青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『この道の先に、いつもの赤毛』アン・タイラー 小川高義 訳

イカ・モーティマーのような男は、何を考えて生きているのかわからない。一人暮らしで、付き合いが少なく、その日常は石に刻んだように決まりきっている。

これが書き出し。そのあと、彼のルーティンの紹介が続く。毎朝七時十五分からのランニング、十時か十時半になると、車の屋根に<テック・ハーミット>(ハーミットとは隠者のこと)と書かれたマグネット式の表示板をとりつけ、パソコンの面倒を見る仕事に出かける。午後は通路の掃除やゴミ出しなど、管理人を兼ねているアパートの雑用だ。住んでいるのは半地下で細目を開けたような三つの窓から外光が入る。

仕事上で出会う客とのやり取りや、つきあっている女友だちとの関係、女系家族の末弟としての家族上の儀礼的な付き合いをのぞけば、主人公に関わりをもつ人間はいなさそうだ。大学でコンピュータ工学を学んだ後、友人とIT関係の会社を立ち上げる。初めこそうまくいってたものの諸事情により挫折し、今に至る。かといって、くさっているわけでもなく、まあまあ毎日をなんとなくやり過ごしている四十過ぎの男。

派手なところはまったくない。可もなく不可もなし、という中年男の日々が、淡々と描かれる。こういう生き方を歯がゆいと思う人にはまったく向いていない小説である。しかし、成績を上げろ、とせっつく上司もいなければ、仕事もできないくせにいらぬことばかりやってはこちらに尻拭いをさせる部下もいない。よくあるパソコンの問題を解決する仕事もほぼ毎日あるし、管理人としての手当ては雀の涙だが、アパートの店賃は無料だ。共感する読者もいることだろう。

料理もすれば、月曜日はモップ掛け、木曜日はキッチン周りの掃除と曜日を決めて家事全般に手を抜かない。これでは結婚を急ぐ気になれなくても無理はない。過去につきあった女性も何人かいたが、関係が深まるとアラが目につくようになり、それが原因で別れてきた。今つきあっているのは小学校教師のキャスで、彼より少し年下の三十代後半の女性。一緒に夕飯を食べてどちらかの家に泊まる関係だ。彼としてはこれ以上進めようとは思っていない。

ある日、一人の若者が家を訪れる。名前はブリンクといい、マイカの大学時代の恋人だったローナの息子だという。夏休みでもないのに何をしに来たのかという疑問はあるが、一晩泊めてやることにした。ブリンクはマイカが自分の本当の父親ではないか、と尋ねる。義理の父親よりもマイカの方が、ウマが合いそうだとも。しかし、ローナとはそういう関係ではなかった。そうなる前に他の男とキスをしてるところを見て、別れたのだ。

変わり映えのしない毎日に突然亀裂が走る。それも自分の息子を名乗る若者の登場だ。マイカはそれまでの平穏な日々に隙間風のようなものが入り込んできたのを感じる。そんなとき、キャスとの関係にひびが入る。無断で飼っていた猫が原因で部屋を追い出されそうになり、マイカに相談したところ、彼は本気で相手にしなかった。しかも、当てにしていたマイカの家の空き部屋に、先手を打つようにブリンクを泊めたことが、きっかけだった。

前半ののほほんとしたマイカがどことなく肯定的に感じられたとしたら、後半はそれが逆転する。マイカ・モーティマーは、他者との間に距離を置くことで自分を守ってきた。最小限の付き合いだけを許し、それも間に金を介在させることで、互いの関係性にあえて距離を置く。ルーティンを守ると言えば聞こえはいいが、それなくしては生活というものが成り立たないのでやむなくそうしているだけだ。独り居の生活で、何らかの約束事を作らなかったら、自堕落なものになってしまう。それを恐れるからのルーティンだ。

一見自由に思える一人暮らしだが、気力体力十分な間は何とかしのげても、いつかはうまくやっていけなくなる時が来る。同じアパートの住人にもその実例がある。ブリンクの出現で、それまで目にしてはいたが、気にしていなかった自分の将来の姿が見えてくる。散らかりっ放しの姉の家で食事した際、マイカのルーティンはお笑い種にされ、別れ話が出たと聞いた家族はキャスと撚りを戻すよう説得する。実の弟よりキャスの方に価値を認めている。

イカ甲殻類だ。自分というものを硬い殻の中に入れ、他人にはそれに触れさせない。たしかに、そうしていれば自分は傷つかないだろうし、他人との間に距離を保てば相手を傷つけることもない。願ったりかなったりだ。ところが、息子の身を案じてマイカの家を訪ねたローナは、マイカの独りよがりで勝手な決めつけをなじる。キスした相手とは何でもなかったのに、彼は一度こうだと思い込むと、相手の言い分に耳を貸さなかった、と。

必要以上、人との関わりをもたないで長くやってくれば、自己理解は独善的なものとなり、自分を作るうえでの可塑性は失われる。マイカは愛したり愛されたりする人が傍にいない、キャスのいう「つらい心を抱えた人」になりつつあった。ワイルドの「わがままな大男」を思い出させる「小さな男の子」の登場をきっかけに変化が現れる。末尾近くの「おれが間違えたのは、ただ一つ、完璧を期そうとしたことだ」というマイカの心の中の叫びが痛い。

完璧を期す、などというのは人間にできることではない。人間は間違えるものだ。どうしようもなく、何度も間違えては、以前の間違いを認め、修正を重ねては別の方向に舵を取り、少しずつ正しい方角を目指すしかないのだ。原題は<Redhead by the side of the Road>。ここでいう<Redhead>は、実は道端の消火栓のことである。眼が悪くなってきたマイカにはいつもそれが赤毛の人のように見えることをいう。マイカの老化と思い込みの激しさを揶揄するタイトルになっている。表紙カバーのイラストも味があって好い。

 

『無月の譜』松浦寿輝

吹けば飛ぶような、将棋の駒に命を懸けた二人の若者の短すぎた青春を悼む鎮魂曲。一人は棋士を、もう一人は将棋の駒を作る駒師を目指していた。行く道も、時代も異なる二人をつなぐのが将棋の駒だ。鎮魂曲に喩えたが、哀切極まりない曲調ではない。主人公の人柄の良さもあり、人が人を呼び、人と人とのつながりが輪となって大きなうねりを描いてゆく。読後、しみじみよかったなあ、と思わせてくれる、近頃珍しいとても後味のいい小説である。

棋士がタイトル戦に用いるような駒ともなると、なかなか吹けば飛ぶようなものではない。駒の木地となる黄楊は、伊豆の御蔵島産の「島黄楊」と鹿児島産の「薩摩黄楊」が人気を二分する。木の採り方によって虎斑が入ったり、柾目になったりするが、根に近い部分の木地に出る柄は「虎杢」と呼ばれ、とりわけ珍重される。これに印刀で字を彫り、漆を塗る。その彫りと漆の塗り方にも「彫り駒」「彫り埋め駒」「盛り上げ駒」と三種あり「盛り上げ駒」をもって最上とする。

こう書くと、いかにも将棋の駒に詳しいみたいだが、全部この本で知ったことだ。この小説の主題は将棋で、その由来についてもちゃんと書かれている。中でも「駒」に彫られた「書体」が眼目だ。四大書体と呼ばれる「錦旗」「菱湖」「水無瀬」「源兵衛清安」をはじめ様々な書体がある。表題にある「無月(むげつ)」もまた、ある書体の銘である。ところが、それがどんなものかを知ることはできない。見たことのある者の目には、何か霊力でもあるかのように光を放っていたというのだが。

幻の駒の謎を追う探索行を描いた一種のミステリと言えるかもしれない。探偵役を務めるのは、小磯竜介という、もうすぐ五十歳になろうかという中堅会社員。今は将棋に何の関心も示さないが、かつては奨励会で三段まで行ったこともある。残念ながら「満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は退会となる」という年齢制限にひっかかり、プロ棋士への夢を断たれた過去を持つ。

奨励会の年齢制限で挫折し、実人生に戻り損ねた男の話はよく聞く。竜介はウェブ・デザイン関係の会社への就職がすぐに決まり、会社の人間関係がよかったのも幸いし、順調に社会生活に順応していった。しかし、内向的な性格の竜介が珍しく積極的に攻めに出たことがある。奨励会を退会するにあたって師匠に挨拶に行ったとき、「惜しかったな」という言葉と共に餞別としてもらった一組の将棋の駒がすべての発端だった。

就職前の気分転換に信州上田に帰郷した竜介は、応援してくれていた長塚と将棋を指した。そのときに持参した、師匠にもらった駒を誉められ、駒に関する蘊蓄を聞きながら、長塚所有の駒の数々を手にとって眺める機会を得た。それが、勝敗にしか興味がなく、将棋の駒について無関心だった竜介が、駒に魅かれるようになったきっかけだ。長塚は言った。「竜ちゃんは駒が好きなはずだよ。そういう血を引いているんだから」と。

実は、竜介には駒師をしていた大叔父がいた。祖父の弟で他家に養子に行った関岳史だ。終戦の年に外地で戦死しており、竜介が知らなくて当然だ。当時三歳だった父も詳しいことは覚えていない。俄然興味がわいた竜介は、大叔父について調べ始める。伝手を頼り、彼の昔を知る友人、知人を訪ね歩いては、大叔父がどんな人間だったか、彼が彫った駒について何か手がかりがないかを聞いて回る、つまりは探索行である。

人柄がものを言うのか、手がかりの糸が途切れそうになると、どこからともなく次の人が現れては、大叔父の過去を語る。老人の昔話を聞き取るうち、戦時中の人々が嘗めた苦労が尋常ではなかったことが分かってくる。過去は過去としてその後の人生を坦々と生きてきた人もいれば、過去の桎梏から逃れられず、世を拗ねた偏屈な老人になってしまった人物もいる。しかし、そんな偏屈な老人も竜介と将棋を指すうちに、過去の屈託から逃れ、元来の人の好さを取り戻してゆく。

真面目で成績がよく、書も堪能だった岳史は、一人で文学書を読むのが好きな質で友だちは少なかった。ふとした過ちがもとで退学となり、追われるように上田を出た岳史は工場に勤めたが肺を病んだ。その結果、徴兵検査は丙種合格となる。その後、東京に出て駒師の修業を積み、ようやくこれからというところで召集される。そのまま、応召先のシンガポールで戦死し、二度と国に帰ることはなかった。竜介は、そんな大叔父が可哀そうでならない。

しかし、唯一の友人だった同級生が語るのは、いつか今までにない書体で駒を彫る。その書体の銘は「無月」、自分の銘は「玄火」だと決めていたという関の自信に満ちた言葉だ。また、駒師時代の兄弟子だった老人は、「玄火」は既に「無月」の銘を持つ書体の駒を完成していたと語る。素晴らしい出来映えだったが、出征前夜、関がそれまで作った駒を燃やすのを彼は目にする。無事帰国すればまた精進することができる。それがかなわなければ、習作は余人に見られたくないという自信の現れだった。

その後「無月」の駒がシンガポールに残されているかもしれないという話を聞き、竜介は海を渡る。不思議な縁で「無月」の駒は人から人へとめぐりめぐって、様々な人々と竜介との出会いを仲介する。将棋から目を逸らしていた時期、竜介の心の内奥には挫折感から来る鬱屈が残っていた。それが「無月」の駒を探す旅で人と出会い、出征兵士の気持ちに触れたり、かつての敵国人同士、英語で話し合ったりするうちに、いつの間にか、心の中にあったしこりがほぐれていった。竜介は師匠の思い出の残る駒を盤上に並べながら、来し方を振り返り、行末を思う。

「無月」というのは「曇ったり、雨が降ったりしていて月が見えないこと」をいう。特に中秋の名月に使われる。そこにあって当然と考えられるものが無いことからくる、ちょっとひねった感じが俳味となり、秋の季語になっている。主人公は、見えない月を追いかけた。それは将棋の駒であり、竜介の奨励会時代であり、岳史の短い人生でもある。一度はその目でたしかに目にしたが、今はもう見ることはない。しかし、そこにあることは知っている。見えてはいないが、それはそこにある。自分はそれを知っている。それでいいではないか。「無月」、なかなか含蓄のある言葉だ。

 

『ハムネット』マギー・オファーレル 小竹由美子訳

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髪を飾る花冠のために野に咲く草花を摘みに行く話といい、双子の兄妹の入れ替わりといい、魔女の予言によって夫の出世を知った女が、夫をその気にさせ、いざ事が成就した暁にその報いをうける運命の皮肉といい、人に知られた悲劇、喜劇を換骨奪胎して一つに縒り合わせ、マギー・オファーレルは一篇の小説に仕立て直した。これはある「比類ない人」に捧げる一篇の叙事詩なのかもしれない。

多国間を旅する商船のキャビンボーイが、寄港したアレクサンドリアの港で猿使いの猿から一匹のノミをうつされる。やがて、それは船で飼われている猫に、船の中のネズミにと宿主を変えていき、多くの死者を出しながら、船は各国の港に停泊する。船員たちが「アフリカ熱」と呼ぶそれは、死に至る症状のせいで「黒死病」とも呼ばれる「腺ペスト」のことだ。今に変わらず、当時も世界はパンデミックに見舞われていた。

そんな時代のイングランドの話。ロンドンから馬で何日もかかるウォリックシャーはストラトフォードで手袋商を営む一家がいた。十八歳になる長男はグラマースクールも出てラテン語に熟達しているが、手袋を作ったり売ったりすることに興味が持てず、屋根裏部屋で本を読んだり、何かを書いたりしていた。当然、父親はそんな息子のことが気に入らず、何かといえば癇癪をおこして手を上げるので、二人の仲は険悪だった。

ある日、父親が借金の肩代わりに息子に家庭教師をさせる約束を取り付けてくる。仕方なく出かけた農場で、ラテン語教師は農場の娘に出会う。アグネスは先妻の子で、継母は自分になつかない長女を嫌っていた。腕に鷹を止まらせた長身の娘のことは、町で噂になっていた。人の皮膚をつまんで過去や未来を読み、薬草で病気を治すことができる娘を、人々は頼りにしながらも恐れ、中には魔女と呼んだり、頭がおかしいと言ったりする者さえいた。

二人は結ばれ、結婚の約束をするが、一つ問題があった。アグネスには父の遺産があり、八つも年下の手袋商の息子との結婚を継母が認めるはずがなかった。しかし、アグネスが妊娠したことで問題は解決。若夫婦は手袋商の家の離れで暮らすようになる。てきぱきと家事をこなすだけでなく、下働きの者たちへの指示も的確で、手袋商の家は見ちがえたようになる。やがて、二人の間に子が生まれる。ハムネットとジュディスという双子の兄妹だ。

二人はすくすく育つが、その父親は祖父との間にある軋轢で自分を見失っていた。夫の体から嫌な臭いがしてきたことで、アグネスもその危機的状態を知る。夫の皮膚と肉をつまんだときから、彼女には彼が大きな世界に出て行く人だと分かっていた。そのためには夫はこの家を出てロンドンに行く必要がある。アグネスは実の弟の助けを借りて、祖父をその気にさせることに成功する。

この小説は、幼いハムネットが医者を呼びにいくところから始まる。妹が熱を出したのに家に大人がいないのだ。小説や戯曲に主人公の名をつけるのはよくあることだが、ハムネットは主人公ではない。ただ、彼の存在が小説の核となっている。ハムネットが語る現在の物語に彼の誕生以前、両親の出会いから結婚に至るまでの過去の物語が、カットバックで挿入される。場面が変わるたびに、ハムネット、父、母、姉、と視点はくるくる入れ替わる。

張られていた伏線が一気に回収される。ジュディスの病気は腺ペストだった。アグネスと義母の必死の介抱の甲斐あってジュディスは奇跡的に助かるが、それで済むはずがなかった。ジュディスの看病にかかりきりだったアグネスたちの目をすり抜け、病魔はハムネットに襲いかかる。服を交換した二人が入れ替わって家族をからかうのはハムネットが考えた遊びだった。ハムネットは死神の目をごまかそうと妹の服を着て妹のベッドで寝たのだ。

息子が母を探し回っていた時、アグネスは蜜蜂の様子を見に実家の農場に帰っていた。蜜蜂の世話をし、ついでに野に咲く草花を集めている間、ハムネットは一人で妹を助けようと必死だった。「どこへ行ってたのさ」と母を責めるハムネットの声が耳に蘇る。こんな大事な時に、父親をロンドンに行かせたのも私だ。人の未来を読めるはずの自分が大きな過ちを犯してしまった、という思いがアグネスを追いつめる。なまじ、人の未来が読め、病気を治す力が自分にあることが悔やまれてならない。

そんな時、夫の劇団の新作が『ハムレット』と知ったアグネスは夫の真意を考えあぐね、ロンドンに駆けつける。アグネスにはモデルがいる。ヨーマンの娘で名前はアン・ハサウェイ。有名な夫の陰になって割を食っている感がある。文豪の作品を現代風に書き直すのが流行りだが、これも「語り直し」の一種。同じ事実を扱いながら、視点を中心人物から周辺人物に変えることで、見慣れた図柄に全く異なる角度から光が当たり、煤や脂をかぶっていた絵が、今描かれたばかりのように新鮮に立ち現れる。

アントニイ・バージェスも自著の中で、アンについて触れているが、若い男を手玉に取り、妊娠の事実を突きつけ、結婚にこぎつけた婚期を逸した女という従来の解釈から逃れられない。マギー・オファーレルは、アンを手垢のついた女性像から解き放ち、野性的で才知溢れる魅力的な女性にした。どこであれ人目を気にせず草花や小動物と戯れるアグネスのなんと輝いていることか。目に見えるような自然描写や、胸に迫る人物の心理描写が、まるではじめから日本語で書かれたかのように読めることを訳者に感謝したい。

 

『シルバービュー荘にて』 ジョン・ル・カレ 加賀山卓朗訳

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冷戦が終わったとき、これでスパイ小説も終わった、とよく言われた。米英を中心とする資本主義諸国と旧ソ連を盟主とする共産主義諸国がイデオロギーの対立を掲げ、角突き合わせていたからこそ、米英ソの諜報合戦は関心を集めた。冷戦が終われば、スパイは仕事がなくなるだろうと皆が思ったのだ。当然、そんなことはなかった。ル・カレはその後もスパイ小説を書き続けた。ただ、重心の置き方は変わった。

英国情報部はオックスブリッジで部員をリクルートする。パブリック・スクール出身者が多く、家族や交友関係、本人の思想信条について調査するまでもないからだ。彼らは生え抜きであり、組織の頭、中枢になる人材である。代々諜報活動に従事する一家も多く、身内には国政に携わる者も多くいる家柄で、イギリスのために働くことに疑問を持つことはない。

頭だけでは仕事にならない。手足となって働く部員が必要だ。関係諸国の言語に通じ、内部事情に詳しい人員だ。そういう連中の中には、金のために自分の祖国を売る者もいるし、秘密を握られ、仕方なく手を貸す者もいる。だが、自分の思想信条のために自ら進んで渦中に飛び込む者もいる。この手の人間は熱意があり、よく働くが、自分というものを持っているので、ときにはそれが仇をなすこともある。

国家と個人が同じ夢を見ている間はいいが、同床異夢を見出すと厄介だ。人体に喩えるなら、組織の中で他と異なる動きをする細胞は癌だ。早急に切除しなければ命取りになる。そこで、今までは同胞だった者が敵に回る。一人の主人公を中心に話が展開するのではなく、立場を異にする複数の人物が登場し、多視点で語られる。それに応じて時間が前後することもあり、展開が読みにくい。最近のル・カレの特徴だ。

英国に限ったことではないが、肥大化した組織は機能不全を起こす。劣化した組織は疲弊し、情報は停滞し、問題が起こればどこも責任逃れに躍起になる。中枢がそんな状態では末端に混乱が生じるのは必至だ。それが原因で多くの人命を失うことになっても、組織は自分を疑うことはしない。過ちを正視し、誤りを正してこそ死者も浮かばれるのに、決してそうはしない。そんな組織に命を預ける値打ちがあるのか、という問いが生まれる。

『シルバービュー荘にて』は、ル・カレの遺作である。最後まで作品の質を落とさなかったル・カレらしい、上出来のスパイ小説である。イースト・アングリアの海沿いにある小さな町で書店を経営する三十三歳のジュリアンが主人公。父のせいで苦労しているのに、良識があり、正直でぶれることがない。ル・カレが最後に自分の小説を託すに足る人物だ。人を疑うことを知らない書店主が、国家を揺るがす一大機密漏洩事件に巻き込まれる。

大物の女性スパイから、情報部内の内部調査に携わる人物に極秘連絡が入る。機密が漏れているというのだ。事実だとすれば大問題だ。内密に調査を進めるうちに情報漏洩犯の素顔が次第に明らかになる。女スパイの夫はポーランド人。戦時中にユダヤ系の同胞をナチスに売った父を恥じ、ファシストと闘うことに人生を賭けてきた男だ。しかし、組織が彼の情報を軽視したことで、友人が死亡。彼は組織と自分の信条との間で板挟みにされた。

調査の結果、小さな町の中で行われていたスパイ活動が判明する。人は死なない。けが人も出ない。表面上は、町の商店内に置かれたコンピュータで骨董の売り買いをしたり、大量の本を発注したりする、ただそれだけの面白くも何ともない事件である。ところが、驚いたことにそれが英国情報部の検閲をすり抜けてしまっていたから、さあ大変。情報部はおろか、国家の上層部が上を下への大騒ぎになる。

これが、ジョン・ル・カレの遺作だと思うと、いささか感慨深いものがある。というのも、これはいわくつきの父親を持ったせいで、人生のスタート時点で転んでしまった男の物語だからだ。知っての通り、ル・カレの父親は有名な詐欺師で、彼は生涯それに翻弄され続けた。詐欺師とスパイは凄腕の人たらしであることが似ている。人に好かれようとして嘘をつくことに慣れると、人は自分を見失い、相手に合わせて自分を拵える。その結果、アイデンティティを失ってしまうのだ。

『パーフェクト・スパイ』の主人公がそうだった。いい小説だったが、読んでいて辛かった。作家と父親の関係がそのまま反映されているからだ。『シルバービュー荘にて』はちがう。作品に自嘲の苦さがないし、目が過去でなく未来を向いている。ジュリアンとその恋人でスパイ夫婦の娘リリーのアイデンティティ微塵も揺るがない。とんでもない父親ではあったが、二人の父親は組織と袂を分かっても、自分の信条は捨てなかった。これは、作家ル・カレから、かつてその身を置いた「組織」への別れの挨拶なのかもしれない。

『ユドルフォ城の怪奇』上・下 アン・ラドクリフ 三馬志伸 訳

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《上・下巻合わせての評です》

待つこと久しというが、これほど長く待たされると、待っていたことさえ忘れてしまう。本棚から手持ちの本を取り出して奥付を調べてみた。平井呈一訳の思潮社版『おとらんと城綺譚』が出たのが一九七二年、矢野目源一訳の牧神社版『ヴァテック』が七四年、国書刊行会版世界幻想文学大系『マンク』上巻が八一年だから、ゴシック・ロマンスを語る上で欠くことのできない『ユードルフォの怪』は、ほぼ半世紀遅れの本邦初訳である。

しかし他のゴシック小説が次々と訳出されたのに、どうしてこの作品だけがこうまで遅れたのだろうか。上下巻ともに五百ページを超える長さもあるが、作者のアン・ラドクリフに、ストロベリー・ヒル・ハウスを建てたウォルポールや、フォントヒル・アビーを建てたベックフォードのような人目を引く逸話がなく、話題性に乏しかったせいかもしれない。真相はともかく、ようやく日本語で読めるようになったのは何よりだ。

時は一五八四年、舞台はフランス。貴族の分家の末裔であったサントベールは煩わしいパリを離れ、ガスコーニュの別荘で妻と娘エミリーとの暮らしを愉しんでいた。ところが、熱病が夫妻を襲い、妻に先立たれたサントベールも転地療養の旅の途上、息を引き取る。この小説は、孤児となったエミリーが、叔母のもとに身を寄せたことを契機に、次から次へと降りかかる苦難と恐怖に見舞われるさまを描く、今風にいうならサスペンス・スリラーである。

ゴシック小説といえば「陰惨な城や僧院を舞台に、殺戮と凌辱と魔薬が横行し、死骸と幽霊が出没する恐怖と暗黒の世界(私市保彦著『幻想物語の文法』)」が定番だが、本作もまた、その紋切り型を踏襲する。主な舞台となるのは、イタリアのアペニン山中に立つユドルフォ城とフランス南部ラングドックにあるルブラン城。長く捨て置かれ、荒れ寂れた二つの城には、一方は女主(あるじ)の失踪、他方には奥方の変死、という事件があり、様々な噂が飛び交い、果ては幽霊を見たという者が続出する。

エミリーが、ユドルフォ城に行く破目になったのは、父が娘の後見人を叔母のマダム・シェロンと決めたせいだ。この叔母は道心堅固な父と違って俗物で、姪を自分の社交界での地歩を固めるための道具くらいにしか考えていない。勝手に結婚話を進めておきながら、モントーニが資産目当てで結婚を迫ると即座に承諾し、嫌がる姪を引き連れて夫の故郷のイタリアに旅立つ始末。遠縁の女主の謎の失踪により、モントーニの手に渡ったのが、峻険な山中に聳え立つゴシック様式のユドルフォ城である。

当時、英国ではピクチャレスクという美的概念が流行していた。いうなれば、風景美の理想であり、由良君美によれば「とにかく自然の風景美を描くのだが、その自然のなかに、ある峨峨たるもの、不均衡なもの、とりわけ岩や廃墟を不可欠の点景とすることによって美観を高めたもの(略)こう薄茜(うすあかね)の夕空のなかに遥かな寺院や廃墟が消え消えに取り囲まれていますね(『椿説泰西浪漫派文学談義』)」といった風景を指している。

ラドクリフは、ピクチャレスクの美に強い影響を受け、この小説を書いたにちがいない。というのも、父とともにピレネーを越えてラングドック地方に行く途中、あるいは叔母とともにユドルフォ城への山道を辿る途上で、エミリーはイタリア人画家、サルヴァトール・ローザが描く絵そのままの景観を目にすることになるからだ。まあ、全篇がピクチャレスクな風景を描くためにエミリーに旅をさせているようなもので、その合間に善人と悪人の互いの思惑をかけた相剋が書かれているといっていい。

今のミステリを読み慣れている読者には、長々と続く情景描写がくどく感じられるかもしれない。しかし、それだけの長さを担保することで、主人公だけでなく、彼女をいたぶる叔母やモント―ニのような敵役をただの薄っぺらな悪人ではなく、立体的な陰翳を持った人間として描くことに成功している。どちらかといえば、上から目線が気になるサントベールや思慮の足りない恋人のヴァランクールより、欲に目がくらんで破滅する、人間らしい敵役の方が魅力的に思えるほどだ。

ゴシック小説の代表作だが、幽霊譚の恐怖を期待すると裏切られる。エミリーは知性と教養を身に着け、詩や絵も得意で、リュートも弾けば歌も歌う。父の薫陶を受け、どんな状態にあっても自分を見失うことがない。感受性が強過ぎて、時には影に怯えることもあるが、すぐにもとの自分に立ち返る。お付きのアネットのように簡単に幽霊を信じたりしない。不可思議な現象が起きれば、自分の目や耳で確かめようとする。

ただし、謎は早くから提示されるが、その秘密は時が至るまで明らかにされない。謎は複雑に絡み合った宿命的な奇縁の中にあり、年若いエミリーの手には負えないからだ。最後の最後になり、それまで周到に配置されていた伏線が回収されて初めて、なるほどそうであったかとうならされる。二つの城の怪異、父が隠し持っていた母ではない女性を描いた細密画の秘密等々が明らかにされると、それまでもやもやしていた視界が一気に晴れる。

途中で放り出さずに最後まで読めば『ユドルフォ城の怪奇』が極上の謎解きミステリだと分かるはず。ただ、これほどの作品が、なぜ今まで訳出されなかったのかという謎は残る。もしかしたら、私市保彦のいう「特に、最後に奇怪な事件の合理的な種明かしがかならずなされるアン・ラドクリッフの技法は。まさに探偵小説の祖といってよい」という評にあるように「合理的な種明かし」が、当時の幻想怪奇文学ブームにそぐわなかったのではないだろうか。海外ミステリの人気が高い今だからこそ日の目を見たのかもしれない。

 

『リカルド・レイスの死の年』ジョゼ・サラマーゴ 岡村多希子 訳

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存在したこともない人についてこんなふうに語るのはばかげていると言われたら、僕は答える。リスボンや、書いているこの僕や、その他どんなものも、どこかしらにかつて存在していたことを証明できるわけではない、と。――フェルナンド・ぺソア

ポルトガルを代表する詩人カモンイスの詩句「ここで大地は終わり、海がはじまる」を逆説的に言い換えた冒頭の一文「ここで海が終わり、陸がはじまる」から、懐かしい映画を見ているようなサウダージの気分が辺りに満ち溢れる。黒っぽい船が雨にけぶるテージョ川を上ってゆく。大西洋横断用の船だ。十六年の時を経て、旅人はポルトガルに帰ってきた。

川沿いのブラガンサ・ホテル、川の見える二〇一号室に宿を取った旅人は宿帳を書く。名前はリカルド・レイス、年齢四十八歳、ポルトガル生まれ、独身、職業は医者、最後の住所はブラジル、リオデジャネイロ。これで、旅人の出自が知れた。古典主義的で牧歌的なホラティウス風のオードを得意とする詩人、リカルド・レイスは君主制を支持していたため、ポルトガルが共和制宣言をした一九一九年、自らブラジルへ亡命した。

それでは、帰ってきたのだ。いったい何のために? 翌朝、レイスはバイロ・アルトにある新聞社を訪れ、フェルナンド・ぺソアの死と葬儀についての記事を読む。ペソアは土曜日に死に、昨日埋葬されていた。記事には、詩の中で、彼は単に彼、フェルナンド・ぺソアだけではなく、アルヴァロ・デ・カンポス、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイスでもあった、と書かれている。レイスは、誤報だと口走る。自分はここにいるではないか、と。

少々説明が必要になるだろう。フェルナンド・ぺソアにはその名ばかりではなく「異名者」と呼ばれる、異なる様式を持つ詩人が複数同居している。リカルド・レイスはその一人だ。サラマーゴは、ぺソアの作り出した異名者の一人であるリカルド・レイスを自分の小説の主人公に起用し、しかも、死んだペソアを幽霊にして、二人に繰り返し対話させている。何を思って、そんなことをしたのだろうか? ここは本人に語ってもらおう。

「レイスの詩に深く感動し、手放しの感嘆と賛美を捧げていました。しかし、また一方では、これほどの人がどうして世の中で起こる問題に対して無関心でいられるのか、これほどの知識と感受性と知恵とを備えた人間が、どうして真の智恵とは世界のできごとに満足することだなどと考えることができるのか、という反感にも似た感情や理解に苦しむ気持を抑えることができなかった(「解説にかえて」より)」

『リカルド・レイスの死の年』は、この問題を解決するために書かれた。では、サラマーゴの考えるレイスはどんな人間か。金に不自由しない中産階級で、ホテル暮らしを続けているが、特にこれといって何もしない。友人もおらず、あてどなくリスボンの街路をさまよい歩き、カモンイスの銅像のある広場のベンチで新聞を読み、鳩や人々を見ているだけだ。ホテルのメードのリディアと関係を持ち、子までなしながら、彼女の私生活には無関心だ。

そんなレイスが、ある日国家保安防衛警察に呼びだされる。警察は突然の帰国に疑惑を抱いたのだ。それだけでなく、いつもタマネギの臭いをさせている見張りまでつく。煩わしくなったレイスはホテルを出て下宿暮らしを始める。一時的に医師の代診もするが、本業にする気はない。詩を書くことはやめておらず、折に触れて思ったことは書き留めている。リディアとの関係は続けながら、別の女性にも関心を寄せるなど、いい気なものである。

というのも、「解説にかえて」にもあるように、一九三〇年代のポルトガルでは、新聞の事前検閲、秘密警察など、ファシズムの抑圧装置が常に働いており、人々は押しつぶされそうになりながら展望のない暗い日々を送っていた。三六年にはスペイン内戦が勃発、ドイツはラインラントに侵駐し、イタリアはエチオピア侵攻を続け、フランスには人民戦線が成立する。三年後、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する、そんな時代だったのだ。

ホテルの食堂にはスペインから逃げてきた客、街頭では配られる食料に群がる人びと、新聞の記事からでも、自国の置かれている状況がレイスには理解できたはず。ところが、彼はただそれを傍観者として見ているだけだ。世界のできごとに満足しているのか、彼の関心は情事と恋愛のまねごと、そして実体のないペソアとの形而上学的対話にしかない。こういうと、批判しているように思われるかもしれないが、そうではない。

エピグラフの一つに「行動しないやり方を選ぶことが、僕が人生でつねに心がけ配慮したことであった」とあるように、リディアとの房事を別にすれば、レイスはいかにもフェルナンド・ぺソアらしい。サラマーゴはいざ知らず『不安の書』の愛読者としては、レイスにはこうあってほしい。リスボンの街の通りを歩き、坂を上り、展望台に出ては風景を眺める。レイスはまるでペソアのテクストに足が生えて歩き出しでもしたかのようだ。

ペソアの幽霊は、レイスが見ようとしない現実を映す鏡の働きをしているが、ペソアにしてはいやに国際情勢を気にしている。まるで作家がペソアに乗り移り、レイスに喚起を促しているようだ。レイスは対話を通し、次第に自分のいる現実の世界に気づき始めるが、少々遅すぎた。ペソアの言うには、人は死んでから本当に死ぬまで数カ月の余裕がある。彼はその時間を使って、友が悔いのない残りの人生を送れるように働きかけていたのだ。

別れを述べるペソアに、レイスが自分も一緒に行くという。本を手にしたレイスにペソアが言う。「その本は何のためなんだ、時間があったのに、どうしても読み終えることができなかったからだ、時間はないだろうよ、いくらでも時間はあるさ、君は思い違いをしている。読むというのがいちばん最初に失われる能力なのだ、覚えているかい。リカルド・レイスは本を開ける、何が何だかわからない記号、黒い走り書きの痕、よごれた頁が見える」

人は生きている時、自分は死んでいないと思っている。だが、死んだペソアに言わせれば「死と生は同じものだ」。死と生は並走している。自分が死んでいることに気づいてからでは遅いのだ。ペソアは、ポルトガルの人はかわいそうだ、と涙を流すが、当時のポルトガルに限った話ではない。今の日本でも同じだ。人は、もう本を読めなくなっている。よくよく見れば、われわれの目の前にあるのは「何が何だかわからない記号、黒い走り書きの痕、よごれた頁」ではないだろうか。

『修道院回想録』ジョゼ・サラマーゴ 谷口伊兵衛/ジョバンニ・ピアッザ訳

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一七一三年、ポルトガルジョアン五世は、首都リスボンの西、マフラの地に宮殿、修道院、大聖堂からなる壮大な伽藍を建設しはじめる。事の始まりは、修道院を建てれば世継ぎが生まれるという、一フランシスコ会士の言葉だった。予言通り王妃が懐妊すると、王は約束を果たすため、五万人という人員と、巨額の建設費を注ぎ込んで大事業に乗り出す。

はじめは小規模な修道院を寄進するはずだったが、サン・ピエトロ大聖堂のレプリカを所持していた王は、イタリア人技師に、サン・ピエトロ級の規模にするよう命じる。ピラミッド建設が一大公共事業だったことは衆知の事実。ことはマフラでも同じで、大工や石工として大勢の職人が働く場を得たが、それと同時に死者の数は千三百人にも及んだ。一七三〇年には王自らが参列し大聖堂の献堂式が荘厳に挙行される。小説が扱うのはその頃のことだ。

七太陽という異名を持つバルタザル・マテウスは、マフラ生まれの軍人。戦争で左手首から先を失い、軍を解雇されて帰郷の途に就く。バルタザルは、旅の途中リスボンに立ち寄り、ロッシオで行われる公開処刑を見物した。火刑は闘牛とともに庶民の娯楽であった。彼はそこで、終生の伴侶となるブリムンダ、それに、仕事の依頼者となる、バルトロメウ・ローレンソ神父と出会う。この後、三人は三位一体となり秘密の仕事に取り掛かることになる。

ブリムンダはユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人の血を引く。宗教裁判で多くの人々が異端や魔女であるとされ、火炙りや磔、鞭打ち、追放の刑に処せられていた時代。ユダヤ教イスラム教信者は、特に目をつけられていた。ブリムンダは、幻視や啓示を大っぴらに語った罪で、鞭打ちの後、八年間アンゴラ公国に追放される母親を見送りに来ていた。実はブリムンダにも人体や地中を透視する秘められた力があった。

バルトロメウ・ローレンソ神父は実在の人物。ブラジルはバイヤのベレン神学校で僧職を学び、一七〇八年にポルトガルに移住。一七〇九年にジョアン五世に飛行機械を発明したことを報告、サン・ジョルジェ城の丘から軽飛行機を飛ばし「飛ぶ人」と呼ばれた。モンゴルフィエ兄弟がフランスで飛行実験をする七十五年も前のことだ。バルタザルとブリムンダは、神父の飛行機械の製作とテストに協力し、偉業を成し遂げることになるはずだった。

バルトロメウ・ローレンソ神父の大鳥(パッサローラ)の話は史実だが、それが空を飛ぶ仕組みは、サラマーゴの創作だ。ローレンソの理論では、空を飛ぶためにはエーテルを貯える必要がある。エーテルとは人間の「意欲」だという。魂は死んでから体を離れるが、意欲は生きている内に抜け出るもので、体の中が透視できるブリムンダなら、暗い雲のように見える意欲を集めることができるのだ。ブリムンダに渡されたガラス容器にはエーテルを引き寄せるための琥珀が入れてあった。空を飛ぶためには二千人分の意欲が必要だった。

バルタザルにはパッサローラを組み立てる仕事が待っていた。彼には失くした手首の代わりとなる金属と革で作られた留め金があった。それを使って、板材や籐の細枝、帆布、鉄や銅のコイルで大鳥を組み立てるのだ。材料は王から神父が借り受けた公爵の領地内にある馬車小屋の中に集められていた。三人はそこに泊まりこんで機械を作り始める。その間、マフラでは大聖堂建設が進行中。だが、人力と牛だけが頼りでは礎石となる大きな石を運ぶのも大変で、死者は数知れず、バルタザルの家族からも死者が出る。

サラマーゴの語りは、飛行機械と大聖堂の話を主題としながらも、謝肉祭の賑わいを長々と披歴したり、王の行列の賑々しい様を描写したり、神学論議を交わしたりと逸脱を繰り返し、一筋縄ではいかない。そんな中に当時音楽教師として王に雇われていたドメニコ・スカルラッティが登場する。スカルラッティは宮殿でローレンソと知り合い、大鳥作りの秘密を知る四人目の仲間となる。彼は、死に瀕している大勢の黒死病患者から意欲を集めに行ったせいで衰弱したブリムンダの病を癒すために何時間もハープシコードを弾いてくれる。

当時、人が空を飛ぶというのは魔術に類する技であり、いくら王の庇護があったとしても宗教裁判にかけられる惧れがあった。自分の身に嫌疑がかかったことを知ったローレンソは慌てて飛行機械を隠してある小屋に戻り、それに乗って逃げようとする。つかまれば、二人も同罪である。三人はパッサローラに飛び乗るとガラス瓶にかけてあった覆いを剥がす。するとエーテルは日を浴び、たちまち大鳥は羽ばたき、空に舞い上がる。この空を飛ぶ大鳥からの俯瞰の視線で描かれるリスボン風景が圧巻。

しかし、日が暮れかかると大鳥は降下し始める。バルタザルとブリムンダが何処とも知れない丘陵に機械を着地させると、神父は頭を抱えて走って逃げだす。二人がマフラに戻った時、修道院を建設中の職人たちは、空の高みを飛ぶ精霊の姿を目にした話でもちきりだった。神父の行方は杳として知れず、バルタザルが時々修理も兼ねて様子を見に行くのだが、大鳥は周りを蔽う草木に紛れ、朽ち果てていくようだった。そんなある日、機械を見に行ったバルタザルが帰ってこなかった。ブリムンダは夫を尋ね、国中を巡る旅に出る。

複数の史実を生かしつつ、実在の人物と架空の人物を絡ませることで、宗教裁判と黒死病、大聖堂建設という国家的規模の厄災に見舞われた当時の人々の姿を剔抉し、それにもめげず愛を貫き通す一組の男女の姿を描くことで、ポルトガル一国の歴史を超え、蒙昧の歴史の闇に飲み込まれまいとする、人の叡智と行動の尊さを、独特の語りで生き生きと描く。全知の話者の語りに身をゆだねる心地よさを一度でも知ってしまうと、その世界から抜け出るのが苦痛で、いつまででも何度でも読んでいたくなる。ジョゼ・サラマーゴは、誰にも真似のできない世界を創出することができる、数少ない作家の一人である。