青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『キャンバス』サンティアーゴ・パハーレス

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井伏鱒二が、自作の『山椒魚』を自選集に収めるに際し、結末部分をばっさり削除してしまった事件を思い出した。教科書にも載っている有名な作品を、いくら作者であっても勝手に改編することが許されるのか、暴挙ではないか、というのが批判する側の論拠であったように記憶する。

世に知られている芸術作品の作者本人による改編の是非を問うという意味で記憶に残っているのだが、小説なら改編前の作品は消滅しはしない。音楽であってもスコアは残る。だが、もしそれが絵画なら、どうだろうか。加筆された絵から加筆部分を除去すれば、オリジナルは保持できるが、画家が意図した完成作は消えてしまう。また、加筆された部分をそのままにすれば、画家の手によって新しく描かれた画家の意に叶う「完成作」は存在するものの、世に知られたオリジナルな一枚は消えてしまうわけだ。このジレンマを主題にしたのが、『キャンバス』である。

主人公ファンの父エルネストは現代スペイン画壇の巨匠として知られるが、画筆を握らなくなって久しい。父から代表作『灰色の灰』を競売に掛けたいという依頼を受けたファンの尽力もあり、絵は無事プラド美術館に収まることになる。ところが、美術館の除幕式で自分の絵を見た画家は衝撃を受ける。父は息子に絵は未完で、後二本描線を引かねばならないと言い出し、修正加筆を美術館に迫る。もちろん一度購入した絵をいくら描いた当人とはいえ加筆などとんでもないと、館長に拒否された画家は絵を盗み出す計画を立てるのだった。

エルネストの絵の師匠で贋作家のベニート、美術品専門の窃盗犯ビクトルという仲間を得て『灰色の灰』修正プロジェクトは進行するのだが、ファンの妻は当然猛反対。父と妻の間でファンは身を裂かれるような苦境に立たされる。はじめは計画に反対していたファンだが、ベニートの死を契機に父を助けようと盗みの仲間に入る。はたしてその成否は?

美術館にある絵を盗み出し、加筆修正の上返却という計画は、まるで映画のようにエンタテインメント性が強いようだが、作家の思い入れはそちらにはないようだ。本物の芸術家と単に絵がうまく描ける画家とのちがいはどこにあるのか。自身も才能のある画家が身近に傑出した天分を持つ画家を見出したときの絶望と挫折。ある種の天分に恵まれたがゆえに他を顧みることができなくなる芸術家の悩み、などという傍系の筋から見て、この作品は所謂「芸術家小説」の範疇に入れたほうがおさまりがいいように思える。

誰しも一度は何者かになれるような気がし、一生懸命励むのだが、あるとき自分の限界が見えて、自分の才能に見切りをつけ、一般人としての生活を送るようになる。本当になかったのは才能なのか、もしかしたらあきらめずに努力し続けていれば、それなりの者になれたのではないか。人並みの幸せなどに眼もくれず、努力し続ける力こそが天才を天才たらしめる所以ではないのか。そんなことを問いかけてくる苦い味わいも隠し持つものの、サンティアーゴ・パハーレスの持ち味である後味の良さは今回も健在。もしかしたら、この善良さが作品世界を若干軽く見せてしまうのに加担してしまうのではないか、と危惧してしまう。

木村榮一の訳は、書き手の特質をよく知ったこなれた訳でたいへん読みやすい。冒頭の伏線が結末にきっちり反映されるところなど、『螺旋』と比べるとストレートすぎる印象の残る構成だが、一気に読ませる力量はたしかなもの。