手口だ。

ヒーロー物にはライヴァルが付きものだ。ムッソリーニは鍛冶屋の息子である。庶民的な彼には、その対極である貴族や富裕層が相手にふさわしい。上巻でムッソリーニの前に立ちはだかるのがイタリアの国民的英雄であり、大詩人のガブリエーレ・ダンヌンツィオ。あの三島由紀夫も憧れた生粋のダンディーだ。当時イタリアは第一次世界大戦に参戦し、多数の戦死者を出しながら、領地割譲は行われず、国民には負の感情が蔓延していた。ダンヌンツィオは、その国民感情を煽り、イタリア帰属を願うフィウーメ(現クロアチア領リエカ)に進軍、占拠する。人気ではムッソリーニが到底かなう相手ではない。

その、ムッソリーニは、世界大戦参戦を表明したことにより、中立を標榜する社会党から除名された。ロシア革命の成功が世界地に飛び火し、共産主義の運動が大きなうねりとなって押し寄せてきていた。戦時の英雄も戦争が終われば無用の存在。ムッソリーニは、腐っていた元突撃隊員を同志にし、戦闘ファッショを旗揚げし、勢力を拡大してゆく。しかし、国政への参加という、さらに上を目指すムッソリーニの野望を尻目に、突撃隊による暴力はとどまることを知らず、ムッソリーニの足を引っ張っぱる存在になりつつあった。

下巻でムッソリーニの最大の敵となるのが、富裕な階級の出身でありながら貧しい者たちのために働こうとする統一社会党の議員ジャコモ・マッテオッティ。議場や会議におけるムッソリーニの威嚇と恫喝、その裏で、親玉の焦慮を忖度した者たちの示威行動の甲斐あって、他党派は懐柔され、ムッソリーニの独裁は着々と進んでいく。多くの者がその力になびくなか、たった一人でそれに立ち向かうのがマッテオッティ。証拠となる資料を手に、詳細な数字を上げ、独裁者の不正を暴いてゆく。

マッテオッティの追及に焦りを隠せないムッソリーニ。配下の者は、マッテオッティを襲い、汚職の証拠となる書類を奪おうと画策するが、相手の抵抗にあい、やむなく車で誘拐するという暴挙に出る。それまで自分を担いでくれていた暴力集団が、一国の首相ともなればかえって足枷となってくる。マッテオッティの失踪はムッソリーニによるものだ、という声が大きくなり、彼はすべてを失う危機に陥る。これをどう乗り切るか。もう、これはクライム・ノヴェルかギャング映画の世界である。

マッテオッティが議会でムッソリーニに対してぶつけた演説を引用しておく。

あなた方はいま、力と権力を手中に収めている。自分たちの権勢を誇っている。なら、ほかの誰でもなくあなた方が、法を遵守する姿を率先して示すべきなのです……自由を与えられれば、人は間違いを起こすものです。一時的に、放縦がはびこることもあるでしょう。だが、イタリアの民衆は、ほかのすべての国の民衆と同じく、その過ちをみずから正す能力があることを示してきました。しかるに現政権は、世界のなかでわが国の民衆だけが、自分の足で立つことを知らず、力による支配を受けるのにふさわしい国民であることを示そうとしています。

文中の国名を日本に替えてみるといい。今、この国で国会が開かれたなら、こういう胸のすく啖呵が聞けるのかもしれない。しかし、憲法を無視し、総裁選に現を抜かす与党を批判もせず、幇間のように持ち上げる報道機関しか持ち得ないこの国で、それは望むべくもない。彼の国では、ファシストによる独裁政権下であっても、国会が開かれ、これだけの反対演説がなされたことが記録に残されている。『小説ムッソリーニ』は、他国の歴史を描いたものである。それでも、今、この国で読まれるにふさわしい書物であると思う。