『孤児の物語Ⅱ』キャサリン・M・ヴァレンテ
本作「硬貨と香料の都にて」は、夜毎スルタンの庭園で女童が童子に語る『孤児の物語』二部作の後半、完結編にあたる。できるものなら第一巻から読まれることをお勧めする。未来のスルタンである童子は、姉の皇女ディナルザドの監視を逃れ、森に続く庭園で両目の周りが隈どられた女童(めわらわ)に出逢う。眼の周りの隈に見えたのは、微細な文字を彫り込んだ墨の痕で、数知れぬ物語が描かれていた。女童は自らの瞼に摺りこまれた物語を水鏡に映し童子に語って聞かせるのだった。
ここまで書けばお分かりのように、『孤児の物語』二巻は、シャーリアール王の求めに応え千と一夜語り続けたシェヘラザードの『千一夜物語』に見られる「枠物語(より小さな物語を埋め込んだ物語のこと。導入的な物語を「枠」として使うことによって、ばらばらの短編群を繋いだりそれらが物語られる場の状況を語ったりするような物語技法)」形式を継承している。この物語の場合、女童と童子の物語が枠にあたるわけだが、この形式を採用することで、作者は自分が紡いだ数限りない物語を網状組織のように際限なく繰り込めるわけである。一巻が五百ページを越える分厚い書物とはいえ、二巻併せて千ページで『千一夜物語』の世界を現出させるのは並大抵ではない。そのためか、最小単位の物語一話分が非常に短いのが特徴である。物語の世界にたっぷりたゆたっていたいと思う物語中毒の読者にはその点少々物足りないかもしれない。ただ、その分、ありとあらゆる狂言綺語の頻出する様は前代未聞。よくもまあ、これだけ奇矯な物語を語り続けることよ、とただただ呆れるばかり。
『千一夜物語』の形式を借りてはいても亜剌比亜夜譚の雰囲気を期待する向きにはあらかじめお断りをしておかねばならない。たしかに前巻ではカリフや女教主が、この巻ではジンが登場したりはするものの、その世界は作者独特の想像によるもので、アラブ風の情緒纏綿たる男と女の物語などは、はなから期待しても無駄だ。混沌とした物語世界は、星や星座の物語にはじまる。その点ではギリシア神話の影響下にある。また、数多の鳥、獣、虫、魚が登場するところは、イソップをはじめアンデルセンやグリム兄弟の世界も下敷きにされているにちがいない。髪を地に杭で止められて身動きできなくなる逸話からはスウィフトの『ガリバー旅行記』が連想されるし、その他、原型となる物語は世界中の昔話や民話、寓話から見つけられるにちがいない。なんと、この巻にはわが河童も登場する。そればかりではない。「登竜門」の故事も、鯉を金魚に変えて変奏している。
この巻で特に目立つのは、それぞれの物語の主人公であり語り手でもある「人物」の異様さだ。
「飢えのあまり妻を食らい、各部を柳細工のパーツに置き換えてゆく不幸な男、商業主義の爛熟の末に市場が崩壊しても、なおも死体から硬貨を生み出し続ける工場、天の牝牛から産まれて尾を持ち、背中が木でできている一族の少女、あらゆる存在を肉体改造する力を持つ女発明家と彼女が生み出した自動人形、背中にさまざまな図面をあらわす蜥蜴を交配することで知識を得ようとする一族、月から剥がれ落ちたコウモリのような翼ある存在、はいたものに踊りを教えるシナモン材の靴」(訳者あとがき)
たしかに、臓器移植も人工臓器も現実世界にあり、何と何がひとつになっても別段異とされない時代とはなった。それにしても何という奇想であることか。禁忌というものがない世界では何が起き、何が滅亡しようとも、すべては許されているわけで、舌を抜かれ、足首を切り落とされても、いつかまたその代わりがあらわれる。そういう意味では、残虐な行為も一過性のものと感じられ、痛みも相対化されてしまう。そう、すべては物語の終りに収斂される現象でしかなく、美麗な色彩と類稀なる美声による歌に彩られる世界もまたひたすら虚しい。これだけ大部の物語を読み終えたあとに残るもののあまりに少ないことを訝しく思う。
その意味では、頻出するオブジェが、球状のものであったり、檻状のものであったり、内部というものを持たないのが象徴的である。皮は剥がれ落ち、肉は失われ、ただ骨だけが籠状に残っている上をマントで覆った渡し守が死の島と此岸をつないでいるのもまた同じか。絢爛たる修辞もどこか温かみを欠いた無機質なものが多く、さしもの繁栄を誇った都もその行く末は廃墟でしかなく、その無常観たるや比べるものとてない。シャボン玉の表面にあらわれる七色の文様に似て、目も綾に人の目を翻弄するが、その内部には何もない。次々と吐き出される華麗な球の表層にうつろう文様の奇想を言祝ぐのが礼にかなう仕種かもしれない。