青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ナボコフ 訳すのは「私」』 秋草俊一郎

ナボコフ 訳すのは「私」―自己翻訳がひらくテクスト
外国語で書かれた小説が好きだから、翻訳という仕事にはふだんから世話になっている。もし、翻訳家という人たちがいなかったら、文学の世界は語学に堪能な一部の人をのぞき、ずいぶん狭いものになっていたにちがいない。しかし、その一方で、他国語に翻訳された作品はオリジナルと比べた場合、どこまで本物に近いのだろうか、という素朴な疑問が頭から離れない。

一度発表されてしまえば、作品は作者の手を離れて独り歩きを始める。現実問題として、どんなふうに訳されてしまっても作者が死んでしまえば文句は言えない。紫式部はアーサー・ウェイリーの訳した『源氏物語』の存在はおろか、英国という国もイギリス人も知らないのだ。

ここに自国語だけでなく何種類もの外国語を自在に操り、自分の文章に並々ならぬこだわりを持つ小説家がいるとしよう。果たして彼は自身が苦労して書いた小説が、無惨なまでに変貌した姿をさらして他国語に訳されているのを座視できるだろうか。問うも愚かなこと、黙っていられるはずがない。では、どうするか。もちろん自分の作品を自分で翻訳するにちがいない。いわゆる自己翻訳である。

先に挙げた小説家とは『ロリータ』の作者として知られるウラジーミル・ナボコフ。有能な政治家であったロシア貴族の長男として生まれた彼は、当時のロシア貴族のたしなみとして小さい頃からフランス語の教育を受けて育つ。ところが、革命勃発により国を追われ、一家はドイツに移住する。ベルリンの亡命ロシア人社会の中でシーリンという筆名で小説や詩を発表するようになるが、ナチスが台頭してくると難を避けてアメリカに移住。それ以降の作品は、英語で書かれることになる。

著者は、沼野充義柴田元幸若島正の三氏に師事しているというから畏れ入る。東欧文学研究家として著名な沼野充義氏はナボコフの『賜物』の訳者でもあるし、英文学者でナボコフ研究者として知られる若島正氏は『ロリータ』や『ディフェンス』の訳者である。柴田元幸氏については多言を要しない。ナボコフを語るにこれ以上のキャリアはないというべきか。東京大学総長賞をはじめ幾つかの賞をとった博士論文を改稿したものだが、さほど論文臭は強くなく面白く読める。

ナボコフについては、作品内に謎を仕込んだり、アクロスティックアナグラムを多用したりする作家というイメージが強い。著者は、従来のそうした解釈が英語で書かれた後期ナボコフの作品を中心に採り上げざるを得なかった英文学者の影響を受けているのではないかと指摘する。ナボコフ自身は、ロシア語に対する並々ならぬ愛を語っているし、自分の英語は二流であるということも漏らしている。

著者が着目したのは、他人の訳を嫌がったナボコフが自身のロシア語作品を英訳した文章と、英語で書かれた『ロリータ』等のナボコフ訳のロシア版を読み比べ、ロシア語で書かれたナボコフと英語で書かれたナボコフを比較するという試みである。

どの国の言葉でもそうだろうが、言葉の背後にはその国ならではの文物がついて回る。早い話が現代の日本で「花」と言えば「桜」を思い浮かべる人が多いだろうが、中国文学の影響下にあったかつての日本で「花」と言えば「梅」であった。ナボコフも、ロシア文学によく登場する「チェリョームハ」(エゾノウワミズザクラ)の訳をめぐって、何度も訳語を変更している。ロシア語の「チェリョームハ」には河畔のハンノキに交じって咲くその花の姿や香りから青春の詩的な感動が伝わってくる。だが、英語の訳語「バード・チェリー」は、漠然としていて意味をなさないといい、ついには、「ミモザ」とも韻を踏むその音の響きの良さから「総状花序」の花を意味する“racemosa”(ラセモサ)という耳慣れない言葉を採用するに至る。

これは一つの例にすぎないが、自分のもとから喪われ、二度と取り戻すことができない故国を、言語によって仮構された世界に再構築しようと腐心するナイーブなナボコフの顔が立ち現れてくるではないか。物語性よりもパズルめいた言語遊戯を得意とするポストモダンな作家という従来の理解とは異なるナボコフ像が提出されていると言えよう。

『ヴェイン姉妹』、『ディフェンス』、『ロリータ』などの作品はあらかじめ読んでおいた方がいいが、この本を手にするような読者ならすでに読んでいるはず。そういう意味では読者を選ぶかもしれないが、文学にとって翻訳が意味するものを考えるという観点で読むなら、別にナボコフファンでなくても充分に刺激的な読書体験になろう。

作者自らが自己翻訳した訳文でさえ、オリジナルの文章とは、かなりの部分で異なる。むしろ改変することで、その言語を日常使用する者にとっては、かえって作者の伝えたいことが分かりやすくなっていることが分かる。そうなると、翻訳に比べてオリジナルが優れていると、簡単には言えないのではないか。よく成された翻訳の持つ有り難さが改めてしみじみと伝わってくる。世界文学は翻訳によって生まれる、ということが理解できる時宜を得た出版である。