青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『春の祭典』アレホ・カルペンティエール

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「彼らを見なよ。企業の国営化に対抗して、ヤンキーたちがこれから輸出規制を強化することを知っていながら、彼らは歌っている。この国の食料品店は空っぽになるだろうし、車は交換部品や燃料の不足から止まってしまうだろう。歯ブラシ一本、タイプライターのリボン、ボールペン、櫛、ピン、糸巻き、温度計、何もかも手に入れるのが難しくなるだろう。それでも彼らは歌い続けるさ。私たちは目まぐるしい変化の中の重要な瞬間を生きている。新しい人間が私たちの目の前で生まれつつあるんだ。何が起ころうとも明日への恐怖を持たない新しい人間だ」

歌っているのは「ソン」だろうか。革命直後のハバナの街に立ち、民衆の姿を見つめる主人公に相棒が語りかける言葉だ。それから半世紀以上の時がたった。時折り眼にするハバナ市街の映像では、当時のまま時が止まったかのような流線型のテールを振りたててアメ車が通りを流している。小説家の言葉通り、物はなくとも人々は底抜けに明るく過ごしている。キューバのニュースが流れるたび、不思議な感動を覚えるのだ。人はこういう風にだって生きていけるのではないか、と。

作者アレホ・カルペンティエールはハバナ生まれ。大学で建築と音楽を学び、ジャーナリストとなるものの、マチャード政権批判により投獄。翌年パリに留学し、シュルレアリストたちと親交を深め、所謂「驚異的現実」に目覚める。『この世の王国』をはじめとする作品を発表するとともに、革命後は政府の要職に就くなど、ラテン・アメリカ文学を代表する作家の一人である。

革命と戦争の世紀と呼ばれる20世紀。ロシア革命、スペイン戦争、第二次世界大戦、キューバ革命と打ち続く戦乱に翻弄された一組の男女の半生を描いた一大ロマン。二段組540ページに及ぶ大作だが、時に入れ替わる視点人物が、エンリケとベラであることが飲み込めたら、後は一気呵成に読み進められる。背景となる舞台はロシア、スペイン、パリ、ニューヨーク、カラカス、キューバ、と転々と移動するわりに、登場人物は二人を取り巻く友人知人に限られているため、ストーリーを追うのは容易でわき道にそれることもない。

主人公の一人は、旧ロシア領バクーの呉服商の娘でバレリーナのベラ。もう一人は、キューバの貴族を叔母に持つ青年エンリケ。二人が出会うのはスペイン、バレンシア地方の地中海沿いの町ベニカッシム。スペイン内戦に参戦して負傷した恋人の見舞いに来たベラは、同じく負傷兵であったエンリケと出会う。ユダヤ人の恋人をナチに殺されたエンリケと、フランコとの戦いで恋人を奪われたベラはパリでともに暮らすが、しだいに激化する戦火を逃れてキューバに渡る。結婚し、それぞれ建築家とバレエ教師となった二人に今度はキューバ革命の混乱が襲いかかる。二人が最後に出会うのは、革命勝利に沸く野戦病院だった。

革命にトラウマを持つブルジョワ娘と、貴族の末裔という身分でありながら共産主義にかぶれ、ファシズムと戦うために国際旅団の志願兵となった青年が、一度はブルジョワ社会の中で生きることを選択するものの、キューバ革命という歴史的事件に立ち会うことで、否応なく革命に参加するようになる顛末を描いた長篇小説。

ディアギレフのバレエ・リュスによる『春の祭典』公演は不評であった。ベラはキューバの祭儀で踊るダンサーの動きをモチーフに新演出での再演を企図する。これが題名の由来。音楽批評家でもあった作家らしく、このバレエに関わるエピソードが面白い。完璧に仕上がりながらも、黒人ダンサーを受け容れられないキューバ社会や革命シンパの夫を持つ教師の主宰するバレエ団の入国を認めない米国社会に翻弄され、公演先の決まらないバレエ団の悲劇。

作家自身の経験を増幅したものだろうが、名立たるシュルレアリストや作家の面々が随所にカメオ出演してみせるのが憎い演出になっている。やれその椅子でアルトーが寝ただの、ジョイスの黒眼鏡ががどうしただの。アナイス・ニンがエンリケと従妹の不倫の目撃者にされていることにも驚いたが、アンナ・パヴロワに至ってはちゃんと長科白もある役で堂々と登場する。ヘミングウェイにも科白があるが、こちらは背中越しというのが、ちと残念。超有名な詩人、作家、画家、建築家、芸術家がみんな二人の知人として次々と登場するのが何よりのご愛嬌だ。ただ、いかにも顔を出しましたといわんばかりの軽い扱いになっているのはモダニズムやシュルレアリズムといった諸々の「イズム」よりも革命のイデオロギーであるマルクシズムを重視しているところを見せたかったのかも知れない。

惜しいのは、革命と戦争の時代に流されて自分を見失い、逃げ出してしまう二人の主人公より、没落してゆくグラン・ブルジョワとしての生き方に忠実な伯爵夫人やエンリケの従妹といった脇役の性格やその豪奢極まりない暮らしぶりの方が魅力的に描かれていることだ。もしかしたら、作家自身もそちらに共感していたのかもしれない、などとあらぬことを想像したくなるほどに。