第2章
マーロウがテリー・レノックスを二度目に見たのがクリスマス前のハリウッド・ブールヴァードだった。彼は何日も食べておらず、ぼろ屑同然の姿で登場する。マーロウは、警官に見とがめられたレノックスをタクシーに乗せて家に連れ帰ろうとする。
タクシー運転手は、メーター料金以上のチップを受け取らず、かつて暮らしたフリスコで自分も辛い目にあったと話す。マーロウは、機械的に「サンフランシスコ」と口にするが、運転手は「俺はフリスコと呼ぶ」と固執する。清水訳では、何の説明もないが、村上訳では、そのあとに「少数民族を尊重しろなんてご託宣は願い下げだね。」と続く。
「フリスコ」は、サンフランシスコの俗称だが、正しい言葉で呼ぼうという運動があったのだろう。聖フランチェスコに由来する街の名を大事にしようというのは旧教を信じるヒスパニックの人々だろう。運転手はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの略、アメリカの主流派)と思われる。
多くの人種が暮らすアメリカでは人種間の軋轢は避けて通れない。上流階級の住む高級住宅地と盛り場を行き来するチャンドラーの作品には多人種への差別意識や偏見が頻出する。マーロウの日本人観にもそれは見て取れる。当時としては仕方がないのかもしれないが、読んでいて気になるところではある。
マーロウは腹をへらしたレノックスをドライブ・インに連れて行くが、清水訳では「うまいハンバーガーを食わせる」店らしいが、村上訳では「犬も食べないというところまではひどくないハンバーガーを出す」店になっている。これは新訳が原文に忠実。二重否定の構文が多いのも忠実に訳すとくどく感じられるところだろう。
さて、ヴェガスに行くレノックスがマーロウの家に置いていくことになる800ドルもする英国製の豚革のスーツケースである。特に訳に問題があるわけではないが、このスーツケースは妙に気になるアイテムである。何かが入ったまま預かっているマーロウにとっても気がかりだが、読者にとっても同じだ。
その来歴を聞かれて、レノックスの答える「ロンドンで人にもらったものだ。シルヴィアに出会うずっと前、大昔の話だよ。」という言葉が、再読時には胸にこたえる。そこに入っていたものが何か、最後まで読み通してはじめて分かるからだ。「読書は再読だ」というのは、ナボコフの言葉だが、映画でも本でも、何度も見返したり読み返したりするたびに新しい発見がある作品がある。そういう作品にめぐりあえるとうれしくなる。