第3章
第3章は、テリ−とシルヴィア・レノックス夫妻の再婚を紹介する新聞の社交欄記事の文体模倣で始まる。彼らの再婚を伝える社交欄の記事を読むマーロウは、かなり腹を立てているがおおよそ事実だろうと考える。その後に、“On the society page they better be"と続くのだが、これがよく分からない。村上は「新聞の社交欄で嘘っぱちを書いたら、ただではすまない。」と訳している。清水訳ではカットされている。基本的な単語ばかりで、短い文の方が、かえって分かりづらい。直訳すれば、「社交欄では、お行儀よくした方がいい」だろうか。
マーロウは、腹をすかせ、酔っぱらっていたころのレノックスの方に好意を抱いている。大金持ちの妻の金で何不自由することのない生活を送るレノックスには、「値札が付いている」ように感じられるからだ。それなのに、誘われると、バーにのこのこついていき、二人でギムレットなどという甘いカクテルを楽しむのである。ヤクザに惹かれる女心のようなもので、堅気の男にはここがよく分からない。『ロング・グッドバイ』は、男の友情を描いていると言われるが、レノックスを前にしたときのマーロウはまるで母性本能をくすぐられて喜ぶ女のように見える。
それは、ともかく、開けたばかりのバーでの二人の会話に登場する有名なギムレットに関する講釈や、マーロウがよだれを垂らしそうになるスポーツ・カーというハードボイルド探偵小説につき物の小道具がにぎやかに登場する、この章は読みでがある。豚革のスーツケースはここでもまた言及されながら、マーロウの家に置かれたままになっている。スーツケースについている金の鍵は、文字通り、この小説の謎を解く「鍵」なのだが。
時間の経過に従って話を進めながら、章の終わりにくると回想表現が混じるスタイルは、これから起きるであろう悲劇を予感させ、読者をはらはらさせながら、それをとどめるすべを持たなかった男の悔恨をにじませるという効果を発揮する。これ以降の作家が踏襲することになるハードボイルド探偵小説お定まりのスタイルである。
第3章で、再会したテリー・レノックスが乗ってきた車がジュピター・ジョウェット。最新流行の英国製スピードスターである。作中では、赤錆色に塗装されている。とくに自動車に関心があるわけではないが、と言いながらもマーロウはかなり熱心に解説を加えている。
「薄手のカンヴァスの屋根。その下には二人の人間がようやく腰を下ろせるだけのスペースしかない。薄緑色の革の内装で、金具一式は見たところ銀製のようだ。とくに自動車に関心があるわけではないが、その車を見ていると口の中にいくらか唾がたまった。」
こんな車で迎えに来られたら、誰だって助手席に乗ることを拒めまい。もちろん、かくいう私だってそうだ。