青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『通りすがりの男』フリオ・コルタサル

f:id:abraxasm:20130403110512j:plain

詩はアンソロジーで読め、と言ったのは誰だったか。一冊の詩集には同工異曲のものもあれば、駄作もまじる。アンソロジーなら名詩ばかりで外れがなく、ヴァラエティーに富んでいるからだろう。同じことが短篇集にもいえる。一人の作家の持つ様々な持ち味を一冊の本の中に並べてみせることができる。

フリオ・コルタサルはベルギー、ブリュッセル生まれのアルゼンチン人。幼少時に帰国し故国で育ち、三十代半ばで留学生として渡仏。その後パリ在住。そのせいか、他のラテン・アメリカ作家の書く物とは一味ちがう。一口で言えば都会的で繊細なのだ。小説の舞台もヴェネツィアやジュネーブといった有名な都市であったり、固有名を持たない街であったり、とラテン・アメリカの地霊に縛られていない。

丸谷才一がその書評の中で、モーパッサンの短編小説の結末のつけ方は評判が悪いと書いている。どんでん返しがあざといと嫌われるらしい。丸谷はナボコフはその裏を行ったと続けているのだが、フリオ・コルタサルの結末のつけ方も独特である。結末に至って、それまでよく分かったつもりで読んでいた物語がふと見えなくなる、というか、読み違えていたのだろうかという疑念が生じる、そんな感じ。

超自然や驚異、珍奇な物、事件といった非日常的なものはまず登場しない。そういう意味ではチェーホフ的かもしれない。多くは市井のアパートや酒場、避暑地のホテルといった日常的な空間に一組の男女を配置し、その心理の綾を語るだけだ。ただ、その人間と人間の間にあるずれが生む葛藤を摘出して見せる手際のよさ。読者はそこに人間存在の思いもかけぬ顕現を見て畏怖すら覚えてしまう。はっきりしない終わり方という点もチェーホフに似ているといえる。

すれちがいの恋愛譚あり、大人になりかける時期の微妙な少年心理を鮮やかに切り取ったスケッチ風のもの、アラン・ドロンという懐かしい名前も登場するフィルム・ノワール風の一幕もあり、と多彩な作品が揃っている。作家は短編小説を一枚の写真に喩えているという。たしかに、長篇小説とはちがい、人生の一瞬を切り取って掌の上に差し出してみせるという点で、短編小説は写真に似ているだろう。ただ、それは読者や見る人の知性や感受性を動かす導火線のような働きを持つものでなければならないともつけ加えている。

個人的な好みをいえば、手紙のやりとりで知り合った男女が、あらかじめ創りあげた互いの像にしばられて現実の相手を見失う「光の加減」や、倦怠期のカップルが他人を装って避暑地でのアヴァンチュールを楽しむ「貿易風」のような作品が、洒脱な味わいを醸し出していると思う。

異色なのは、作家がニカラグアの革命運動に連帯し、世界にその実状を訴えたルポルタージュ『かくも激しく甘きニカラグア』所収の一篇でもある「ソレンティナーメ・アポカリプス」だ。他のルポルタージュといっしょに読んだときにはずいぶん主観性を強く押し出しているな、とは思いながらも、作品中の「ぼく」を作家その人と思って読んでいた。ところが、短篇集に収められるとその中に登場する「私」(訳者が異なる)は、虚構の視点人物としか読めなくなるのだ。ニカラグアの湖に浮かぶ小島の住民描くところの絵を撮影したスライドをパリの自宅で上映していると、そこにあるはずのない虐殺現場を撮影した映像が次々と映し出されるという、一見平和な島の日常の裏に隠された混乱の続くニカラグアの現在を二重露出にして提示する手の込んだ一篇だが、こうして短篇集の中の一篇として読むと、ルポルタージュとして読んだとき以上の衝撃を受ける。これが物語の持つ力だろうか。

翻訳は若い訳者の下訳に木村榮一が手を入れたものだろうか。話者の語り口に特徴のある作家の個性をよく生かして読みやすい。