第5章
さて、第5章である。
最後に飲んでから一月後、朝の五時にテリ−がやってくる。コートに帽子、そして手には拳銃という古いギャング映画のような格好をして。この“Old-fashioned kick-em-in-the teeth gangster movie"もよく分からない。スラングなんだろうが、emはthemだから、「歯の間に奴らを蹴り込め」となる。村上訳では「一昔前の非情なギャング映画」になっている。スラングというのは、時代とともに変化するだろうから、翻訳では手こずるところだ。直接アメリカ人に訊くのがいちばんだろう。
面倒なことになったと切り出すテリーを、マーロウはわざと相手にせず、コーヒーを淹れる。コーヒーメーカーを操るその手順を、まるで料理のレシピ本のようにひとつひとつ詳しく説明する。緊張した雰囲気のときには、ふだん何気なくしていることもいちいち気を入れてしなければならない。なるほど、と思わせる。人間心理をよく知っている。
マーロウはかつて検事局に勤務していた。法律には詳しい。だから、犯罪に巻き込まれるのはご免だ。そうはいいながらも、テリーの話は聞いてやる。大事な部分には決して触れさせることなく。無論読者も同じだ。果たして、妻は死んだのか、テリーに殺されたのか、大事なことは何も分からない仕掛けになっている。マーロウの推測だけを聞かされるのだ。
豚革のスーツケースはここでも出てくる。メキシコに飛ぶために飛行機の出るティファナまで、マーロウはテリーを乗せてゆく。テリーはいやがるが、荷物も持たずに飛行機の乗るのは不自然だと言い聞かせて。荷造りをする間、ウィスキーを飲ませ、そっと眠らせてやるマーロウは、まるで母親のようだ。
清水訳ではティファナがチュアナになっている。ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスがヒットを飛ばしたのは、ずっと後のことになるからか。ティファナは、その頃まだ無名の国境の町だったのだろう。