青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『父、断章』 辻原登

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自伝的な素材を生かした短編をそろえた短編集。作家自身に限りなく近い「私」が登場し、主な舞台は郷里の新宮である。それでは作品が事実に基づいているかといえば、首を傾げねばならない。辻原登は、そんなに簡単に素の自分を語るようなタイプの作家ではない。

近松門左衛門の芸論を弟子が書き写した中に「虚実皮膜論」というものがある。高校生時代に古文で学んだ。虚と実の間にこそ慰みがあるといった内容のものであったと記憶する。本当ばかりを書いてもだめで、かといって嘘ばかり書き連ねても人を満足させることはできない。身体を覆う外皮(嘘)と剥き身の身体(真実)の間にこそフィクションの持つ妙味というものがあるといった話で皮膜と書いて「ひにく」と呼ばせるルビが振られていた。

辻原登は歴史的事実を丹念に掘り起こし周到に準備した材料の中に全くのフィクションを混入し、まるでそれが歴史上の出来事であったかのように虚構を創作する。その手際のよさは圧巻で、拵え物と分かっていてもついつい乗せられ、豊穣な物語世界を堪能させられる。辻原を読む愉楽はそこにある。今回は、その歴史的事実を自分史にしてみたというところか。

今回の自伝的作風もどこまで本当の話か分かったものではないのだが、それはそれとして、作家が自分を語り、自分の両親を語ることの意味について考えさせられた。小説家が描くのだから、事実であるはずがないのに、読者は語り口の上手さについそれを真実だと信じてしまうのだ。作家は作品の中で父を矮小化し続けてきたことに負い目を感じ(あるいは感じている振りをして)、本当の父の姿を描こうと試みる。それが表題作「父、断章」である。対になる「母、断章」と比べてもフィクション色の薄い自伝風の作品になっている。

泉鏡花の「葛飾砂子」を枕に、谷崎潤一郎佐藤春夫の妻交換の逸話を引きながら、文豪ゆかりのバーで過去の女性を思い出す「夏の帽子」がいい。題名からすでに涼しげな夏服につばの広い帽子をかぶった若い娘の姿が想像される。それだけで胸がキュンとなるのは作家と同世代の読者だけだろうか。功なり名遂げた人気作家が、修行時代暮らしていた神戸での講演を無事やりとげた余韻に耽るうち、ずっと忘れていたかつての恋人を思い出す。甲斐性のない作家志望の青年を応援し続けた娘を、成功した男は見捨てて東京で妻を娶ったのだった。講演の翌日妻と合流した男はかつて娘と登った六甲山のケーブルの中で、過去の不実を悔いる。この感傷、どこかで味わったというデジャビュにも似た思いが湧いた。種を明かせば冒頭の泉鏡花だ。映画演劇では『瀧の白糸』として知られる『義血侠血』をはじめ、男につくす薄幸の女を描いた作品が多い。伏線に鏡花の名文の持つリズムを持ってくるあたり心憎い。

巻末に置かれた「天気」は、新宮を舞台に過去へと遡行する等身大の作家が登場し、この短編集の自伝性を色濃いものにする。雲ひとつない青空が一天にわかに掻き曇り、沛然たる雨を降らす。天気の変化が過去を呼び寄せる予兆となり、リアリズム小説が一気に幻想味を帯びてくる。余韻の残る結末にため息をついた。他に「午後四時までのアンナ」、「チパシリ」、「虫王」の三篇を収める。