青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ 雨沢 泰 訳

f:id:abraxasm:20200214164151j:plain

コロナ禍で、多くの人がパンデミック小説の存在に気づいたらしく、カミュの『ペスト』が話題となったが、この小説も二十年ぶりに文庫化され、重版もかかったようだ。未知の感染症の恐怖を描いたものだが、死に至る病ではない。他にどこも悪くならず、目だけが見えなくなる。それも真っ暗な闇に閉ざされるのではなく、ミルク色の海に落ちたように白の闇に閉じ込められるのだ。

登場人物は固有名を持たない。「黒い眼帯の男」や「サングラスの娘」というふうに外見によって区別するか、「医者の妻」のように職業や続柄で呼ばれることになる。当然、舞台となる町も国もどこかは分からない。一口にいえば寓話である。埴谷雄高は小説『死霊』のことを「思考実験」ならぬ「妄想実験」と評しているが、サラマーゴのこれもその試みの一つと言える。「もしわれわれが全員失明したらどうなる?」という「妄想実験」である。

三車線の道路の真ん中で信号待ちをしていた一台の車が、信号が青に変わったのに動き出さない。ガラスの向こうで、男が何か言っている姿が見える。後ろの車から出た人がドアを開けると男が「目が見えない」と言っていたことが分かる。一人の男が失明した男の代わりに車の運転を申し出て、失明した男を家まで送り届けてやる。失明した男の妻が帰宅し、夫は妻に連れられ、眼科を受診する。待合室には黒い眼帯の男やサングラスの娘、斜視の少年がいた。しばらくして、この人たちは医者も含めて全員目が見えなくなる。

男の目には何ら異常がなかった。それなのに自分も同じ症状になった医者は未知の感染症を疑い、政府に連絡を取る。政府のしたことは、感染者と感染が疑われる者を精神病院に隔離することだった。まず当の医者が収容される。夫の身を案じた医者の妻は自分も目が見えないと偽って同行する。その後続々と失明した人々が運ばれてくるが、医師や看護師は配置しない。感染者と感染が疑われる者だけが別々の棟に監禁放置されるのだ。隔離病棟は軍の監視下に置かれ、命令に反するものは射殺するという放送がある。酷い話だ。

失明した者ばかりを病棟に収容したら何が起きるか。サラマーゴ の皮肉が炸裂する。トイレの在り処が分からず、仕方なく廊下で用を足す者が続出する。これこそ糞リアリズム。どうせ誰も見ている者はいないのだ。ミシェル・フーコーは一望監視システム(パノプティコン)の発明が少人数で多くの人間を監視することを可能にし、ディシプリン(規律)の強制という権力を生んだというが、監視者のいない監獄に規律は存在しない。人から羞恥心が消え、本能や欲望が剥き出しになる。平常ならあり得ないことも起きる。

精神病院の中に暴力的なグループが生まれ、バリケードで部屋を占拠し、コンテナで届く食料を独占、欲しかったら金品を出せと脅す。医者は真摯に立ち向かおうとするが、相手は聞く耳を持たない。武装集団相手に口で平等や正義を説く医者の姿は非常時における知識人の無力をさらけ出していて哀れですらある。要求は次第にエスカレートし、遂には食料がほしければ女を差し出せというまでになる。闘えないなら逃げるのも手だが、逃げたくても外には銃を持つ兵士が待っている。パニックを起こして逃げ出した者は既に射殺されていた。

追いつめられた極限状態のなか、人は人間としてどう生きるのか。他人を犠牲にしてまで生きることに価値があるのか。何をしてでも生きることが大事なのか。話し合いで解決できるような問題ではない。絶望的な状況下で、それまで隠されていた、その人の真の姿が立ち現れてくる。男は頼りにならない。最後は女が立ち上がる。それまでも人々のためにできることはすべてやってきた医者の妻だ。没義道な集団に立ち向かう医者の妻は、ドラクロワ描く「民衆を導く自由の女神」を彷彿させる。

前半は閉鎖された空間のなかで、圧倒的な暴力に支配されながら、どう生きのびるかという、絶望的な問いのせいで、読者もまた登場人物と共に自分の生き方、勇気、正義感を問われる内容となっている。そのため、かなり読んでいてつらくなる。途中で本を投げ出したくなるが、そうはさせないだけの迫力がこの小説にはある。救いというもののない長丁場を持ちこたえると、圧倒的なバイオレンスが待っている。散々虐げられてきた者たちによる暴力は、かえって開放感すら感じる。

外に出ても誰も撃ってはこなかった。兵士はいなくなっていたのだ。医者の妻は夫の医者と同室の男女を引き連れ、我が家を目指す。町はディストピアと化していた。突然視力を奪われた人々には都市機能を維持することができなかった。電気、ガス、水道は止まり、交通手段は絶たれて、至る所で死骸が放置され、野犬の餌食となり、人々は群れをなし、食料品を求めて店を襲う、地獄のような光景が待っていた。もっとも、それを目にすることができたのは医者の妻ただ一人だったが。

家に帰り着き一息ついたあとの、雨のシーンが感動的だ。不衛生極まりない場所に閉じ込められ、体を洗うことができなかった女たちはバルコニ-に出て裸になり、降りしきる雨で体を洗う。はしゃぎながら体を洗い合う三人の女はまるで三美神。世界はまだ混迷の中にあるが、ひとまず一つ屋根の下に集えたことの歓びに溢れている。ただの水浴びがこれほどまでに美しく楽しく歓ばしいことを誰が知っていただろう。医者の妻は最後に夫に言う。

「わたしたちは目が見えなくなったんじゃない。わたしたちは目が見えないのよ。目が見えないのに見ていると? 目が見える、目の見えない人びと。でも、見ていない」

原題は<Ensaio sobre a Cegueira(失明に関するエッセイ)>。『白の闇』という邦題は矛盾した語を並べる、修辞法でいうオクシモロン。これは、医者の妻の「目が見える、目の見えない人びと」という言葉の言い換えだ。アレゴリカルで、いかにもサラマーゴらしい。医者の妻は、敢えて渦中に飛び込むことで新生した。翻って、私たちはどうか? 世界中がパンデミックに襲われている今、私たちの目は、果たして見えていると言えるのだろうか? 

『象の旅』ジョゼ・サラマーゴ 木下眞穂 訳

f:id:abraxasm:20211211145715j:plain

フランシスコ・ザビエルが日本を訪れた頃の話。彼を派遣したポルトガルジョアン三世は、舅であるスペイン国王を訪ねてバリャドリードに滞在中の従弟のオーストリア大公マクシミリアン二世の婚儀を祝う品は何がいいかと頭を悩ませていた。妻のカタリナ・デ・アウストリアが、象がいいと言い出したのが事の始まり。二年前にインドから来て以来、毎日、樽一杯の水を飲んで、大量の飼葉を食べ、寝ているばかりで何の役にも立たない。いっそのこと、他国にやってしまえば厄介払いができる、と王妃は思いついたのだ。

その象の旅についていかにも見てきたように語るのは、ポルトガル語世界初のノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴその人だ。象がリスボンからウィーンまで旅をしたのは実話である。資料がないかといろいろあたらせたものの、細部については分からないことが多いので、そこは文学的想像力を縦横無尽に駆使し、小説に仕立て上げたのが、作家の最後を飾る作品となった。ジョゼ・サラマーゴは、一章を構成する文章がほぼ改行なし、会話と地の文を区切る引用符もなし、という独特の文体で知られている。 

それだけ聞くと、何やら牛の涎のような文章が続くような気がするだろうが、心配は無用。機略縦横の語り手が八面六臂、登場人物になりかわり、身分の上下に応じた科白を使いわける。そればかりではない。何についても一家言ある語り手は、歴史ものであることは重々承知の上、現代人である読者にも話がよくわかるように、ヒンドゥー教の神々とキリスト教の神の相違から、狼の習性、当時の距離の単位まで、逸脱を恐れず説明の労を惜しまない。その語りの持つ無類の面白さは、あのA・K・ル=グウィンの保証つきだ。

象の名前はソロモン。一緒にインドからやってきた象遣いの名はスブッロ。珍しさもあって初めは騒がれたもののすぐに忘れ去られ、着ていたきらびやかな衣装は今ではぼろぼろ、象の体も垢まみれ。久しぶりに象を見た王は、この有様ではポルトガルの威信にかかわると思い、象を洗わせ、象遣いに衣装二着の新調を命じ、象遣いの助手二名、水と飼葉を運ぶ要員数名、水桶をのせた荷車を引く牛二頭、それに護衛役の騎兵隊をつけ、オーストリア大公の待つバリャドリードへと象を送り出す。

自動車のない時代、陸上移動の手段としては歩くしかない。象はともかく、重い荷をのせた車を引く牛が一緒では一日の行程はしれたものだ。おまけに象は餌を食べると眠くなる動物で、寝ているところを起こすと機嫌が悪くなる。象遣いは、象の性質をよく知っていて、牛の数を増やし、人の手を借りて押すなど工夫をしながら、一隊を率いる騎兵隊の隊長とも心を通じ合わせ、旅を無事進めてゆく。主人公は象だ、と語り手は言うが、象は口をきかない。そのぶん象遣いの出番が多くなる。

この象遣い、年は若いが物知りで、王侯貴族を相手にしても怖めず臆せず言い分を主張する交渉術にたけた男に設定されている。その上、広い世界を見てきたせいか物の見方がやけに哲学的。ジョゼ・サラマーゴは寒村の農家の息子として生まれ、様々な職を転々としながらジャーナリストになるが、政治的な理由で職を追われ、作家となった。筋金入りの共産主義者無神論者の作家が、自在な語り口で、象遣いはおろか、象の頭のなかにまで入り込み、長年にわたって考え抜いてきたことを忌憚なく吐き出す。たとえば次のように。

一頭の象の中には二頭の象がいると以前に話しました。一頭は教わったことを習得し、もう一頭は何もかもを無視しつづけます。なぜそれがわかった。自分も象にそっくりだと気づいたのです。自分のある部分は学んで覚え、別の部分では学んだことを無視する。そして、長く生きていくほど、無視することが増えるんです。そういう言葉遊びにはついていけんな。わたしが言葉で遊ぶのではなく、言葉がわたしと遊ぶんですよ。

ミゲル・ゴンサルヴェス・メンデス監督がジョゼ・サラマーゴを撮った『ジョゼとピラール』というドキュメンタリー映画がある。現在、期間限定で日本語字幕付きのものが、YouTubeで視聴できる。『象の旅』執筆の過程も題材の一つだ。晩年の老作家が歳の離れた妻のピラールと世界中を駆け巡る様子を見ることができる。ブックフェスの会場にはサインを求める数百人ものファンが列を作り、作家は老体に鞭打って最後までサインをし続け、本当は嫌いだとこぼしながら、写真撮影にも応じていた。

映画を見てわかった。象はサラマーゴなのだ。「象は、大勢に拍手され、見物され、あっという間に忘れられるんです。それが人生というものです。喝采と忘却です」とスブッロは言う。ノーベル賞作家などというものは、そう易々とお目にかかれるものではない。見物できるとなったら客は大騒ぎで駆けつける。どこへ行ってもそれは同じで、本人は辟易しているのだろう。一度だけ移動中の車内で、故郷で開かれる記念式典に出るのを愚図るところがある。人々のためよ、とピラールに説得され、結局出ることにするのだが。

象は象遣いに意のままにされているのではない。象あっての象遣いだ。しかし、象遣いがいなくては象は立往生する。象遣いが苦境に立たされた時、象は機転を利かせて彼を助けるように動く。象と象遣いは二人で一人なのだ。しかし、傍目から見れば、はるばるインドからポルトガルまでやって来て、二年の間放置され、今度は今度で冬のアルプスを越え、はるばるウィーンまでの長旅を強いられる象が哀れでならない。象はウィーンに到着してたった二年で死ぬ。皮を剥がれた後、切られた前脚は傘立てにされた、という説明が最後にある。

もし、象に自分を重ねているとしたら、なんと皮肉な幕切れであることか。政治的に、あるいは宗教的に象を利用しようとする者たちにとって、象は単なる飾り物でしかない。一方、共に旅するなかで、異なる世界に属する者の間に共感が生まれ、心の触れ合いが生じる。思惑はどうあれ、旅の日々が充実していればいいと達観しているのだろうか。「想像、哀れみ、アイロニーを盛り込んだ寓話によって我々がとらえにくい現実を描いた」というのがノーベル賞の授賞理由だが、『象の旅』は、まさにその評にぴったりの小説だ。

『十六の夢の物語』ミロラド・パヴィッチ 三谷恵子 訳

f:id:abraxasm:20211011130332j:plain

『十六の夢の物語』とあるとおり、夢や、予兆、記憶、相似といった互いに異なる時代や場所で起きた複数の事象の間にある奇縁を主題にした作品が選ばれている。パヴィチは文学史家でもあり、セルビア文学史の大冊も刊行している。その該博な知識を駆使して、欧州の火薬庫とも呼ばれるバルカン半島セルビアで起きた有名無名の歴史的事象を換骨奪胎、自在に使い回しては独特の奇譚を創り上げている。

その特徴は、リニアな読みを回避するところにある。長篇で用いた占いや事典形式の採用がその一つ。読みようによっていくらでも異なる世界が立ち現れる玄妙な小説作法だ。短編でそれを味わうのは難しいが「裏返した手袋」一篇は、題名同様、まるで手袋を裏返すようにほぼ同じことを書いたパラグラフを、折り返し地点で逆向きに書き連ねることで、読み始めと読み終わりで、逆の意味を持つ話にしてしまうという、離れ業をやってのけている。

「ヒョウとバッコス」は、締め殺される夢を見て、相手の指を噛みきる寸前のところで目を覚ました男の話。自分の部屋にかかっている古い絵の中の男と旅先で見たモザイク画のバッコス、レストランで出会った外科医、時代も場所も異なる、三人の顔が自分そっくりだったことで、あらためて、自分の指を見ると傷痕が残っており、自分を殺そうとしたのが自分だったことに気づくという、自己同一性を主題にした一篇。「先祖伝来の追放の宿命」という言葉から、自分は何者かという問いに民族の歴史が影を落としていることが分かる。

「いつの日か、禁制にもかかわらず、紙に書いてはいけない名前を書いてしまう者がこの世に生まれてくること、また、読んではならない決まりがあるにもかかわらずそれを読んでしまう者が現れることは間違いない」という罪により、処刑された修道士スパンの書いたイコン画を見つけた「私」は「アクセアノシラス」という表題を持つ文章を書いている。「私」は自分が犯した罪に気づく。スパンが死なねばならなかったのは、私がこれを書いたからだということに。同時にその名前を読んだ「あなた」つまり読者も共犯だということに。

一三一四年、フランスの王女アンジュ―家のヘレナはイバル川のほとりにあるグラダツ修道院で天に召される。生前、王女は修道院の壁のどこかに持参金や宝石その他の財宝を埋め込んだが、その場所は誰にも秘密にされていた。「風の番人」は、その宝物の帰趨をめぐる顛末を描いた物語。

ヘレナの次男ミルティン王の死後、ビザンツ帝国に貸し出されていた兵士たちが帰国し、権力の空白をいいことに国中を荒らしまわり、グラダツ修道院の略奪を狙う。ところが火が回ったことで宝物の略奪を案じた教会長の口から出まかせの「異教徒がいるぞ!」の一声に驚いた巡礼者たちが壁に押し寄せ、兵士たちと鉢合わせになった。兵士たちは巡礼者の存在に驚き、這う這うの体で逃げ出し、その隙に火は消し止められた。その晩教会長が読んでいた本の余白には、次のような懺悔話が書きつけられていた。

驚異的な聴力を持つプリバッツは、グラダツ周辺の住民たちに迫りくる危険について知らせる「風の番人」だった。彼は鳥たちがある場所にいるとき、まったく異なる鳴き方をすることに気づいた。決まった種類の木が群生してるところでは、決まった種類の鳥が集まるからだ。そこは古のビザンチン様式の庭園跡だった。それが宝の隠し場所を示す手がかりだったが、王妃の秘密を暴いたことを恐れたプリバッツは懺悔して死に、聴聞僧のイザイヤがそれを書きつけに記した。

一九六八年古教会スラヴ語―フランス語辞書を手にした二人のフランス人がグラダツを訪れ、ベオグラードの日刊紙のひと包みを修道院に集まる人々に売り捌いた。記事には「ロシアの戦車、プラハに侵攻」の文字が躍っていた。会衆が教会を飛び出した隙に、二人はまんまと宝物を掘り出しフランスに持ち帰る。「まったく同じやり方で、同じものを守ることも失うこともあるのです」というヘレナの言葉通りになったというわけだ。

「沼地」は、食べ物にしか興味のない絶世の美女が、世界中を食べ歩くうちに一人の男に出会って結婚し、子どもが生まれるが、その子はもの凄い速さで成長し、七歳の時には白髪頭になって死んでしまう。その悲しみから逃れる術を知らないアマリア・リズニッチは夫と離婚し一人になると、死んだ子そっくりの男を捜して養子にすることを思いつく。ようやく見つけたのは死んだ年の息子そっくりの白髪頭になった元夫だった。

彼女はその事実に気づかぬまま、息子に嫁を取らせ跡継ぎを作ることに夢中になる。元夫は自分が愛しているのは君だけだと言い残し、別れを告げる。彼女は「もの思いに一番似ているのは、痛みだわ」と言いながら、病気を抱え、また各地を旅してまわった。あるとき沼地がその病を癒すと聞いて、その場所「猫の沼地」を探すのだった。もう、お分かりだろう。それこそ、旅暮らしで顧みることのなかった自分の領地だったのだ。

男性版と女性版ではその内容に僅かな違いがある、事典形式で書かれた『ハザール事典』で知られるセルビアの作家、ミロラド・パヴィチ。他に、表と裏の両側から読み進める『風の裏側』、付録のタロット・カードを使って占い形式で読むことのできる『帝都最後の恋』と、これまでに三冊の長篇が邦訳されているが、短篇については今まで邦訳がなかった。これは七つの短篇集から訳者選りすぐりの十六の短篇を収めたアンソロジーである。短いだけに濃縮されたような味わいを詰め込んだ絶品の一品料理の品々。どこから手をつけようがお好み次第。セルビア由来の珍味佳肴をご賞味あれ。

『ヴィネガー・ガール』アン・タイラー 鈴木潤 訳

f:id:abraxasm:20211112002923j:plain

ケイト・バティスタは二十九歳。ボルティモアのジョンズ・ホプキンズ大学で自己免疫疾患の研究に勤しむ父と十六歳の妹の三人暮らし。妹が生まれてすぐ母が死んでからは家事全般を受け持ち、近くのプリスクールで四歳児を担当するアシスタントを務めている。率直な物言いが子どもには人気だが、場の空気を読むことが不得手で、保護者からは苦情が寄せられ、現在は「保護観察中」の身分。次に問題を起こせば、馘首を覚悟しなければならない。

別に教師志望ではなかった。植物学者を夢見て大学に通っていた二年生の時、教授の光合成の説明に文句をつけたことが舌禍を招き、退学処分となる。次年度に復学希望を出す方法もあったが、自分の研究以外のことに無関心な父は、娘が家事を受け持つことの便利さにかまけて、復学希望を出すことを怠った。見かねたシルマ伯母が、自身が理事をしているプリスクールに口をきいてくれたのでそのまま働き続けた。それだけのことだ。

家事は、父ルイスが考えたシステムに則って行われる。毎日の食事のメインは、ミートマッシュと呼ばれる、乾燥豆と青野菜、ジャガイモと肉をペースト状にして裏ごしした、栄養学的には完ぺきなものだ。曜日によって、トルティーヤとサルサでミートマッシュ・ブリト―にしたり、カレー粉を混ぜてカレーにしたりと変化をつけている。洗い物は食洗器。洗濯はたたんだ後、分別するのが面倒だというので、曜日によって誰の洗濯物を洗うか決めている。時間のある時は庭の草木の世話をするのがケイトの唯一の息抜きだ。

物心ついたころから、鬱病を病む母は施設暮らし。ケイトは母親代わりとして幼い妹の世話をし、家の切り盛りをしてきた。学者バカの父は、家のことは長女に頼りきりで、ひたすら研究に打ち込んでいる。家族第一で自分のことは、行き当たりばったりで切り抜けてきたケイトは、失職を目前にして、自分が本当は何がしたいのか、何になりたいのか真剣に考えることもなく、今まで生きてきたことに思い至り、あらためて当惑を覚えるのだった。

よくある話だ。妹のバニーは母親に似て金髪で可愛く男の子にモテる。姉のケイトは長身で色黒、おしゃれには無縁。美容院でのおしゃべりが苦痛で行くのををやめてしまって以来、ウェーブのかかった黒髪を腰まで伸ばし放題にしている。男嫌いではないが、職場に男性アシスタントはアダム一人だけで、彼のことは好きだが、物腰が優しい英文学専攻のアダムのそばにいると、自分のがさつさが気になるというのでは、関係は進展しそうもない。

そんなケイトに結婚話が持ち上がる。相手は父の助手のピョートル。優れた免疫学者だが、三年間の期限付きビザがもうすぐ切れる。父の研究は学内での評価が芳しくなく、助手のビザの更新は覚束ない。しかし、ピョートルなしでは研究は進まない。そこで、形だけでも娘と結婚させ永住権を取得させようと考えたのだ。ケイトに会ったピョートルは、そのじゃじゃ馬ぶりが気に入り、話に乗り気のようだが、婚期に遅れた娘を賞味期限切れの商品みたいに都合よく処分する、父の心ない仕打ちにケイトはいたく傷つく。

そんなケイトの気持ちを知ったピョートルと父はケイトに謝罪する。それがきっかけとなり、それまで話をしたことのなかった父と娘は心を開いて話し合う。母の死の真相や、男手ひとつで娘二人を育ててきた苦労、成果を出すまであと一歩のところでピョートルのビザが切れ、研究が立ちいかなくなったことなど、ケイトの知らないところで、父は苦しんでいた。父の苦境を思いやり、ケイトは関心のなかった結婚に踏み切る決心を固める。

しかし、それではあまり話が都合よすぎるという批判も出てこよう。ちがうのだ。もちろん永住権は喉から手が出るほど欲しい。しかし、ルイスはその学識、能力だけでなく、人間としてピョートルのことが気に入っていて、手放したくないのだ。ふだん手に取ることもない携帯電話を手に、移民局の調査の裏付けとなる証拠写真を撮るために悪戦苦闘したり、娘のご機嫌を取ったり、と何とも健気だ。この父親なら、娘のことも見守ってきたにちがいない、と思わせる。それはケイトにも伝わっている。だからこそ結婚に同意するのだ。

語りなおしシェイクスピア第三弾。元ネタはシェイクスピア早書きの喜劇『じゃじゃ馬ならし』。この話、女性蔑視が色濃く評判が悪い。妹の結婚の邪魔になる姉を、金を積んで結婚させようという父親の魂胆も、その後の賭けをめぐる話もいかにも筋が悪い。アン・タイラーは、金とは無縁の学者を父親に持ってくることでそれをクリアし、ケイトのキャラクターも、原作のエキセントリックな女性から、直言居士ぶりが玉に瑕な、気立てのいい、家族思いの娘にすることで読者の共感を呼ぶことに成功している。

ところが、いざ結婚式の日が来ると、研究室のマウスが盗まれ、データ消滅の危機に襲われ、父と義理の息子は式どころではなくなる。結婚式に至るまで、散々な目に遭わされるケイトという原作由来の筋書きはしっかり受け継ぎ「語りなおし」の名に恥じない仕上がりになっている。シルマ伯母の采配による結婚披露宴は祝祭的な華やぎに満ち、いかにもエリザベス朝演劇世界を彷彿とさせる出来ばえ。もともとは、枠物語の形をとるこの芝居。本作ではエピローグにそれが生かされ、何とも粋な結末になっている。

例によって巻末にオリジナル・ストーリーが付されているが、シェイクスピア原作を謳わなくても、ボルティモアの市井に暮らす一家の結婚をめぐる物語として、巧まざるユーモアに満ちた、しみじみと味わい深い世界を堪能することができる。一人称限定視点で書かれ、読者は知らず知らず、少しくせはあるものの、その言葉にも、行動にも納得がいく、実に生き生きとした女性の心の揺蕩いに一喜一憂しながら、気持のいいエンディングに導かれる。読んでいて心が満たされる極上の小説である。

 

『泥棒はライ麦畑で追いかける』ローレンス・ブロック 田口俊樹 訳

一冊の本が、その人の人生を変えるなんてことがあるだろうか。そんなことはないなんて言えるのは、きっと大人だけだ。十七歳のころだったら、ひょっとしてそういうこともあるのかもしれない。いや、きっとあるにちがいない。だって、本人がそう語っているのだから。本人というのは、副業としてニューヨークで古書店を営む、バーナード・ローデンバー、通称バーニイ。本業は侵入窃盗(burglar)、かいつまんで云えば、泥棒だ。

泥棒探偵バーニイ・シリーズ九作目は、ニューヨークのホテルが舞台。ある有名作家がエージェントに送った手紙を取り返す、というのが盗みに入った目的だ。その作家は自分の実体を知られることを嫌い、隠遁生活を送り続けてきた。ところが、自分宛にきた手紙の所有権を盾に、かつてのエージェントが、私信をサザビーズのオークションにかけることを発表。著作権は作家にあるが、競売のカタログには、その文章が載ることになり、他人の目に触れることは必定だ。

バーニイの店を訪れた女性はアリスといい、自分とその作家、ガリヴァー・フェアボーンとの関係をバーニイに打ち明ける。なんと、十四歳のころから三年間、アリスは作家と同棲していたという。作家とは別れた後も文通していたが、最近になって苦境を知らせてきた。それが先に述べた件だ。ライ・ウィスキーと、バーのはしごで、意気投合した二人はいつものようにメル・トーメを聴きながらベッド・イン。情にほだされた泥棒は、エージェントの暮らすパディントン・ホテルに宿を取り、夜を待って六階にある部屋に忍び込む。

仕事先で殺人事件に遭遇するのがお約束のこのシリーズ。エージェントのアンシア・ランドーはナイフで刺し殺されていた。いくら探しても手紙の束は見当たらない。警察らしい足音が近づくのを聞いたバーニイは、からくもバスルームの窓から脱出し、三階の空き部屋に逃げ込む。箪笥の抽斗に隠されたルビーのネックレスに後ろ髪をひかれながらも、ロビーに降りたバーニイは、先刻、非常階段から廊下に入るところを見られた女に泥棒呼ばわりされ、警察に逮捕される。

知り合いの刑事レイの口利き、それに顔見知りのマーティンが保釈金を払ってくれたこともあって、無事留置場を出られたバーニイは、店に戻る。マーティンが気前よく保釈金を肩代わりした裏には複雑な事情があった。借りができたバーニィは、手紙の他にルビーのネックレスとイヤリングも取り返すことを余儀なくされる。そこへもってきて、フェアボーンの研究家やら、コレクター、サザビーズの関係者が、バーニイが手紙を隠し持っていると見て、多額での買取りを持ち掛ける。

本に関する蘊蓄が主眼で、謎解きは添え物のようなコージー・ミステリ風スタイルが売りのシリーズながら、よく読めば複数の伏線が張られ、きっちり回収されていることが分かる。『泥棒はライ麦畑で追いかける』は、処女作があまりに有名になり過ぎて、好きな小説を気ままに書くことすらできなくなった作家のエピソードを踏まえながら、本格的な謎解きミステリに挑もうとしているところが見どころだ。とはいえ、最後には本を愛するバーニイらしく、爽やかな解決に導くところが何よりの読みどころ。

原題は<The Burglar in the Rye>。これが<The Catcher in the Rye>を意識していないというなら、嘘だろう。世間に自分の姿を見せたくない作家のモデルはあの『ライ麦畑でつかまえて』のJ・D・サリンジャーその人だ。手紙をめぐるエージェントとの裁判沙汰も、未成年の少女との関係も、すべて実話をもとにしている。というか、その実話の方がよほど世間の耳目を引くだろう。その辺のことに興味があるなら、デイヴィッド・シールズ、シェーン・サレルノの『サリンジャー』が詳しい。

すでに語りつくされた感のある、サリンジャーだが、ローレンス・ブロックが、これを書こうとしたのは、そんな古い話をまたぞろ持ち出したかったわけではないだろう。本や作家をネタにしてミステリを書くなら、自分の好きな作家に触れないではいられない。いや、本当にローレンス・ブロックサリンジャーが好きだったかどうかは知らない。ただ、バーニイはどうやら好きだったようだ。

作家というのは、文章を書いてそれを読んでもらうのが仕事。そういう意味では、断簡零墨、どんなメモ書き一つでも値がつくのは仕方がないことかもしれない。しかし、作家にだってプライバシーはある。仕事と関係はあるにせよ、気心の知れたエージェントに書き綴った手紙まで人目にさらさなければならない理由はない。ところが、ここに落とし穴があった。競売のカタログは商品の真贋並びに価値を判断するために内容を示す必要があるからだ。今回の作品のキモはここにある。

さて、殺人事件の謎を解き明かし、みごと奪い返した手紙をバーニイはどう扱ったか。なんと、謎解きに集まった関係者一同の目の前で、そのうちの一枚、紫色の便箋を暖炉にくべてしまう。驚き慌てるコレクターや研究者の狼狽えるのをしり目に、バーニイは、それ以外の手紙は既に暖炉の中にあったと告げる。それで一件落着、と思うだろうが、そうはいかない。燃やしたのはキャロリンが打ったタイプライター練習用の一文だ。

嘘つきは泥棒の始まりというが、バーニイは嘘はつかない。ガリヴァー・フェアボーンの書いた手紙はちゃんと本物もそのコピーも、まだバーニイが手にしていた。彼は、それを欲しがる相手に相当の金額で売り、その書き手(なんと、作家その人が変装して本編に登場しているという極上のサーヴィスが用意されている)にも半分を渡している。それでは元も子もないと思うだろうが、トリックをばらすわけにはいかない。だが、なるほどとうならせるものではある。作家と呼ばれる人種の厄介な自意識というやつが、同じく作家であるローレンス・ブロックの手により、詳らかにされている。その手並をとくとご覧あれ。

『泥棒は図書室で推理する』ローレンス・ブロック 田口俊樹 訳

f:id:abraxasm:20211103175200j:plain

ローレンス・ブロックの名を知ったのは彼の編集した『短篇画廊』がはじまり。続編の『短篇回廊』を読み、その実力のほどを知った。そして、三巻本の『BIBLIO MYSTERIES』の序文で杉江松恋氏が、ローレンス・ブロックの作品として挙げていたのが、本作と『泥棒はライ麦畑で追いかける』の二作だった。チャンドラーがハメットに贈ったサイン本をめぐる話と聞いては、チャンドラー好きとしては放っておくわけにはいかない。

泥棒探偵バーニイは人気があるらしく、これがシリーズ八作目。盗みに入ったところで殺人事件に遭遇し、しかたなく素人探偵として事件の謎を解く、というのがお約束らしい。シリーズ物の常として、マンネリズムは楽しみながらも、過度のマンネリ化を避けるため、一話ずつ趣向を凝らさなくてはならない。今回のそれは、クリスティの『ねずみとり』と『そして誰もいなくなった』を足して二で割る、本格英国ミステリ調の道具立て。そこにレイモンド・チャンドラーをからめようという、何とも凄い力業である。

ニューヨークで本屋を営むバーニイは、イギリスをこよなく愛する恋人のレティスを喜ばせようと、カトルフォード・ハウスに予約を入れていた。そこは、イギリス風のもてなしで有名なカントリー・ハウス風ホテルで、今では本国でも望めないサーヴィスが受けられることで知られていた。ところが、直前になってレティスが結婚することを知ったバーニイは、キャンセルする代わりに、友人のキャロリンを誘う。彼女は、宿賃はおごりだと聞き、同行を承諾する。

実はバーニイには別の狙いがあった。カトルフォード・ハウスには図書室があり、多くの貴重な本が収蔵されている。その中に、チャンドラーがハメットに贈ったサイン本の『大いなる眠り』の初版本があるらしい。もし、ダスト・カバーつきの美本なら二万五千ドルはくだらない代物だ。そんな所に一人で泊まりに行けば、不審に思われるのは必定だが、二人連れなら疑われることもない。そういう算段でキャロリンを誘ったのだ。彼女はレズビアンで、そちらの心配はなく、バーニイが泥棒だということも知っている。この二人の気のおけない会話が実に気が利いていて、楽しい。

ところが、ニューヨークから北に三時間ほど行くと、三月だというのに雪が降りだし、カトルフォード・ハウスに行くには、断崖にかけられた吊り橋を徒歩でゆくしかない。予想通り、泊り客が全員揃ったところで、この吊り橋は切れ落ちる。おまけに雪で電話は通じなくなる。完全なクローズド・サークルの完成である。それから、一人、二人と死者の数は増え、連続殺人の様相を呈することに。やむを得ず、バーニイが素人探偵を買って出る。だが、決定的な証拠がつかめないバーニイは、自分の考えを披歴することをためらい、またもや新たな死者が出る。

雪に降り込められた、英国風カントリーハウスで起きる連続殺人、という見立てである。本屋でもあるバーニイは、いやというほどミステリを読んできている。それで、ついついクリスティ風ミステリに倣い、謎解きを始めるがなかなかうまくいかない。何かがちがうのだ。そこで、彼が思いついたのは、これは、クリスティではなく、チャンドラーなのでは、という考えだ。ポアロミス・マープルのやり方で行くのではなく、フィリップ・マーロウのように行動してみることだ。

まあ、キャロリンもいうようにどこがマーロウ、という感じではあるのだが、真相は究明される。いわゆる謎解きが主体の本格物を好む読者にとっては、少々というか、全くというか、謎解きはかなり物足りない、と思われる。だが、ローレンス・ブロックの泥棒探偵バーニイ・シリーズを楽しみにしている読者には、その辺はまったく問題ない。最後に、とっておきの解説がついている。チャンドラーの読者なら、よく知っている、あの「運転手を殺したのは誰だ」というエピソードである。

『大いなる眠り』が映画化され、脚本の手直しをしているときのことだ。スタッフの一人が登場人物の一人であるお抱え運転手がどうして死んだか知りたいと言い出した。誰も分からないので、作家に聞いてみようということになった。そこで電話したところ、チャンドラーは「わからない」と答えたという、文学史上超有名なエピソードである。キャロリンもいうように、イギリス風の謎解きミステリでは、謎は最後にきちんと解かれるものと決まっている。バーニイが最後に言う。

「現実社会というのは、もっと不確かなもので、わからないことももっといっぱいある。わからないというのは、確かに苛立たしいことではあるけど、だからといって、そのために夜も眠れなくなるというほどのものでもない。だろう?」。これは作者、ローレンス・ブロックによる正統的謎解きミステリに対する批評ではないだろうか。その手の作品の中には、辻褄を合わせるために、かなり無理をした作品が少なくない。そんなことより、もっとミステリを愉しむことだ。本作のケリのつけ方には、フィリップ・マーロウのスタイルが感じられる。本格物のパロディよろしく、面白おかしく洒落のめしながら、そのあたりはきちっとハードボイルドをやっているのだ。憎いね、ローレンス・ブロック

『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』川本直

f:id:abraxasm:20210820114747j:plain

ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』から借りた表題からも分かるように、世に知られた著名人の人生をよく知る語り手が、本当の姿を暴露するというのが主題だ。それでは、ジュリアン・バトラーというのは誰か。アメリカの文学界で、男性の同性愛について初めて書いたのは、ゴア・ヴィダルの『都市と柱』とされているが、ジュリアン・バトラーの『二つの愛』はそれに続く同性愛文学のはしり、とされている。

一九五〇年代のアメリカでは、同性愛について大っぴらに触れることはタブー視されていた。ジュリアン・バトラーのデビュー作も、二十に及ぶアメリカの出版社に拒否され、結局はナボコフの『ロリータ』を出版した、ある種いかがわしい作品を得意にしていたフランスのオリンピア・プレスから出ることになった。アメリカに逆輸入された作品は、批評家たちにポルノグラフィー扱いされ、囂囂たる非難の的となる。

しかし、続いて発表された『空が錯乱する』は、ローマ史に基づいた歴史もので、相変わらず同性愛を扱っているものの、繊細な叙述と実際の見聞によるイタリアの遺跡の描写を評価する向きもあった。ところが、三作目の『ネオサテュリコン』は、ペトロニウスの『サテュリコン』を現代のニューヨークに置き換えて、二人の同性愛者のご乱行を露骨に描いたことで、またもや顰蹙を買うことになった。

その第一章を、裏技を使って雑誌「エスクァイア」に載せたのは、ジュリアンの友人のジョンだったが、それがもとで彼は解雇され、友人の薦めでパリ・レヴュ―誌に引き抜かれ、ジュリアンとともに渡仏する。『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』は、そのジョンが、晩年になって過去を回顧して自分とジュリアンの創作と生活について、世間に知られていない秘密を余すことなく書き綴ったものである。

作品によって作風が異なるのも当たり前のことで、実はジュリアン・バトラーというのは、名前こそジュリアンの名になっているが、その内実は、エラリー・クイーン藤子不二雄と同じ、合作者のペン・ネームだったのだ。二人は、アメリカの上流階級の子弟が進むことで有名なボーディング・スクール(全寮制寄宿学校)、フィリップス・エクセター・アカデミーの同窓生で、寮の部屋をともにしていた仲だ。

演劇祭でジュリアンがサロメ、ジョンが預言者カナーンとして共演したことがきっかけで、交際が始まり、結局ジョンは生涯ジュリアン以外とベッドを共にすることがなかった。デビュー作はジュリアンが書いたものにジョンが手を入れた。ジュリアンは発想や会話は抜群だったが文章力は皆無。一方、内向的な性格のジョンは、部屋にこもって文章を読んだり書いたりするのが好きだった。派手好みのジュリアンは湯水のように金を使う。一緒に暮らし始めた二人は、不本意ながら合作に舵を切る。もっとも、書くのはジョン一人だった。

どこへでも女装で出かけてゆくジュリアンは、華奢だったため、まず男と見破られることはなかったが、アメリカでは変装は罪で、逮捕される危険もあり、二人は渡欧。最後はイタリアのアマルフィ近くのラヴェッロに居を構え、ジョンは日がな執筆を、ジュリアンはカフェで酒を飲んでは興に乗って歌を披露するという暮らしを続ける。トルーマン・カポーティ―やゴア・ヴィダルといった友人がヴィラを訪れては、飲めや歌えの大騒ぎを繰り返す、この時期は二人にとっての酒とバラの日々だった。

十代後半から八十歳代に至るまでの回顧録で、当時のアメリカの作家やアーティストが繰り広げる乱痴気騒ぎを、楽屋話よろしく本編に織り交ぜて語られるので、文学好きにはたまらない。人気者としてちやほやされ皆に愛されるのが大好きなジュリアンは本のことなどそっちのけでひたすら飲んでいるばかり。一方、締め切りに追われるジョンの方は書くことに夢中。相手に対する葛藤もあるが、ヨーロッパ各地を巡っては、料理や酒に舌鼓を打ち、名所旧跡を訪れては、感慨に耽る。この膝栗毛は読んでいて愉しい。

まるで、外国文学の翻訳のような体裁なので、ついうかうかとその気で読んでしまうが、実は根っからのフィクション。ジュリアン・バトラーという作家は存在しない。ジュリアンとジョンの二人は、イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』のチャールスとセヴァスチャンがモデル。二人が楡の木陰で蟠桃を口に含んで白ワインを飲むところに仄めかされている。『ブライヅヘッドふたたび』では、それが栗の花と苺だった。また、ジョンとジュリアンの略歴は作中にも何度も登場するゴア・ヴィダルのそれから採られているようだ。政治家の父を持ち、晩年はラヴェッロでパートナーと暮らすところまで。

しかけはその他にも用意されている。実作者と思わせる日本人がジョンにインタビューしにくるのだが、そのインタビュアーである川本直による「ジュリアン・バトラーを求めて――あとがきに代えて」という文章が末尾に付されていたり、『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』を書いたアンソニー・アンダーソンが、自分で小説を書くのをやめたジョンの変名で、いわば、ひとり芝居だったという詐欺まがいの行為まで含めて、この小説の作品世界は成り立っている。

これが初の小説だというが、実に達者なものだ。引かれ合いながらも全く異なる資質を持つ二人の男が、長い人生を共に暮らす。なにかと窮屈なアメリカを離れ、祖父の資産と小説の印税や、映画化による契約金で、潤沢な生活を送る二人。放蕩生活を楽しむジュリアンが酒に溺れ身を持ち崩してゆくのに比べ、他人との接触を避け、執筆一筋できたジョンが、ジュリアンの死を契機として、人と生きることに目覚めてゆくところなど、翻訳小説風であるからこそ読めるところで、日本の小説だったら嘘臭くなるにちがいない。次はどんな世界を見せてくれるのか楽しみな作家の登場である。