『持ち重りする薔薇の花』 丸谷才一
いやあ、さすがに手なれたものです。こういうのを風俗小説というのでしょう。
財界や会社の人事にまつわる裏事情に始まり、企業買収のために関係者の趣味を徹底的にリサーチするやり口まで、知らなくても困らないが知っていてもいっこうに困らない、いやむしろ愉快か、といった話が、主筋の話に入る合いの手のように、次から次へと繰り出される。そこは丸谷才一のことだから、その手の読者を飽きさせないように艶っぽい話も用意して、これでもかという具合に供される。巻擱くを能わず。一気に読み終えてしまいました。ああもったいない。
かねてから懇意にしている二人。一人は財界の大物で元経団連会長の梶井。もう一人の野原は梶井とは雑誌の編集長時代からのつきあい。野原は取材で、ブルー・フジ・クヮルテットという日本人弦楽四重奏団の話を聞きに梶井のもとを訪れたところ。
クヮルテットというのは難しいもので、どんなにすぐれた演奏を聴かせる楽団であっても二年で喧嘩別れをするのが常という。少人数の集団が四六時中顔をつき合わせていれば、それも無理あるまい。それが、この四人組は、一度抜けたメンバーが再加入して続いているめずらしい例。ひょんなことから後見の役回りをしている梶井は、世間の知らない面白い裏話を知っているらしい。関係者の死後に公開するという条件で野原は話を聞くことに同意する。
とはいっても、そこは初めに紹介した通り風俗小説です。ミステリのような展開を期待されても困る。メンバーの間に起きるトラブルの原因は、男と女の問題に端を発する。それは、どんな社会でも同じ。ただ、精妙なアンサンブルを期待されるクヮルテットだからこそ、感情のもつれが軋轢となって構成員の調和が乱れる。ヴィオラの別れた奥さんにチェロが手を出し、それを吹聴して回るので、ヴィオラが退団をほのめかしたり、チェロの奥さんとヴィオラが駆け落ちしたりという、よくありがちないざこざ。
まだ若い音楽家たちの稚気あふれる逸話の間に、華やかな実業家人生の陰に隠された家庭内の不幸や、雑誌編集長の社内人事での挫折話が絡み、人生の有為転変が、酸いも甘いもかみわけた人の口を借りてしんみりと語り出される。まるで名人の語る人情話を聞いているような、いいあんばいの語り口です。
英国の小説にくわしい人らしく、階級差というものをうまく使っています。中流の上程度に属する階級の暮らしぶりが醸し出すスノビッシュな味わい。ニューヨークですき焼きを食べて、アメリカの卵にはサルモネラ菌が入っていて危ないが、この店は大丈夫と言わせたり、二人が会話の間に手にするシェリーがアモンティァードだったりと、読み手の気を惹く小道具の使い方がうまい。
クヮルテットの話だから、音楽談義が中心になるのは当然のこと。音楽史では一時代前の人のようにみなされているボッケリーニがハイドンと同時代人だったという事実や、ハイドンのセレナーデは二楽章がいいけれど、実は本人の作ではないという説が持ち出されたりと音楽好きには愉しい。スラブ的旋律が耳に残るチャイコフスキーのアンダンテカンタービレが、むしろモーツァルトに代表される西欧的音楽に近いのだという第一ヴァイオリンの話には我が意を得た思いがした。
圧巻は、ニューヨークの日本料理店で梶井にご馳走になったクヮルテットの面々が余興にやってみせる「忠臣蔵七段目 祇園一力茶屋の場」。チェロの義太夫に第二ヴァイオリンの口三味線、ヴィオラがお軽と平右衛門を早変わりでやってのける。第一ヴァイオリンが「成駒屋!」と大向うを務める。歌舞伎、中でも「仮名手本忠臣蔵」は丸谷才一自家薬籠中の演目。このあたりはお遊びでしょう。
抜けた第一ヴァイオリンに代わって加入したアイリッシュ系の奏者が、あまりにベートーヴェンばかりを持ち上げるので、チェロがかねて用意の難しい単語を繰り出して、自慢の鼻を折ってみせるくだりでは、英語原文をそのまま数行引いてみせる。『ユリシーズ』の訳者の一人でもある丸谷ならではの華麗なペダントリーだが、これもまた読者サービスの一環か。丸谷ファンの中には、音楽だけでなく英語に堪能な読者も多いにちがいない。
蘊蓄満載のエッセイ集はコンスタントに発表するが、長篇小説は寡作という、この人の久々の書き下ろし。弦楽四重奏など聴きながら、シェリーとまではいかずとも、グラス片手に読まれるなら至福のひとときをお約束しよう。