『極北』
いわゆる「近未来小説」。何らかの理由で人類が滅亡しかけた後に生き残った人々の悲惨な生活を描いた「ディストピア」ものである。しかし、この紹介ぶりから、よくあるSF小説を想像されると困る。たしかに、設定はSF的かもしれないが、内容はきわめてリアル。時代は現在より何年後か、その舞台は極北の地シベリア、視点は主人公に限定されている。
科学技術が発展を遂げ、人類に不可能などないと思われていた時代はとうに過ぎ去り、核戦争か、地球の温暖化による大規模自然災害か、何らかの理由で、文明社会は崩壊し、人々は生存できる土地を求め、極北の地に逃げ延びてきていた。しかし、そこには過度の科学技術信奉を嫌い、人間本来の生活がしたいと考えた人々が先に入植を果たし、キリスト教信仰に基づいた平和な生活を営んでいた。
主人公メイクピースの父は、入植者たちが作った街エヴァンジェリンのリーダーであった。かつての都会から流れ込んでくる難民を受け入れようとする主人公の父の一派と、拒絶もやむなしとする一派が対立し、入植地は崩壊する。家族を亡くし、ひとりぼっちになった主人公は町の警察官を自称し、無人の町をパトロールすることを日課にすることで、かろうじて日常性を維持している。
そんなとき、ピングという名の逃亡奴隷をかくまったことから、新しい仲間との生活に未来を託すメイクピースだったが、そのピングの死に絶望し入水自殺を図る。溺れかけた主人公が死に際に目にしたものが空を飛ぶ飛行機だった。文明の存在を知った主人公は再び生きることを誓う。飛行機を飛ばせる力があるということはそこに行けば未来があるということだ。
果てしない雪原を徒歩で、あるときは馬で、無法者と化した人々との遭遇を警戒しながらもメイクピースは探索をやめない。そう、馬に乗り腰にピストルを携えた主人公を持つこの小説は、ある意味フロンティアを舞台とした西部劇小説であり、ハードボイルド小説なのだ。
しかし、それだけではない。訳者である村上春樹があとがきで書いているように、この小説には「意外性」がある。それも、一つや二つではない。だから、むやみに面白いのだが、あらすじを紹介することがむずかしい「しかけ」に満ちた小説である。
根幹に流れるのは、「アンプラグド」の精神。つまり、プラグをコンセントから抜いたら、何もできない文明社会に対するアンチテーゼだ。メイクピースは、銃弾も自分の手で作る。まあ、店もないのでそうするしかないのだが、食糧を得たり、自分の命を守ったり、という我々文明社会に生きるものが自明とする一つ一つのことが、あらためて切実な意味を持って立ち現れる。
それと、もう一つは、このどうしょうもない世界で生きることの意味の問い直しであろうか。3.11以来、さまざまな論説が飛び交っている。真摯なものも多いが、時流に乗った発言も少なくない。やわな口舌の徒でしかない評者のようなものは、なかばこの世界のあり方に絶望しかけている。完膚なきまでに破壊された原発の姿を目の当たりにしながら、その検証もいまだしというのに、再稼動を言いつのる勢力と、それを政争の具としようと計る勢力のあいも変わらぬ争いに、うんざりするばかりだ。
しかし、最悪の状況に陥った主人公が、持ち前の強靭な肉体と精神力をバネにして何度でも立ち上がる姿に、ありきたりの言い方で申し訳ないが、読者は勇気をもらう。どんな時代、どのような状況下においても、人は生きねばならぬし、生きることには意味がある。放射能や炭疽菌に冒された人類滅亡の地で生き抜く主人公に比べたら、今の世界は、まだまだ可能性が残されているじゃないか。そんな気になってくる。
テーマは、それぞれ読者が見つければいい。一つ言えるのは、そんなものを抜きにしても、この小説は面白いということだ。一気に読み通すことを約束できる。翻訳は、大事なしかけを十分に意識したていねいな仕上がりになっている。一読をお勧めする。