『翻訳に遊ぶ』木村榮一
ラテン・アメリカ文学にはまっている。一昔前にもなろうか、ラテン・アメリカ文学のブームが起きた。何事によらず、ブームとか流行とかには縁がなく、ほとぼりが冷めて人々が熱気を失いはじめたころになって興味を覚える天邪鬼な性行があり、今頃になって絶版になった本を探し集めては読んでいる始末だ。
ボルヘスだけは、ブームと関係なしに読んでいたが、当時スペイン語で書かれた本の訳者は鼓直氏、土岐恒二氏といった面々だった。『百年の孤独』を読んで衝撃を受け、ラテン・アメリカ文学の面白さをあらためて認め、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサ、フリオ・コルタサルと、集中して読むようになった。木村榮一という訳者の名前が目に留まるようになったのはその頃からだ。そのうち、訳者の名前に注目して、本を探すようになった。読み終えたばかりのサンティアーゴ・パハーレス(『螺旋』、『キャンバス』の著者)などという作家も木村氏の名がなければ、本を手に取ることもなかったと思う。
『翻訳に遊ぶ』という書名から、どんな余裕のある話かと期待して読みはじめたのだが、良い意味で期待を裏切られることになった。だって、そうではないか。ラテン・アメリカ文学といえば、今この人を抜きに語れない、飛ぶ鳥を落とす勢いの翻訳家が、日の目を見るかどうかも分からぬ翻訳をやっている姿を見て、奥方が「都はるみの歌にそんなのがあったわね」と話しかける。そんな歌があったか、とたずねる夫に「ほら、《出してもらえぬ翻訳を/涙こらえてやってます》というのがあったでしょう」とからかうのだ。
誰にも修業時代というのがある。有名翻訳家にだってそんな時代はあるのは当然だ。しかし、本を読んで思うのは、木村氏ほどの訳者にしてこんな時代があったのかという驚きである。神戸市外国語大学名誉教授ともあろう人が、どの大学も落ち、新設のイスパニア語学科にようやく引っかかって、指導教官に報告に行くと「ついていけるのか?」と真顔で心配されたというから尋常ではない。
この本、大きく二部に分けることができる。前半は、物語好きの少年が、どんないきさつで大学に入り、教員生活を始めたのかという、いわば著者の生い立ちを語る自叙伝風のエッセイ。後半は、ひとりの翻訳家として、翻訳についてのあれこれを、これから翻訳をはじめてみようかと考えている後輩に、その心構えや、知っておくべき方法論を、自分の体験をもとに具体的に教授してくれる翻訳指南の書である。
後半の翻訳論が、実際翻訳を手がけたいと思っている初学者にとって、滅多と得られない良質の指導書であるのはもちろんのことだが、実は、前半の裃脱いだざっくばらんな半生記があってはじめて翻訳実技の講義が読者の胸にすとんと落ちるのだ。いろんな学者やえらい大学の先生のお書きになった本も何冊も読んできたが、著者ほど、飾らぬ人柄をそのまま読者にさらしてみせる書き手を知らない。
一例をあげるなら、翻訳の文章ができず苦労していたある日、奥方に読んでもらい、問題点を指摘される。文章がよく分かるのは共訳者の書いた方ばかりで、自分の方は日本語になっていないといわれる。そのあげく、刊行された本の書評でほめられた訳文は、妻の手直しを受けてその通り書いた部分だったというオチまでつく。
こんな著者が名翻訳家になれたのは何故なのか。それは本を読んでのお楽しみとしておこう。少しでも文章が上手にかけるようにと、世に云う「文章読本」の類を何冊も読んだという打ち明け話も人柄をしのばせるエピソードだ。同じ本が何冊も評者の書棚にも並んでいる。三島の、丸谷の、谷崎のそれぞれの引用も、よく覚えているものばかりで、昔なじみに久しぶりに出会ったようで懐かしかった。同じ本を読み、同じところで感銘を受けているのに、著者の文章は達意の名文となり、当方のそれはいつまでたっても迷文でしかないのは、なるほどこういう訳だったか、と思い知った。昔からよく云われるとおり、「文は人なり」である。読みやすさは保障する。翻訳に興味がある人はもちろん、そうでない人も読んでみられるとよい。特に、これから人生を拓いてゆく若い人たちに手にとってもらいたい一冊である。著者の生き方に勇気づけられるにちがいない。